城下町

三都と名古屋 江戸時代の都市比較 城下町

50年前の私の卒業研究結果から日本の都市史を始めます。その前史は、1200年間随一の都市であった京都なのですが、それは後の論文に回します。400年前忽然とあらわれた城下町から現代に伝える都市の話です。

400年前に日本150カ所に一斉にできた都市群・城下町です。他の門前町・港町・在郷町とあわせて、今に続く日本の都市です。わが町の文化として、過去を振り返り、歴史として誇りをもって残しましょう。

残すのは「お城」だけではありません。城下町が400年にわたって築いてきた都市文化です。

町の文化は与えられるものでなく、自ら作るものです。行政からの「面白い、人が仰山来る。」プロジェクトは広告代理店が作り出したものです。住む人優先の街づくりがあり、住む人自身が町を面白くしてこそ、郷土愛が生まれるというものです。

もう、国家(都知事でなく、大村知事でなく、河村市長でなく、首相)の意気軒昂を高めるためのオリンピック、アジア大会はやめるべき日本なのです。

山車祭りを今も行うには、報酬を求めない町内会のつながりが必要です。河村市長も東之切から王羲之車を曳きだす人なのですが、公園に商業施設を建てて「賑わっている。」と喜んでいます。公園の土地を商業施設に貸し出すのですから、民業の圧迫となるのですが、市民から河村市長への文句は出てきません。

昭和50年(1975年)の私の卒論から

半世紀前に作成した私たちの400年前の都市のデータなど今に生きることはないと思いつつ、この10年世の中を見てきましたが、地元の高校先生の郷土史家では、日本全体の中でわが町がどういう位置づけなのかは追えていません。ブラタモリでは、ブラブラしながら歴史を語るのですが、歴史の前の地理、地理の前の地学とうまく短くつなげて報じています。でも、難しいのでしょうね。

私は日本建築学会に所属していますが、建築学の中で都市学の声は小さくなる一方です。土木学会にも当然都市があるのですが、都市のインフラ設備として土木工学に何ができるのかの視点でしかありません。
ならばと、400年前の日本の都市データをここにアップします。ブラタモリで江戸時代の地図がよく出てきますが、ここに同一の表現で101カ所の江戸初期の都市地図があります。面積データも統一されています。

人は集まって住まざるを得ないから都市ができたのでしたが、その都市形成の理由も京都と同じく後回しにします。

まずは、400年前に忽然と日本列島に現れた城下町をフィジカルな数字として表します。半世紀前、私たちの手あかにまみれて算出された数字です。先日も犬山城下町の200分の1の模型を見ましたが、犬山市に都市史のデータとして城下町の姿をフィジカルに捉えることはありませんでした。今の時代にも使えるネタだと思いここにアップします。

正保絵図73枚を中心に、101の都市を明治30年頃の実測図と重ね合わせ復元をした地図が研究のベースです。正保年間に、幕府はオランダ渡りの平板測量で城郭と、城下町図を描き幕府に提出するように指示しました。400年経っても、道路幅は広がっていますが、地籍の骨格ははかわらないので、復元ができました。

※「正保絵図」とは
正保元年(1644年)に幕府が全国の大名に対して、国絵図、城下町図、城郭図の提出を求めたのものであり、国会図書館には62点しかありませんが、仙台とか、控えで手持ちしているものもあり、73点は残されています。当時の大名の数からして150点ぐらいはあったはずであり、国会図書館も131点あったと明記していますので、これから発見されることもあると思います。
絵図提出は、明暦まで下がりますし、元禄に幕府が追加の指示をしていますので、正保の断面で日本の都市を一覧することはできませんが、限られたデータからでも、現代に繋がる全国の400年前の城下町の都市計画の骨格について、多くの成果が得られると思います。
幕府は18ケ条の「覚」、海岸・湊の「覚」13ケ条を定め、元禄になると、31ケ条と「覚」3ヶ条をさらに指示しています。ようは、幕府が大名の「お城」を丸裸にする政策でした。

縮尺は「道法六寸を一里にいたし」と、オランダ渡りの平板測量が前提でした。堀の幅、深さも絵図に明記しないといけません。平板測量ですので、高低差は明らかにできていません。

元禄の「新国絵図」では、
1:城の絵図一枚
2:本、ニ、三丸の間数を書け
3:堀の深さ、広さ
4:殿守のこと
5:惣曲輪の広さ狭さ
6:城より地形高所、城との間数、総構えと高所との間
7:侍町、小路の間数
8:町屋町も同上
9:山城か平城か?(平山城かの問いはない)

これ以降に20か条が続きます。
10:本道は太く、脇道は遅く朱にて
11:本道に牛馬の通行が可能か?
12:船わたり、歩行わたりの広さを明示せよ
13:絵図に山木の姿を入れよ
14:海、川は水色にせよ

正保絵図の最終表現は、各藩が全国に散った狩野派のそれぞれの絵師に依頼し、印象仕様は整うのですが、その元図は武士が指示して描かないといけません。このあたりの幕府の指示に対して各藩がどう応じたかの詳細は「都市図の歴史」矢守一彦著1974年講談社刊をご覧ください。

使った資料と、その都市の名前

家康が関ヶ原の戦いで勝ち、1601年全国を城割り(徳川が800万石と筆頭となる封建領主による日本国の分割統治:藩主制)をし、1615年「一国一城令」により、藩に一つの城と定められ、藩の政治・経済の中心都市「城下町」が確立しました。1万石以上を大名と言い、その統治組織を藩としましたが、1万石では城郭を持てず、「陣屋」という館で済ませる事も多く、藩の数が城下町の数とはなりません。
現代に続く、江戸初期の町を数えてみましたが、150ほどでしょう。幕末になると藩は小分化され266と増えますが、都市理論「ハレー彗星の法則」により、小さな町の勢いは近くの大きな町に吸い寄せられ、藩は増えても城下町そうろうが増えることありません。農村の中の商業地である在郷町が増えていきます。全国地図で100余の城下町を以下に示しますが、これは「城郭の縄張」の分類地図です。すなわち、街道沿いに、領主の「郭」を構えていることは、武家地、町人地、寺社地を周りにおき城下町を構成していたことになるからです。

※注記 内藤昌が「城の日本史」1979年NHKブックスで、「郭の縄張」「天守の縄張」を提示しています。上記にある絵図は松江の「極秘諸国城図」74枚からです。江戸中期になると、このような絵をかいて「兵学」が論ぜられましたが、この城図は実測図である正保絵図と違い「兵学」の理念(学問の為の学問となっていました)を表したもので資料としては使えません。正保絵図のようなものから、後世に描きなおしたのでしょう。タレントの千田氏が「発見した!江戸始図」と騒いで本まで出していますが、半世紀前に内藤昌はこれらの絵図を研究対象とし、発表しています。 

江戸時代の都市図

研究のタイトルは、城下町の「町割り規模に関する研究」です。結論は下図の左です。中世から存続した町と、この桃山に生まれた町と、江戸初期に今回新たに作ろうとした町のそれぞれに、町割りの規模において特徴的な数字が出ました。都市のお手本となった京都は60間四方でした。秀吉は半分に割り30間×60間としたのですが、畿内から四国にある中世からの都市は40間四方であり、東北では80間四方と広がっていたのでした。

卒論の結論は、都市には「中世」「桃山」」「江戸」の三種がある。

梗概 近世城下町 町割り規模に関する研究 
典型的な 都市

都市毎の町割り単位の平均面積が如実に表しています。

和歌山だけが、このセオリーに入っていませんが、それは、個別に追いましょう。

「日本 町の風景学」内藤昌 著 2001年5月 草志社 刊

「日本 町の風景学」内藤昌 著 2001年5月 草志社 刊
107ページに5行
「日本の都市の基点・城下町は京都・江戸の120m角の町割り単位は、むしろ大きい部類であり、名古屋・大阪は100m角であり、小さくなる傾向があった。秀吉が京都の城下町化を進める時、町屋の機能性を高めるために、120m角の真ん中に道を通し、短冊形の町割りをつくったので、短冊形の町割りも多い。中世以来の手工業の発達による町が城下町となった近畿の町と、開発がおくれた東北の町とでは、近世の都市計画=町割りにおいて、単位の長さにおいて大きな差があった。畿内はますます小さくなり、80mに、東山道では160mとなっている。」

たったこれだけの文章の為に、私は内藤の元で1年研究をしていたのです。まぁ、少しは学研に役だってはいたかと、65歳にして23歳の自分を褒めておきましょう。

恩師が69歳にして、あえて建築にふれず「都市史」だけで、まとめたものです。朝日新聞・中日新聞への連載を元にしており、章立ては短く、その点では読みやすいはずですが、なんせ「都市史」としての研究成果を、持ち前の探求心と博学でもって語るのですから、「都市史」において内藤昌の弟子であった自任する私には重いことこの上なしの本です。

私に「都市史は君のこれからの設計人生に生きるから、是非やりたまえ。」でしたが、内藤先生の「都市史」の本はこれだけです。タイトルを「日本都市史 序説」として、岩波文庫で出せばもう少し売れたと思うのですが、それなら明治からの鉄道・港湾・工業都市に触れないといけないと思い、あえて「風景」にしたのでしょうか。
論考は「住みたさ」を求めるには、江戸時代の町の規模、仕掛けに戻って考えよ。人は歩ける町の中でしか幸せを感じ取れないと、21世紀の超情報化社会に警鈴をならして、終わっています。

谷口吉郎先生の欧州の都市見聞のキモから始めている所が、私には不思議な感じでした。当時40代の内藤の口癖は「研究はフィジカルであれ。」でしたが、69歳ともなると気のおもむくままに筆を進めています。数字より詩人が都市の姿を語るのでは、私にはなんともやるせません。しかし、私の40年の設計人生を振り返る時、設計作業は確かにデジタルな数字の積み上げですが、それをとりまとめ、お金を出す人を納得させるためには、私も「詩人」ではないですが、「コンセプト」なる言葉使いが必ず必要でした。
ブルーノタウトが指摘したように、桂離宮と東照宮は共に江戸初期の建築ですが、デザインは対極にあります。内藤先生はこのどちらも生んだ安土桃山のデザイン感覚を他の事例をあげて学生に探るのでした。一つはマニエリスムであり、もう一つは「奇想の系譜1970年辻 惟雄」でした。先生の安土城天守の芸術論・宗教論「天道思想」には、学生のコメントが先生によって昇華されて入っています。
建築家である私の血となっているのデザインソースは、桂離宮から数寄屋に発展した和風住宅です。生まれ育った環境が私の感性を育てており、材料が木材から鉄とガラスに替わっても変わりません

内藤の著書は多数あり、城の著述にも必ず、城下町=都市を書いています。日光東照宮では門前町を語り、島原の角屋では遊郭の町を語り、桂離宮では公家文化と修景の技に言及しているので、この本の短い著述の奥に膨大な調べものがるあるのを私は知っています。本の後ろに膨大な参考文献があるのですが、読み進めるほどに、参考文献を確認し、私の勉強不足を知らされるという重い本です。

卒論は数字ばかりです。膨大なのでPDFにしています。

昭和49年卒論 高橋和生-1

三都

三都は明治になっても、三府とされて特別でしたが、今は東京都が図抜けてしまいました。名古屋、金沢も大きかったのですが、武士の住む武家地が明治になってスカスカになり、都市化が遅れました。

江戸初期の都市比較

名古屋の数字の元ネタを出しておきます。すべての都市において、このように算出しています。

江戸 は、寛永の繫栄と言われますが、寛永は京都が人口40万人と一番栄えた時でした。江戸は人口100万人と18世紀当時、世界一の都市に成長します。しかし、町人地は増えていません。裏長屋の人口密度はすさまじいものです。

江戸の都市図の変遷

京都 は、平安京の四角は早々に東側だけになり、それを秀吉はお土居で囲い、聚楽第を中心とした城下町にしました。

京都の江戸初期図

大坂 は、やがて商人だけの町となり、元禄文化を咲かせました。大坂が40万人になると、京都は20万人に減ります。

江戸時代、大坂の発展

畿内

東海道

東山道

北陸道

山陽道

山陰道

南海道

西海道

港町

門前町

在郷町・商工町

高山
津島
京都
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