田原 城下町 1万石 with吉田 7万石

城下町
名工大建築学科 昭和49年度学士論文より

渥美半島は田原市であること皆さん知っていましょうか。そして、江戸時代に田原藩が渥美半島にあったことなど知らないでしょうね。私も名工大内藤研究室に入ってから、豊橋市はかって吉田藩であり、城下町であったことを知ったのですから当然です。愛知県民であっても尾張人は三河を知りません。私もそうでした。 
田原藩は1万2千石ですので、ギリギリの大名です。三宅坂に名前を残した三宅氏が1664年から藩主を務めていましたが、田原藩で有名な人は家老を務め、自殺した渡辺崋山(1793~1842)でしょう。
蘭学が原因ではなく、彼は周囲の声を聞き間違え、自らを追い詰めて自殺したのですが、文晁に師事した絵は国宝になっています。

幕府は、正保1644年に「領国、城郭、城下町を描き、幕府に提出せよ。」と各藩に命じました。領主が守る城を丸裸して「幕府に恭順せよ。」ということでした。目次によると130枚はあるはずですが、国会図書館に残っているのは63枚です。その中に田原の城下町図があります。陣屋規模の0.37㎢しかないのですが、中世の平山城を引きついだ形を今も城址として現地に残していることが貴重です。そこにこだわって書いていきます。
私の「近世城下町の町割り規模の研究」では復元図が怪しいので、亀山、関宿、笠間と共に、町割り規模のデータから外しています。

縄文から、1480年戸田宗光の田原城築城まで

田原城から田原湾方向に歩いて15分の所に、吉胡貝塚があり、田原市は貝塚資料館「シェルマよしご」を設けて、遺物を展示しています。人骨、土器、石器、骨角器など、4500㎡の貝層から出土しました。

シェルマよしご
シェルマよしご

狩猟生活に、渥美半島は適していたのでしょう。鹿・猪より、豊富な貝・魚の方が得やすいのでした。特にクロダイとフグが多いそうです。生活の遺物に比して、あまりの貝の多さに貝を煮て干し、商品にしていたのだという考古学者もいます。
弥生土器も出土しています。海水を煮立てて塩を取る土器は、渥美半島、知多半島に多いです。塩を商品としていたのでしょう。
「穂の国」と呼ばれた豊川沿いに水田開発が進み、三河国の国府、国分寺、国分尼寺は、矢作川でなく豊川に置かれました。遺構が見つかり、国分尼寺の門が復元されています。

古墳は豊川沿いにあります。ここに、三河の国府がおかれたのは、矢作川沿いが、拳母(上流)、岡崎(中流)、西尾(下流)とわかれたまま、大きな首長の元にまとまらなかったのではないかと思います。墳長は40m以下と小型です。
田原市博物館 二の丸櫓内の展示物

西行法師(1181~1190)が、伊勢から渥美に渡ったことを示す歌があります。伊良湖水道(度合)の潮流は早いのですが、伊勢と渥美半島との海運は古代からありました。伊勢神宮への貢物として日間賀島が有名ですが、渥美半島にも伊勢神宮領がありました。
渥美(あつみ)は海人を束ねた安曇(あづみ)連が住んだところから、転訛した地名だという伝承があります。

古窯は、鎌倉時代になると渥美から消えて、知多郡は常滑に集中し、窯は、猿投、瀬戸、東濃と広がります。
古墳は、田原城の城宝寺に7世紀初頭の横穴式石棺をもつ直径20mの円墳があります。豪族もいたのでした。

田原市教育委員会からの「渥美半島の城館」平成24年刊は力作です。田原藩の藩校「成章館」も1810年に作られており、藩がちゃんと機能して歴史整理ができていたことが分かります。

平安時代にあった、国衙、御厨、神戸、御園のリストです。貴族は律令制度の枠を逃れ、自らの収入にするべく荘園を広げていくのですが、鎌倉から室町時代にかけての和地荘・村松荘の荘園名がありますが、渥美半島は水の乏しいやせた土地ですので、公家にとっておいしい大荘園とはなりません。

「文明12年(1480年)ころに戸田宗光(全久 1439~1500?)によって田原に築城され、戸田氏の三河湾支配の拠点となった。」と、田原市史は始まりますが、戸田氏とはなにものでしょうか。大垣藩も戸田氏でした一族なのでしょうか。

三河は、1221年足利義氏が守護となってから、足利の諸氏が三河に立ち、幡豆郡を本貫とする一色刑部は、 1379年に三河の守護となり,在地の国人勢力や地侍などを取り込んで領国を支配しましたが、1441年に細川が守護となります。1465年に丸山中務入道や大庭二郎左衛門ら国人の額田郡一揆が起きると、守護の細川成之は、裏で糸をひいているのが幕府の政所執事伊勢貞親の配下の戸田宗光(全久)と彼の義父・松平信光(徳川家康の祖)とみて、一揆を彼ら国人に制圧させます。
宗光は公家の正親町家の領地であった三河碧海郡上野に京都から移り住み、代官をなしていました。応仁の乱(1467年~1477年)では、彼は西軍に組します。1475年には三河渥美郡に入り、同郡大津村に居城を移します。1480年の田原城の築城により、渥美郡全体を手中におさめます。また、かねてより知多半島にも進出していて、知多郡師埼(南知多町)から同郡河和にかけての知多半島東海岸に勢力を拡大し、同半島西岸を支配する佐治氏と対峙していました。戦国時代の始まりです。

戸田氏をウイキぺデイアで見ましたが、尾張国海部郡戸田(現・愛知県名古屋市中川区戸田一帯:私の育ったところ)によって戸田氏を称したといわれていますが、14~5世紀の事となりますので実際はわかりません。ここで取り上げた、朝倉川南岸の二連木城(豊橋市)や渥美郡一帯を支配した戸田宗光からの一族が、徳川の家臣に組み込まれ、主流となったようです。江戸時代、譜代大名としては6家が幕末に至っています。戸田氏の嫡流は徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長(1562~1633年)以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつとして数えられました。嫡流は主に松本藩を与えられています。支流には主に宇都宮藩として7万石を与えられていた光忠系、主に美濃国大垣藩主として美濃に10万石を許されていた一西系などがあります。そのほか旗本となった家や、甲府藩、水戸藩に仕えた者もいますので、清和源氏の流れを汲むと、自ら戸田姓を名乗ったのでしょう。

戦国時代、館城が多く作られました。田原城も山城から始まり平山城に

2代目戸田憲光の時の戸田氏の最大版図を示します。豊川を超えて宝飯郡まで手を伸ばしており、牧野氏、西郷氏と、東三河の勢力争いを行い、安城から三河を制した松平清康(家康の祖父)に一旦は従うも、東の大国、今川からも攻められます。
戸田の城は、田原以外に、大津、大崎、二連木、今橋とあります。今橋は今は吉田城遺跡として整備されており、江戸時代の吉田宿を抱える平城の姿を見せてくれていますが、戦国時代の今橋は山城であったのではないでしょうか。吉田城郭は、山を削り、堀を堀り、二の丸、三の丸と大きくしていったのだと思います。岡崎城では、山を崩したのが関ヶ原の戦いの後の本多康重であるので、記録が残っているのですが、吉田城は池田輝政が縄張りをし、工事をしたからでしょう、記録は残っていません。

天文16年(1547年)、4代目・戸田康光(宗光)のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康。康光は義母の父に当たる)を護送する任を受けるも、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送ってしまったため、今川義元の怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城、城主康光も戦死した。と、伝えられています。

明治3年 田原藩図  城下に取り込んだ街道(吉田⇔伊良湖)がこれで分かります。
田原市教育委員会 「渥美半島の城館」より

内藤研究室の先輩は、正保絵図の写真を明治の白地図と重ねて、困った事でしょう。絵図は城郭を大きく、武家地を大きく書いており、町人地が小さく、寺町はありません。三河湾に流れこむ汐川下流の沼地を江戸時代をかけて干拓していったのでしょう。実測図としては使えないのですが、国会図書館の63枚の貴重な正保絵図の一枚ですので、トポロジカルに復元しました。

田原城 城郭

田原城の城郭の姿を語る前に、「城」「天守」を説明します。

西尾城に移封されたお殿様は「城と言えば、天守閣がないといけない。」と思い込み、二の丸に3重の隅櫓を作り「天守」と正保絵図に書き込みました。吉田城では3重の隅櫓はあっても「鉄櫓」であり「天守」とは言っていません。駿府城、名古屋城のような5重の大天守でないと、東海地区の城下町としては「天守」とは名乗りにくかったのでしょう。
しかし、今も一般には「お城イコール天守閣」ですので、西尾市は天守台を堀底から復元し、清洲市、岐阜市は天守をコンクリートで復元しています。天守を持たない城郭、城下町は多くあったのですが、その持っていなかった町がコンクリートで天守を作ってしまい、それを「復元」という異常な世界が「城」にはあります。田原城は「二の丸櫓」をコンクリートで1952年に復元し、「桜門」は1992年に復元されています。「天守」はありません。
「城」の漢字の原意は、あぜ道、土壁であり、city の日本語訳は「都市」ですが、中国訳は「城市」です。中国の都市は城壁で囲まれていたからです。「シロ」の日本語は、イナワシロのシロと同様に、壁にとらわれない「領域」を示す言葉でした。城(キ)は日本書紀にありますが、この場合は唐に攻め込まれる事を想定した砦です。

慶長2年(1597年)村上要害図 山頂と山下に分かれている

中世の城は、館城であり、住まいの館を堀と土塀で防御し城としたものでしたが、戦国時代になると、逃げ込む「山城」と、普段の住まいであり、政庁でもある「山下」「根小屋」を山裾に別に作るようになります。上杉の春日山、織田信長の金華山が「山城」にあたります。
砦でなく「要害」と吾妻鏡では書かれていました。近世になると「山城」と「平山城」「平城」に比して言われます。
天守閣とは明治になってから、レストラン経営者が、観光目的に金閣にならって「閣」をつけたものであり、建築学、教養人の間では「閣」はつけず「天守」と呼んでいます。天守のインテリアは信長は飾りましたが、以後「閣」と呼べるものではありません。

「天守」は、信長が安土城で「天主」として作ったのが初めてです。「殿主」は、京にあった高級武士の住まいですが、信長は「天主」に住んだので、秀吉は混乱して手紙に「てんしゅ」を使っています。大坂城「てんしゅ」を秀吉が自慢げに宣教師に見せる様を宣教師が残しています。

田原には「天守」と呼ぶものはなかったのですが、城下を睥睨する「てんしゅ」はありました。戦後の復興天守ブームに乗って2重の櫓をコンクリートで復元していました。領主のシンボルとして民に見上げられなくては「てんしゅ」の用をなしません。物見櫓から発展した「てんしゅ」ですが、もはや物見櫓ではありません。用をなせば、5重でなくても、3重でも、2重でも「てんしゅ」です。

浅井の小谷城  山城を開削して、段々に城郭作る。根小屋でなく山頂に住むために。
安土城 信長は小谷城をマネをして、天主に住む。
建物の敷地は開削を少なくするために段々であるが、城郭としては一つの囲いでしかない。後世の、二の丸、三の丸の呼称はまちがい。
大手道もまちがい。城下に抜けるのが大手道の定義であり、それなら尾根伝いとなる。この幅広の山頂への直道は施工用だった。それに石を張り、新たに作った街道に威容を見せた。
伝大手道を復元したが、実際は石垣はもっと積み上げられていた。1582年完成
田原城 城郭図
内藤昌 「城の日本史」より 
江戸時代後期になると、軍学として城の縄張りが論じられる。
平城となって梯郭式が普通になる。平山城は連郭式でしかありえない。どこの山を城として利用するかが城の全て、から、秀吉采配の国持ちの大名となると、人を動員し、堀を堀り、造成し、石垣を詰んで城郭とした。秀吉時代、文禄の城づくりはあったのだが記録が少なく、家康采配の国持ち大名の慶長の城づくりとの区別がつかない。唯一、残った石垣に、天守50年の歴史を想像するしかない。

田原城の前に堀があるって?オカシイ!山の上に水をたたえてある堀があるはずがないです。これは今も昔も、池でした。城下との間の斜面には堀を掘れても、あとの3方は10mの崖になっており、堀はつながりません。防御のための実利より、城としての景観から「堀」を作ったのではないでしょうか。

田原城 桜門前  小ぶりの野面石積 池田の吉田城に似ている
田原城 堀に見せている池 
桜門1992年復元 妻面 コンクリート造 手前はトイレ
なめこ壁は金沢城が有名である。
右奥が二の丸櫓であり、ここは西から上る路 二の丸周りだけ石垣がある。隅石の加工が少なく、安土城の技術レベル。
コンクリート造の二の丸櫓
本丸は神社ですが、周囲は高さ3mの土塁
一応データを出していますが、使えません。

ブラリ、田原 城下町

田原市が、正保絵図、幕末絵図、明治の白地図から、地籍図から城下町を復元しています。しかし、この武家地は多すぎますね。幕末の復元の根拠となった絵図を田原市は示していません。

馬場から10mの城山を見る 道が広く、電信柱もないのに驚く
昭和2年 鉄道が引けたとき、城下町と駅の間を区画整理し、城下町の道も一斉に広げていた
見やすい道標があるので間違えようがない。駅から1500mの城までの歩きはちょうどよい距離だ。
渡辺崋山の墓と 古墳
武家地と町人地の間に、川があり、そこに惣門があった。石垣は確かにそのころのもの。
大手の曲がりにある枡形
枡形から西の武家地を見る。道幅は広げられている。
枡形から、大手道を城に向かって一直線に見る。左は武家地、今は小学校、幕末は藩校。
おかざい城の西側から、田原市の博物館(310円)を見る。手前の長い塀は、駐車場を隠すためのもの。西尾市がひどすぎたのであって、田原市はちゃんとやっている。観光客にこびないところがよい。

西尾城の時の岡崎城と同様に、吉田城を出さないといけないのでしょうが、50年前に内藤研究室では、吉田城を見ていないので、今回、鉄櫓での初見のチラ見だけのフェイスブックからはじめます。

鉄櫓の無料の展示物からアップします。目に前に、遺跡があるのですから、「ブラリ、吉田宿」に、どのように、展示物を利用したか、吉田を訪れたその時の感覚でフェイスブックを書いています。ブラリの参考になれば。

フェイスブックから、以下の5枚をこのブログに抜き出しました。城下町より、城郭ですね。

城下町図の武家地に、武士の名を入れるのは、名古屋城下をはじめいくつかあります。正保絵図は「侍町」ですまされているのですが、そのベースに切り紙に書いて張り付けているのが普通です。武家の交代があれば張り替えで済ませたのでしょう。大火事によってすべて焼け、あらたに火除地をもうけて、全く線の引き直しになったこともあります。江戸時代は240年ありますので、いつの時代の絵図かを最初に確認しないといけません。
この豊橋図書館蔵の吉田藩士屋敷図ですが、藩士の名前と屋敷の坪数から、幕末のもののようです。明治20年代の白地図とは当然あうのでしょう。江戸の絵図が定規で直線を引くに、復元図が震える手書きなのは、復元の「不確かさ」を表現したかったのでしょう。

幕末の吉田城下町

天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統じる15万2千石の城主とされました。1594年輝政は秀吉のあっせんで家康の2女をめとります。現状残った城跡と、彼の「城づくり」の連関のほどはわかりませんが、領主がだれだかはわかりますので、領主を追ってみます。

①池田輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。整備は11年間にわたって行われたが、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601年)に輝政は播州・姫路に移封された。名城、姫路城の練習台になったのは、田中の柳川城の練習台となった岡崎城、西尾城と同じである。

そのあと慶長6年(1601年)2月、武蔵八幡山藩から徳川氏譜代の重臣・竹谷松平家の
②松平家清が3万石で入ったのだが、どこまで池田が城をつくり、松平が子の
③松平忠清と共に1612年に断絶されるまで、池田を受け継いで城つくりを行ったのか。

さらに、三河深溝藩から
④松平忠利が入る。しかし第2代藩主・
⑤松平忠房時代の寛永9年(1632年)8月11日に三河刈谷藩に移封。入れ替わる形で
⑥水野忠清が入るが、寛永19年(1642年)7月28日に信濃松本藩に移封される。

駿河田中藩より
⑦水野忠善が入るが、正保2年(1645年)7月14日に三河岡崎藩に移封される。豊後杵築藩から⑧小笠原忠知が入る。

池田輝政から正保に至るまで50年で8人の藩主が代わっていては、誰がどんな工事をしたか、その資料も乏しく、わかりません。名古屋でいうと、初代藩主・義直でなく、家光の娘と結婚した2代藩主・光友(1625~1700年)が、慶安から寛文の時代に、城下町を拡大し確定していますので、松平忠房、水野忠清までには、足軽町、寺町もできていたでしょう。
城郭は、池田の縄張りに従い、大坂の陣の前までには、松平家清、忠清がまとめていたでしょう。池田輝政の文禄の「野面積」=天守台と、松平親子の「打ち込みハギ」「切り石の隅石」=多門櫓が並んである姿から想像しています。

右が川手櫓 正面が鉄櫓 左が多門櫓 石垣の違いから年代が違うのがわかる。鉄櫓が真っ先に作られた、
文禄と慶長の二種類の石垣があります。池田とそのあとの松平との合作の城ですが、計画は池田でしょう。姫路城練習台になっています。
吉田城 模型
豊川から見た吉田城 模型  ここに見える階段はとてもじゃないが降りれない。
現代の白地図に、手書き風に江戸時代の城を表現 確定はできないから
写真に合わせるために、上下さかさまです。
吉田城 明治4年の写真
明治の写真 東海道の橋から見ていますが、鉄櫓はないです。

吉田 城下町について。鉄櫓(くろがねやぐら、入場無料)の展示から

展示物は、パネルが壁にブラ下っているだけのいたって簡便なものです。読みながら4階を上るのですが、穴倉と展望階は展示の壁がないので、2階と3階の2層でしかありません。文字数をすくなく、絵が多いので見やすいですが、頭に残りません。
写真を撮っておいたので、改めて読み、史料批判としつつ、城下町面積0.84㎢、東西1400m×南北600mの内容を見ていきます。規模は小さいですが、それだけに城下町の設計がわかりやすいです。

吉田城下町を現代の地図の上に重ねている
鉄櫓 3階 床に現代の地図に、江戸時代の地図を重ねている。
吉田城 鉄櫓 最上階
最上階 姫路城を作った池田輝政とはあるが共通点が何かはない。

「諸国当城之図」(伝・広島藩主浅野家)の中からの絵図について

この吉田城下町図は、当時、現存した154城を描いた絵図集「諸国当城之図」(広島藩主浅野家)の中にあるものです。江戸中期に書かれたものです。

現代地図には、ピタッとは行きません。東海道は幅7,2mでしたが、現在は20mありますので、道路拡幅の中で角度が変わっています。水路も、土塁ですと幅が広がります。現代土木技術では、その幅を狭めるか、地中埋設にするので、これピタッとは行きません。

また、城絵図集として「諸国古城之図」も伝えられています。東北から九州までの各地の古城を描いた絵図177枚からなります。 とりあげられた城の大部分は江戸時代前期の時点で既に廃城となっていたものです。
それぞれ『浅野文庫所蔵 諸国当城之図』(原田伴彦編 新人物往来社 昭和57年)『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』(矢守一彦編 新人物往来社 昭和56年) が刊行されています。

タレント千田氏が「発見した!江戸始図」と騒ぎ、「江戸城は白かった。」と著作をものにした、松江の「極秘諸国城図」74枚と同様に、江戸後期の兵学の為に集められた絵図であり、江戸幕府が一斉に書かせ提出させた正保絵図のような信憑性は持ちません。

江戸後期になると机上の兵学が生まれ、「鉄壁の守り」を求めます。「上喜撰たった四盃で夜も寝られず」のごとく、大砲に、漆喰で固めた木造工作物では太刀打ちできません。

兵学では、防御、攻撃に応じて土塁、石塁をどのように構成するか「ちぎり縄、やまと縄、沈龍縄、現龍縄」と塁の縄張りを述べています。テレビタレントが「難攻不落、最強の城だ。」と喜びさわぐネタですが、大坂冬の陣では、14kgの砲弾を6.3kmも飛ばすカルバリン砲の前に、堀も塁も意味はありませんでした。

内藤研究室の「城の日本史」では、トポロジカルな計画理念としての郭の分類(梯郭式、連郭式、環郭式、渦郭式)天守の分類(梯立式、連立式、環立式、単立式)には使用していますが、「フィジカルな数字」を求める絵図として使っていません。

ただし、この吉田城下町図は、もともと正保絵図があって、それに何回も手を入れてきたものであり、「諸国当城之図」の中では、町の実態を読み取れる絵図であり、豊橋市は武士の名前が入った別図と共に、現在の町に重ねて復元をしています。「諸国当城之図」と比べてください。江戸後期の軍学の絵図は「絵」であり「図」ではありません。

内藤研究室が正保絵図にこだわったのは、平板測量された実測図というだけでなく、江戸初期の絵図がまとまってあることから、「城下町の計画がどうされたかを探る。」に適しているというのがありました。
240年後の明治の実測図はあるのです。しかし、江戸時代も中期以降の発展拡大した城下町のデータを初期の城下町に混ぜると、都市計画のイデアを濁らすことになるので、研究データの取得対象から外しました。

町割り

町中水払水道絵図 には驚きました。武家地を武士の家ごとに宅地割りしたのは見ていますが、町人地をこのように宅地割りしているのは初めてです。明治になって、農地の売買が可能となり、農民の税金も金で払うとなって、小作化が急速に進み、地主が地方を制するのですが、江戸時代末期の城下町に「農人」が住むとはなんなのでしょうか。面積からすると、庄屋レベルが在郷町のように、城下町に住んだのでしょうか。「農人」とは、中世の「百姓」と同じで、武士以外のすべてを示したのでしょうか。
いずれにして、この宅地割りの間口の数字は楽しいです。「税金は、間口に応じて金額を定め、土地持ちだけが払う。間借り人、長屋の人別は把握されていない。」が、江戸ですが、豊橋市は町人地の町ごとの人口まで算出していますので、データがあったのでしょう。

町人分別帳簿があったので、こんな面白い統計も出せます。魚屋、米屋が多いのは当然ですが、風呂屋も、菓子屋も豆腐屋も多く、洗濯屋もあったんですね。うどん屋に寿司屋もあるので、江戸のように外食ができたのでした。時代劇でもよく小間物屋が出て来てますが、何が必需品だったのでしょうか。

職人は、大工に左官と、火事もおおく忙しかったのでしょう。紺屋、桶屋も多いです。衣食住ですね。

表12町と、ありましたが、少し順にみていきましょう。

船町は人口も多いので湊の役割が大きかったのでしょう。大坂の陣では、ここで船を作って大坂まで行ったとあります。城下町の側面は人が減りますが、足軽長屋があります。名古屋と同じです。

江戸時代は手筒花火より、大きな花火だったようです。牛頭天王は「津島」でなく「祇園」です。東は「津島」西は「祇園」ではなかったのでした。

大店が並ぶ「本町」より、宿場町としての「札木町」が、江戸も下がるほどに栄えてたのでしょう。

呉服屋は金持ちだったのでしょう。大名に金を貸すようになるのですから。

堀と枡形を」作っても、すぐ裏から入れますからカッコつけだけです。城下町より、少しはなれたところに先に町ができたことが吉田の元新町でも名古屋の古出来町でもあります。なぜなんでしょうか。

尾張名所絵図と違い、色付きであります。裏町を赤くしてみました。町人は3000人はいます。すると、人口は6千人ですかね。多くても一万人は行きません。名古屋が62万石で10万人でしたが、総面積は8,57㎢ですので、面積のわりあいからすると、細長い宅地に建物は少なく、ゆったりしていたのでしょう。

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