三河国29万石は徳川家の故地として、譜代大名が分割統治していました。矢作川沿いに拳母城(豊田市)2万石、岡崎城5万石と、河口に西尾城6万石がおかれ、豊川河口には吉田城(豊橋市)7万石、あと、尾張との国境の境川河口に刈谷城2万石、渥美郡に田原城1.2万石があります。
この中で、西尾城下町は異彩を放っています。町を「総構え」し、唯一の寺である康全寺の周りに町人地があり、総堀の内側は武家地が張り付いています。東側に三つの門があることから、東海道の脇街道として吉田から蒲郡を通ってくる平坂街道に面して町を長く作り、大手門は北の追羽門に対して開き、岡崎に向かいます。街道を町に取りむことから始める他の城下町計画とは違います。
城郭は本丸・二の丸の連郭式に、北、東の丸・三の丸の梯郭式を組み合せたもので、天守が二の丸あることから、標高が高く面積の小さな本丸から城郭を繋げて大きくしていったことが読み取れます。
中の丸(馬出し)にある西尾市資料館の展示では、西尾城は1562年の酒井正親の入城から始まり3回の大改修でなったとある。1回目:1585年 家康の命で、東の丸、帯廓の拡張、櫓の築造。2回目:1590年 秀吉配下の田中吉政によって、三の丸が築造。3回目:1638年~1657年 本多から4代目藩主となる太田が「総構え」を計画し、5代目藩主・井伊が完成させた。との3回であるが、まったく私には理解できない。
●正保絵図提出は1650年前後となるので、「総構え」の絵図と1657年総構えの完成は矛盾します。西尾市学芸員は「城の完成」と「総構え」を間違えているのではないでしょうか。総堀に19年もかけることはないです。1591年、秀吉の京の聚楽第を郭とする「総構え」では周囲のお土居を一ヶ月で作り終えています。
●1615年の一国一城令以降に「総構え」をどうして行えたのでしょうか。内藤昌は「城の日本史」の中で「家康は、名古屋に総構えを考えたが、1615年の大坂の役の勝利により総構えは無用となり、未完で終わっている。以後は総構えの町はない。」と言い切り、「総構え」の例示は、信長の岐阜でした。戦いの城から藩政の中心となる町が大切だとなり、城下町が誕生しました。
●町を睥睨する領主のシンボル、天守のある城郭の整備は、関ヶ原の戦いの後にされた「城割り」により新たな領国を得た大名によってされたものがほとんどです。東海の城は「対豊臣」包囲網でした。豊臣家が滅び、1615年に一国一城の令が出され、家光が将軍になった寛永(1624年~)以降に新たに作られた天守は、秀忠の大坂城天守と家光の江戸城天守と少ないです。
少ない古文書と、部分的な発掘調査しかない中でも、学芸員には何らかの根拠があっての「3回の大改修」なのでしょう。この資料館の展示を手掛かりにして、私なりにネットを徘徊して、西尾城の築城の様を推定してみます。
古代から地形図を読みこむ。1333年、足利尊氏は京都へ大軍を率いて上洛途中、三河八つ橋で、鎌倉幕府に謀反を起こすことを吉良貞義(三河国幡豆郡吉良荘西条城城主)に伝え、味方にするまで。
私は美濃生まれ、尾張育ちであり、三河にはなじみがなかったのですが、1995年からトヨタ自動車関連企業を三河に訪ね17年間、工場は田んぼの中の高台を開発してあり、それらをつなぐ道路をめぐり、土地勘だけは身に付きました。
縄文人の貝塚から地勢を見ましょう。愛知県(尾張、三河)の遺跡は、西から、木曽川(五条川)、庄内川、天白川、境川(逢妻川)、矢作川、豊川の川沿いにあります。三河の山は三河湾まで迫ってきており、耕作地は狭いです。
よって、御(み)川から三河になったように、三河の中心は今も昔も矢作川です。豊川は三河の国でなく「穂の国」と呼ばれていたのですが、律令時代になると、「三河の国」に統一され、国府は豊川に置かれました。延喜式905年の出挙では、尾張と三河は47万束と同数です。隣の遠江、そのまた隣の駿河は共に59万束でした。美濃が80万束と倍ありました。
尾張下4郡の織田信長が、駿河、遠江、三河を支配する今川義元に勝つところに、戦国を見ます。
三河国幡豆郡は、矢作川の河口の郡であり、現在は西尾市です。矢作川の中流は額田郡、岡崎(現在の岡崎市)、その上流は加茂郡、拳母(現在の豊田市)と、平成の大合併により、昔の郡が市域と一致しました。地勢を考えると、古代からクニは変わらないということなのでしょう。
濃尾平野と比べて小さいですが、人の営みは同じでした。山の先端に古墳がありますので、矢作川本流に合流する小河川を開削して水田が作られたのでした。朝廷に「雲母」を献上した八ッ面山近くに人が多く住み、8世紀の廃寺もあります。ここの小河川は、17世紀に矢作古川となりました。
律令時代、この地には吉良荘園がありました。雲母がキラキラで吉良(きら)なのだそうです。一番古い記録では、878年に清和天皇皇女孟子内親王が幡豆郡内の荒廃田100町を与えられています。1177年には崇徳天皇中宮の皇嘉門院聖子(藤原忠通娘)から姪の藤原参子に「吉良荘西条」が譲られたと記録にあり、大河である矢作川で「西条」「東条」と分けたのでしょう。「条」は条里制の条であり、「上条」「下条」というのもあります。右の西尾市の文章は中世の矢作川の流れをつかんでいないのでわかりません。
鎌倉幕府は、国府にならい、当初は豊川に守護を置きました。1221 年、後鳥羽上皇のおこした承久の乱の鎮圧に功があった足利義氏(1189~1255)は、三河守護となり、額田郡、碧海荘、吉良荘の地頭となります。彼は守護所を今の岡崎市に置きました。彼の庶長子の足利長氏(1211~1290)が地頭で吉良荘に入り、吉良長氏と名乗り吉良氏が誕生しました。他にも、足利氏から出た氏が三河で立ちます。仁木。細川。一色。さらに吉良氏からは今川氏が出て、やがて駿河の守護となり、16世紀には吉良氏を遠江浜松荘から追いやり、吉良の本拠地、西条城からも追いやります。
尊氏の室町幕府を助けた吉良貞義は三河幡豆郡西条城の城主とありますが、西尾城からは鎌倉時代の遺物は出ていなく、彼の西条城は別のところにあったのかもしれません。
戦国時代、吉良の西条城は今の西尾城につながるのか。
応仁の乱(1467~1478)で西条吉良氏と東条吉良氏が分かれて争うという「三河物語」は、尾張守護代の織田氏が、尾張上4郡と下4郡と別れて争うに似て面白いですが、それぞれが京にいたということしかわかりません。室町幕府が弱体化して戦国時代が始まると、それぞれ吉良荘に戻ってきたようです。
織田信秀(1511~1552)は、1538年に那古野城の今川氏豊を追いやり、1540年に安城城を攻略し庶長子・信広を置き、1547年には岡崎城を攻め、家康の父、松平広忠は逃げだすことになります。この弱体化した三河を狙って、今度は今川氏が三河に侵入してきます。1549年、吉良氏は今川方に降伏するも、1555年、織田方の水野氏の軍を西条城に入れて今川に歯向かうのですが、負けます。1557年、城は今川のものとなり、当主・吉良義安は今川領内に引っ込み、義安の弟、義明が今川の傀儡となって、東条城をあてがわれます。
以下に写真を示しますが、西尾市の教育委員会は西尾城の二の丸から15世紀後半、東の丸から16世紀後半の遺跡を発掘したと発表していますので、以上、文字による歴史を復習しました。発掘での年代測定は、茶碗の欠片などの遺物では明確にはできません。50年単位です。教育委員会の年代想定は「遺物から」としかなく、根拠を明らかにしていません。柱の礎石もなく、堀の形状、幅、深さからだけでは、近世の20m幅の堀とは違う中世の遺跡としか言えません。
しかし、二の丸、東の丸からの出土は、「信長の那古野城は、家康の名古屋城の二の丸にある。」と言われているのと同じなのに、ナルホドと思いました。敷地の造成技術が未熟ですので、安定した土地に館城をまず作ります。家康の名古屋城天守は、洪積世台地の北西の端に置きたかったので、松杭の上に根石を置いて、城郭の角の敷地を補強したのでした。近世の技術です。西尾城の二の丸の敷地から突き出た天守台を見るに、この技術が西尾城にも入ってきたことが分かります。
発掘はわずかであり、城の縄張りがどうなっていたかは言いようがないですが、西尾城の前に16世紀には、ここに吉良氏の西条城があったのだとは言えます。じゃ、どうやって正保絵図にある近世の城となしたのか、を次に探ります。
毛抜き堀がカーブを描いています。堀の内側には、掘った土で土塁を積み上げるものですが、土塁がなかったのか、土塁を発掘で取り去ったのか、わかりません。堀の幅、深さの記述がありませんが、深さ1,5m、幅3.5mぐらいのものでしょう。1573年信長が焼いた朝倉氏の一乗谷館城が現地に復元されています。正保の絵図でも、石垣が描かれているのは三重の櫓の足元と、二の丸正面しかなく、堀の隅はカーブを描いており土塁であることを示してます。岡崎城5万石の石垣と比べて貧弱な郭です。
1560年、桶狭間で今川義元が討たれ、松平元康(徳川家康)が三河統治に。
1561年には、元康は吉良を追い出し、西尾城には、酒井重忠を置きます。西条が西尾になった経緯はわかりませんが、吉良義明を東条城より追いやり、より広い西条城を「西尾城」として幡豆郡の中心としたのでしょう。1562年に元康は信長を清州に訪ね盟約を結びます。1563年、元康の嫡子竹千代(信康)と信長の娘徳姫の婚約が成立し、名を元康から家康とします。
三河の西を憂うことなく、家康は東に向かいます。1565年に吉田城を落とし酒井忠次を配置し、田原城には本多広孝をおき、吉田城の酒井忠次を中心に戸田氏や牧野氏、西郷氏などの東三河4郡の諸豪族を統率させ、家康の祖父・松平 清康(1511~1535)の治めた三河を取り戻しました。
1563~1564年に「三河一向一揆」がおきます。西尾城から北東5kmの本證寺の第十代・空誓(蓮如の曾孫)が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄「守護不入」を飛ばします。警察権、徴税権は「守護」でなく寺にあり、環濠城塞都市・寺内町には「入れないゾ」というのが一向一揆であり、「百姓の持ちたる国」が理想です。吉良義明と酒井忠尚が首謀者ですが、家康の配下にも「すべからくお浄土に行ける」門徒が多くおり、家康のピンチでした。寺は焼かれ、半年で一揆は収まります。家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高めます。1583年まで、三河国は本願寺教団禁制の地となりました。
●西尾城の「総構え」
この場合は堀ですので「総堀」とも言いますが、江戸初期の城下町図で「総構え」は西尾でしかありません。康全寺が中央にあり、その周りを町屋が囲む姿から、中世の「寺内町」を連想したので、紀州貝塚絵図を入れます。
1581年に家康が来たとき、吉良氏の寺「満全寺」を家康の康をとって「康全寺」と名を変えたと、寺は弱い立ち位置にあり、曹洞宗ですので、寺内町では決してないですが、「1585年西尾城拡張の時、この地に座った。」とあるので、近くの寺内町本證寺のイメージを町割りに持っていたのかもしれません
または、城郭は今のように堀はなく、三の丸までで武家地は収まっていて、城下町の作法とおり、家康の指示した西尾の町は「康全寺」を町の端とするぐらいの大きさだったのかもしれません。
正保絵図では、寺は巨大な敷地を持つ康全寺一つしかなく、これも私に城下町でなく寺内町に見せている理由です。100年後の宝暦の絵図と比較しますと、領主が菩提寺(縁心寺、妙満寺、勝山寺)と新たに作ったり、転封された領主が旧地の寺(盛巌寺)を持ってきたりして増えていることが分かります。武家地を寺に与えており、1767年に2万石から6万石となると、武家地がたりなくなり、追羽門外に武家地を作ることになります。
社は城郭の反対側、城下町を守る位置に伊文神社一つだけです。こういうところには、名古屋の大須のように、通常は砦代わりになる寺を設けます。牛頭天王を祀り、今も西尾の町衆が「祇園祭」を行っています。東海の牛頭天王は通常「津島」なのですが、「津島」でなく「祇園」なのは、京とつながりが強い吉良だったからでしょうか。元禄赤穂事件で殺された高家吉良4500石の領地も西尾藩の隣にありました。
●怪しい正保絵図
正保絵図は、オランダ渡りの平板測量を行い、実測図として扱えるのですが、西尾の城下は怪しいです。城内の道路は、ナナメなのに絵図では直行させています。城下の「総堀」の形と幅が宝暦と違いすぎます。宝暦の町屋部分が長いのも怪しいところですが、堀が正保絵図のように湾曲していることは、矢作川の氾濫原ですので、実際はなく、狩野派絵師の芸術性が道路にも堀にも出ています。
現地に立つと、碧海台地の端っこであり、正保絵図の濃いグレーによる沼地表現が実感できます。城郭の南西は10mの崖になっており、東側も5mほどの段差があります。北に行くにつれて段差が少なくなっていきます。現在は、城下町の東に桜並木に飾られた北浜川が流れていますが、堀の湾曲は、自然の川を堀として利用したのでしょう。すると、堀として城下町を囲むには、北側だけを掘れば良いとなります。川ですので、東、南、西には土塁はなく、石垣を積まない川岸は100年の間に川に削られて堀の幅は徐々に広くなっていったのでしょう。土塁の安定する勾配は30度と小さいです。(参照;弘前城)現在は北側の堀は埋められてないですが、盛巌寺の裏手には、堀を掘った土で作った土塁が残っています。
1584年、家康は長久手で秀吉軍を破る。次男秀康を秀吉の養子として和睦。
1582年、信長・家康により武田は滅び、今川領は1568年以来武田領となっていたところを家康が取るのですが、そこで、信長が本能寺で殺され、織田家の外にある家康も織田信雄により引き込まれ、秀吉と敵対します。1585年家康は駿府城を修理し、翌年、17年住んだ浜松城から駿府城に移ります。1586年家康は秀吉の妹をめとり、秀吉の母を人質にとり、完成した大阪城で秀吉に会い臣下の礼を取ります。
家康は、秀吉との戦闘を頭に置いて動いていた天正13年(1585年)なのでした。家康指示の西尾城の増改築は、その流れで見ないといけません。
家忠日記の「天正十三年二月小、五日丁未、惣国人足にて吉良之城つきあげ候」と「城」の「つきあげ」とありますので、堀を堀り、土塁を積み上げたのでしょう。西尾市学芸員は「東の丸、帯廓の拡張、櫓の建設」と書いていますが、その文言は家忠日記にはありません。「康全寺がこの地に座った。」との寺の記録を、家康は1583年に一向宗を認めて本證寺が寺内町として再興している姿と重ねることもできましょう。秀吉との戦闘に備えて、岡崎城から本證寺、西尾城と矢作川沿いに防衛ラインを引いたのでした。
1590年、秀吉配下の田中吉政が岡崎城と西尾城を兼務します。
1590年7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、織田信雄は尾張を追われ、家康は駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封されます。
そこで、尾張国は豊臣秀次に、岡崎城は田中吉政(1548~1609)に与えられます。吉政は東海道を引き込んで城下町の縄張りをします。この5年前、1585年に秀次が近江八幡43万石を秀吉から与えられると、吉政はその筆頭家老格となり、信長の安土から人を移し、水路で囲まれた城下町、近江八幡を秀吉の指示で作っていました。
1595年に秀次は自害させられ、配下の多くも巻き込まれるのですが、吉政は加増され岡崎城10万石となります。1598年秀吉が死ぬと家康に近づき、関ヶ原の戦いでは、吉田城の池田、清州城の福島と共に東軍に組して石田三成を捕縛します。1601年の城割りで、筑後一国柳川城32万石を与えられ、水郷を生かした三度目の町割りをします。柳川には、今も水路が美しく残っています。吉正は、まさに城下町づくりの達人です。その彼が西尾城の城主も10年兼務していて、西尾市学芸員の「三の丸を築造した。」は、どうなのでしょうか。根拠があるものとは私には思えません。
1585年の家康の指示には、私は中世の寺内町の町割りと「総堀」があるのではないかと推定しました。家康は、1582年になって初めて、安土から京、大坂、堺を物見遊山しました。1586年に秀吉の大坂城は見ていますが、大坂の城下町はまだできていませんし、城下町の近江八幡も京の城下町化も知りようがありません。
1590年の小田原城攻めでは、小田原城の「総構え」に家康は驚いた事でしょう。1594年に伏見城の助役に呼び出されるまで、その後の秀吉の城づくり、城下町づくりは知りようがありません。助役をやりたくないので、家康は配下に「田舎モンで構わん。」と言っています。中世の寺内町レベルの小さな堀による小さな「総構え」はあったかもしれませんが、西尾城に残された堀と町割りは田中吉政の10年間の執政でしかありえないと思います。彼なら、近江から石積の専門集団「穴太」を呼べます。
私は正保絵図にある10間幅の堀から、近江八幡、柳川の景色を思い浮かべます。「三の丸を作らせた。」のではなく、町人地に三の丸沿いの水路を回し、川を下って3km下にある平坂湊まで物流を通したのではないでしょうか。平坂湊は三河の物流の中心として江戸時代を通じてあったので、津島と同様に古文書も商家に残っていると思います。さらなる調査・研究を期待します。
1601年、本多康俊が2万石で入り、西尾藩が誕生します。
関ヶ原の戦いに勝った家康の城割りにより、1601年(慶長6年)2月に下総小篠から本多康俊が2万石で入ります。西尾藩の誕生です。大坂の陣の後、1617年(元和3年)10月に康俊は近江膳所藩に移封されますが、この16年の間に、彦根城、津城、名古屋城と豊臣包囲網の城が作られていますので、本多康俊も田中吉政の城下町の骨格の上に、西尾の城づくりをしたことでしょう。
1605年に矢作川の付け替えという大工事を行い、田んぼを広げました。家康は1608年から2年で木曽川の「御囲堤」50kmを作っていますので、家康の肝入り工事だったのかもしれません。
櫓、門、枡形が整備されたのは間違いないですが、二の丸の天守は、父・康俊の跡を継いで近江膳所藩の第2代藩主となっていた本多俊次が、1621年に3万5,000石で西尾藩に戻ってきた時に、二の丸の御殿建設と共に作ったのかもしれません。
2万石では天守はなく櫓でも良いでしょうが、本多俊次は、1601年に家康が藤堂高虎に計画させた4重の天守を本丸隅にもつ膳所城にいたので、「ここ、二の丸に天守を作ろう!」と思っても不思議はありません。隅櫓規模ですので、幕府も一国一城令(1615年)により認めざるを得なかったのでしょう。彼が1636年に伊勢亀山藩に移封されると、西尾は廃藩となり、幕府領となります。もはや、城下町のシンボル、天守を作る必要はありません。
したがって、西尾市資料館に書かれている「3回目の大改修:1638年~1657年。本多から4代目藩主となる太田が「総構え」を計画し、再度幕府代官の元で陣屋となった西尾城を、5代目藩主・井伊が完成させた。」は、私にはまったく意味不明です。学芸員が根拠とした古文書がおそらくあるのでしょうが、古文書の再チェックを期待します。
私から見ると、城および城下町を知らないまま、ただ広島大学の三浦教授を頼っての木造櫓復元には、危ないものを感じますが、西尾市資料館の中のどこにも三浦教授の名前はないから良いのでしょうか。違います。復元された形は建築学問の結果ですので、この形に至った経緯は明らかにすべきものです。今回私は「みかわこまち」から多くのコピー&ペーストをしていますが、古文書からの研究と、発掘からの推測と、復元的研究がないまぜにあり、城下町の観光ネタとして弱いと感じました。
ぶらり、西尾城。城下町散歩。
ここからは、現地で撮った写真と共に、書いていきます。
城郭
二の丸にあった御殿の絵図が展示されているのですが、「江戸後期に書かれた。」としか説明がありません。明治6年に全国一斉に廃城されます。その時に建築として残っておれば、通常は写真に撮られており、平面図もあるものですが、そのようなものは西尾市資料館にありませんでした。
天守は江戸時代からなかったのではないでしょうか。資料館に記載がありませんが、天守や櫓は地震、火事で失うと失ったままであった城が多いです。明暦の大火(1657年)で燃えた江戸城天守再建に際して「軍用には益なく唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず。」と家康の孫・保科正之に言われ、幕府は「一城の飾りは要らない。」と決めたのですから、そうなります。
1996年に本丸丑寅櫓(3重櫓)、二の丸鍮石(ちゅうじゃく)門が復元され、2020年には二の丸丑寅櫓と天守台と二ヶ所の屏風折れがある土塀が復元されています。
とりわけ、天守台の復元は無茶苦茶です。隅石は算木積にしていないのですが、築石は表面が平らで打ちこみハギ、もしくは 切り込みハギですので、オカシイのです。これを、発掘調査で見つかった石材、野面の石を再利用して、「野面積」と解説していますが、それは嘘です。野面積は、野にある石であり、加工していないので、丸まった石が表にあり、石垣の表面がデコボコになります。岡崎城、吉田城と身近に事例があるのですが、西尾市は天守台の復元に当たって、まっとうな調査研究をしていません。
学芸員は「石張りのような天守台」と調査結果(下に添付)を書き、実際復元された天守台石垣の石は張り込まれたものです。どうにも、私は落ちつきません。石はホンモノの幡豆石(御影石)であっても、石垣の姿はディズニーランドのシンデレラ城です。清州城天守の復元も石垣はダメでした。労力を減らすために石は機械で削りますから、岡崎城、吉田城の本物の野面積み石垣を知る人々には気持ち悪いです。野面の石を集めることなど、そんな手間はかけられません。熊本城天守台では、割れた古い石を型どりして手作業で新たに3500個を作っていました。
正保絵図は一見みると「立派に見せたい」と石垣が堀から櫓の下まであったように見えますが、よくよく絵図を見ると、以下に例示したような、土塁の上に櫓を置くべく設けた鉢巻石塁だったのでした。他には二の丸の正面にしか石垣がないのに、本丸丑寅櫓の下、天守台だけには堀から連即して石垣が登っているのは、かえっておかしいです。江戸城でも名古屋城でも腰巻石塁はあります。折角の復元でしたが、やはり「立派に見せたい。」が先に立ち、天守台の復元では、石垣のプロによる考察、復元ができていません。
痕跡を確認できなくても、何らかの理由をつけて復元をしてしまうのですから、文化財保護の観点からは「史跡破壊」になります。「史跡指定」は西尾市だけであり、文化庁の指定を受けていないので、このような復元が史跡の上にできたのでしょう。「みかわこまち」より、天守の部分を転載しておきます。
「最下層の位置と以前確認された天守台の造成土の位置ラインが合わない。勾配の途中で犬走りがあったか。」と書かれています。絵がないのでわかりませんが、一つ推測をしてみます。
写真の根石の姿を見ると、岡崎城の野面石と同じに見えますので、1590年代に田中が二の丸のここに隅櫓を作った時の腰巻石塁の根石ではないでしょうか。そこからは石積みでなく、土塁を勾配緩く積んだとすれば、位置ラインは合わなくなりますし、根石裏の裏込め石も薄くてよくなります。復元された二の丸丑寅櫓ぐらいなら、その上に鉢巻石塁を作ればよいでしょう。
そして、本多俊次が、1621年に戻ってから、ここに9間×7間の「天守」を作ったとなると、この調査報告書の通りこの薄い天守台では無理となります。技術的には、1614年には名古屋城も駿府城も石垣を積んで5重の大天守を作っていますので、3重の天守は簡単にできます。しかし、そうだとすると岡崎城のように「打ち込みハギ」「算木積み」と石垣技術の進んだものになっていないといけませんが、そのような石積みは西尾城には見当たりません。
はたして、二の丸と三の丸の間の堀を道路にするときに、「打ち込みハギ」「算木積み」の石垣をはがしてしまったのでしょうか。その記録は残っていましょうか。
元に戻って、私が推測した「本多俊次が1621年に戻ってから9間×7間の「天守」を作った。」は違っていて、田中が、すでに野面積みで「天守」を作っていたのかもしれません。
岡崎城天守は、本多康重が山頂の本丸を崩して平山城を平城としてから、1617年に作っています。
私は、田中は隅櫓は作っても「天守」を岡崎城に作っておらず、ましてや西尾城に作ってはいないと考えます。田中の前の近江八幡城は急峻な平山城でした。
私が本多俊次にこだわったのは、二の丸に「天守」と正保絵図にわざわざ書かせたことです。狩野派絵師は「天守」を大きく書いていますが、平面形からこのボリュームは嘘です。怪しい絵師です。
丸丑寅櫓(3重櫓)を平面的に一回り大きくしても、本丸の地盤の方が高いですから、北と東に広がる城下から見上げるに、隅櫓ではない「天守」だというワザワザ性は見えないでしょう。正保絵図にない付櫓がニの丸平面図のようにあれば、岡崎城の「天守」のようにワザワザ性は高まりますが、町人は西の沼地から見上げるしかありません。
私は、「天守」は二の丸御殿から見上げる内向きのシンボルだと捉えました。初代西尾藩主であった父親を弔う縁心寺を建てたと同様に、西尾に戻ってきた本多俊次の「殿様気分の発露」が、政庁として使うために二の丸に広い御殿を作ることを契機として、「天守」に現れたのだと推定しました。
岡崎城と吉田城の本物の野面積みの石垣を比較のために二枚づつ、アップします。岡崎城は石垣巡りのパンフを作っていましたので、それもアップしておきます。
石垣ついでに、金沢城の石垣も入れて、石垣のお勉強をしておきましょう。
https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2Fkazuo.takahashi.545%2Fposts%2Fpfbid022XM4SE1mdrRs1NmcisuUUBT5gDdAt4spj1r4nodwc3Jz5Yfi4MSWfaYKzxZhStUyl&show_text=true&width=500