桑名は城下町というより、広重の浮世絵にあるように、東海道53次の42番目の宿場町として有名です。41番目の宮(熱田)とを東海道唯一の海路「7里の渡し」で4~6時間でつないでいたのですが、天候待ちもあって、桑名の旅籠は120軒(宮は250軒)と大変多かったのでした。町人地だけの大きさを見ると、藤堂高虎32万石の津(0.34㎢)と変わりません。藩主の歴代・松平家は木曽三川の洪水に長年苦労し、伊勢湾台風で港は完璧に破壊されたのですが、弥次・喜多道中の「桑名の焼き蛤」が、桑名を明るいイメージに留めています。
母校の明和高校には、桑名、四日市からも学生が来ていましたが、私たちからすると、言葉が大阪弁なのです。関西の人からは「違う」のでしょうが、私たちにはあのイントネーションは大阪弁です。三重県は近畿地方、中部地方というと中部でなく近畿に入るのですが、関西地方となると入らず、東海地方に入るという曖昧ゾーンにある県です。旧国をいくつもくっつけて作った兵庫県ほどには曖昧ゾーンではないですが。
言葉が違うほどに、木曽三川は尾張と伊勢の間を分かつのですが、同時に、川によって尾張・伊と美濃とをつなぐ動脈でもありました。
江戸時代を思いながらの「ぶらり、桑名宿」の前に、城下町・大垣の復習をしつつ、桑名の地史を古代から探ってみましょう。
桑名は、川向こうにある尾張である、と尾張人。
イスタンブールが、ボスポラス海峡に橋がないときでも、アジアとヨーロッパの両側に市域を持ち、アジアへの架け橋と言われたと同様に、桑名は畿内(鈴鹿の関の向こうの大和、山城、河内、摂津、和泉)に文化の軸足を置く伊勢の国にあるのですが、富は尾張以東の東国からの集荷と交易によって得ていた港町でした。桑名の町は、対岸の津島、長島、弥冨と一体的にあったのでした。
尾張連は、古代より船を使い、美濃・金生山まで鉄を得に行き、関東との交易をつないだ海人部(古代の海部郡は熱田西から清州、津島、海津まで)として稼ぎ、東海の雄となりました。延喜式967年でみる尾張の稲の収穫量472千束は、伊勢881千束、美濃800千束の半分ほどしかありません。大河を制する土木技術がなく、稲作だけでは貧しいのでした。桑名は東国へ出荷する川・海の汐待ちに、また、東国から畿内に荷揚げする港として尾張連には大変重要でありました。
桑名から津島・海津までは満ち潮に乗って容易に川を上れます。テムズ川を抱くロンドンも、潮の満ち引きを使って、オール1本で操る小舟が、大きな帆船とロンドンの町をつないでいました。
神話の時代から古代まで
養老山地の東側の断層が濃尾平野を西に傾けさせ、木曽三川は断層に向かって集まってから、南の伊勢湾に注いでいます。5世紀の頃は現在の大垣まで味蜂間(安八)の海が回っていたのでした。702年の戸籍では味蜂間(あはちま)郡ですが、日本書紀壬申記では安八磨郡とあらわされ、安八町として今に至ります。大垣市を郡の中央につくったので、安八町は南北に分断されています。
上流からの土砂が味蜂間の海を埋め、自然堤防が島を作り、根尾川は1530年に長良川から揖斐川に方向を変え、1586年の大洪水で墨俣での木曽川、長良川、揖斐川の合流はなくなり、1592年秀吉が護岸工事を行い現在の大河「木曽川」を作りました。1610年に家康が美濃側の堤防を3尺低くした「御囲堤」を犬山から弥冨まで(50km)作り、現在の川筋に固定され、輪中が作られ、濃尾平野は米どころになりました。
ヤマトタケル と ミヤツヒメ
古事記でなく、熱田神宮寛平記(890年寛平2年と言われているが、鎌倉まで下がるかもしれない。)による熱田さんの由来を見ます。
倭建命(ヤマトタケル)は、宮酢媛(ミヤツヒメ)と睦んだ氷上邑(現在の大高)の地に、宮酢媛と共に草薙神剣を残して、伊吹山に悪神を退治しに行くも、破れ、伊吹山から熱田に戻ることなく南下し(伊吹山→不破郡→多芸郡養老→桑名郡尾津→三重郡(四日市)→能煩野(鈴鹿)、倭建命は鈴鹿川の中瀬でみまかってしまいます。
庄内川の中世の渡しである萱津の神社に、宮酢媛(ミヤツヒメ)にまつわる「阿波手の森」がありますが、江戸時代に里村紹巴、滝沢馬琴らによって作られた話だと思います。古代、萱津は海の中でした。宮酢媛も馬津(津島)ぐらいまでは来ない大河の向こうにある伊吹山はよく見えず、紫式部(970~1019)の「かきたえて 人も梢の なげきとて はては阿波手の 森となりにけり」の歌とは合わないと思います。
宮酢媛は老いて、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮りました。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かったのでした。ここを熱田と号して、社地に定めたとあります。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになりました。
この伝承によると、4世紀の円墳・兜山古墳の近くに氷上姉子神社があり、尾張氏は愛知郡(愛智郡)の南側にいたが、年魚千潟(あゆちがた≒あいち)をまたいで北に、愛知郡の西側の熱田に移ったことになります。北の味美遺跡(春日井)から南に下がって来たとの伝承はありません。とすれば、尾張氏は年魚千潟から北に向かい庄内川沿いの味美の豪族と同化し、その川上の志段味遺跡の豪族を抑え、さらに犬山の扇状地の豪族を制して、尾張の国を南から統一したと考えられます。そして、尾張”連”の名称が、5世のヤマト王朝に尾張氏の力を認めさせた証となりましょう。尾張氏の祖先神・天火事明命(あめのほあかりのみこと)を日本書紀にも入れさせています。その財力は尾張の稲作ではなく、鉄器、陶器、塩、交易と、海部人としての力量から得たものでした。
「日本は瑞穂の国だ。というのは間違っている。」と説く、網岡史観そのもの体現している尾張国です。なお、7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られますが、なぜ「尾」なのか不明です。
越の若きヲホド王(継体大王)に尾張の目子媛(メノコヒメ)が嫁ぐ
古事記、日本書紀の記述から、応神天皇5代孫の継体天皇は、間違いなく実在された天皇であり、戦後の歴史学会ではヤマト王朝を乗っ取ったとも言われています。507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位したと日本書記にあります。武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)を皇后とし、天皇の系統を母系でもつなごうとしました。
河内馬飼連荒籠が大王になるのを説得したとあるので、琵琶湖から南に進出し、淀川の水運を掌握していたのでしょう。彼が大王に乞われるまえに、尾張連である尾張 草香(おわり の くさか)の娘・目子媛を后にしており、彼女が生んだ子を、27代安閑天皇、28代宣化天皇としています。手白香皇女の子が、29代欽明天皇となり、彼の3人の子供が順に天皇となり、今に至る「万世一系」の天皇の系譜がここから始まりました。
越(母の国)から近江(父の国)にかけてが地盤であったヲホド王(継体大王)は、美濃を飛び越えて尾張連と結びつき、東国の力も得たのでした。淀川から瀬戸内海、九州、朝鮮半島までを視野に入れ、継体6年(513年)には百済に任那の四県を割譲し、527年に百済から請われて救援の軍(近江毛野臣)を九州北部に送るのですが、新羅と通じた筑紫君磐井の反乱が起こされます。継体大王は物部麁鹿火を九州に送り、磐井を制圧しました。その後、近江毛野臣が兵を引きいて朝鮮半島に渡った以降の話も日本書紀にあります。
古墳時代4~5世紀に、ヤマト王朝は倭の連合国を、馬と鉄器よって一つにまとめあげました。5世紀、「倭の五王」が築いたヤマト朝廷を、まさに換骨奪胎したヲホド王(継体大王)の最初の一歩は、尾張連との連合にあると言えます。熱田から桑名、そこから川上の養老、墨俣までは尾張の国であったのでしょう。6世紀、尾張連の熱田の断夫山古墳は、西の海(海部郡)から見上げられるように作られたのでした。
壬申の乱。大海人皇子(天武天皇)の東国への脱出。(近鉄養老線)
記紀にある歴史は、まさに「勝ち残った方の都合で書かれた歴史」であり、藤原不比等、持統天皇は壬申の乱の当事者ではないですが、極め付きの親族であり、日本書紀は継体天皇以降の天皇の系譜の正当性を詳しく記し、中臣鎌足以前の中臣氏の由来と鎌足以降の藤原一族の様が書かれています。しかしながら、壬申の乱の戦いの場所と時間は、歴史上の事実としてあえて嘘を書く必要はないので、信じることができます。
壬申の乱は、672年6月24日~7月23日に起こった日本最大の内乱です。天智天皇が近江の大津京でなくなり、予定どおり皇太子の大友皇子が天皇となるのですが、それを阻止すべく、天皇の弟であり、天智天皇の手前、吉野に隠棲していた大海人皇子(天武天皇)は、吉野から東国に出て、不破道で近江軍を待ち構え、破ります。
672年6月22日早々に、美濃の湯沐令・多品治へ、3人の使者(村国男依・身毛君広・和珥部臣君手)を送り、「安八磨郡(現在の大垣市から池田町あたり)」の兵を徴発し、「不破道」の閉塞を命じていました。壬申の乱では、高市皇子と彼ら美濃衆が大活躍します。
不破郡垂井には5世紀初めの昼飯大塚古墳など古墳が多くあります。弥生時代から人が水田開発をしていたところ、4世紀に金生山で露頭の赤鉄鉱(酸化第二鉄90%)があることがわかり、鉄の産地として人と富を集めました。大海人皇子に湯沐令としてこの地があてがわれていたことが、戦いの戦士集めに幸いでした。「不破の関」は、畿内から逃げ出すのを抑え込む為の関所でした。奈良時代には、美濃の国府、国分寺、国分尼寺もここに置かれます。美濃の国の西端ですが、唐にならって、鉄の生産を国有事業とし、役所「兵庫寮雑庫」を置きました。
大海人皇子は、鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)と子供たちも引き連れて、吉野から脱出します。順次豪族を引き入れ、兵約500を率いた阿拝郡司(現在の伊賀市北部)も参戦し、現在の国道一号線を近江から降りてきた近江軍に勝ちます。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流しました。伊勢国朝明郡(あさけぐん)(三重県三重郡の一部)の迹太川(とおがわ)の辺りで天照大神(あまてらすおおみかみ)を望拝し、桑名郡家で尾張の豪族と会い、鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)と子供たちを桑名に置いておくこととしました。尾張連大隅の館「野上行宮」を本拠地とし、瀬田橋で勝利するまでここを動きません。
尾張の軍は美濃の軍の後から出てきます。尾張国守の小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が2万の兵を率いて不破の大海人皇子の所に来るのですが、乱の終息した後、彼は山中で自殺をするという、おかしなことが起きています。ある学者は「律令制では「国守」は中央から派遣された行政官を指すので、彼は、尾張国の土着の支配者である「連」と違い、新たに天皇となった大友皇子の前からの指示で兵を用意していたのだった。しかし、地元のボス尾張連が大海人皇子の味方をしたので、兵を大海人皇子に渡さざるを得なくなったという、この真実を隠すために自殺をしたのだ。」と解説しています。武装した2万人を集めるのは容易でないので、私もそう思います。尾張連大隅は亡くなった後に、持統天皇から戦功報酬も得ています。
飛鳥宮には同じ道を帰ります。鸕野讃良皇女(持統天皇)は夫を心配しつつ、二か月半、桑名にいました。後に持統天皇は懐かしく伊勢をめぐり、聖武天皇も天武天皇の足跡を追います。
この桑名は江戸時代の城下町桑名ではなく、桑名郡の山懐でしょう。もう少し北の多度神社あたりかもしれません。ここには古代の東海道の「渡し」があり、ヤマトタケル伝承の尾津神社があります。
三重県の古墳の配置図がネットで見つかりませんが、この養老山地の東側、近鉄養老線にそって多くあります。不破の関とつながる養老には東海一古い3世紀の象鼻山一号古墳等いくつもあります。その南、高須藩がおかれたところ、多度大社、桑名と、丘陵地にまとまってあります。桑名市最大の前方後円墳「高塚山古墳」は、城下町の西の山裾にあります。墳長56mなのですが内部調査はされていません。能褒野王塚古墳(亀山市)墳長90m・池の谷古墳(津市)墳長90m・宝塚1号墳(松阪市)墳長111mと、4世紀の末から5世紀の初めにかけて三重県(伊勢)に前方後円墳が作られていますが、同時代の中では、小さいです。
弥生時代、濃尾平野だけでなく佐賀平野の吉野ケ里でも大和盆地でも、川下の低湿地より山に近い扇状地の方が土木工事による水利が得やすく、田の面積を増やし、人口が増え、武力をつけて、その川筋(郡と呼ばれるようになる)を制し、古墳時代の王に至るのでした。濃尾平野の東側丘陵沿いに犬山、小牧、春日井、名古屋と古墳がつらなりますが、平野の西にも古代遺跡が連なり、古道があったのでした。
近鉄養老線は、桑名と大垣を結んでいます。大垣は中世までは揖斐川の古流であった今の杭生川の左岸にあり、近世の掘割土木工事があってこそできた都市です。古代の道は、大垣でなく古墳と鉄が今も残る垂井に向かっていました。
延喜式にある、東海道の駅。伊勢国桑名郡榎撫えなず駅 と 尾張海部郡馬津うまづ駅
榎撫駅は、多度大社の川辺にあり、対岸が津島です。渡しが最短距離を行くことはないので、馬津はもっと北の気がしています。川が埋まって、中世11世紀になると馬津から津島に名前が変わります。
多度町は平成の大合併で桑名市となりましたが、古代は桑名郡でした。多度大社は古代からある神仏混合の神社でした。788年「多度神宮寺資財帳」によると、763年に多度大神は人に乗り移り、次のような託宣をしたとあります。「長きにわたって、この地方を治めてきた結果、いまや本来の神道からはずれて重い罪業に苦しめられ、神道の報いを受ける所にいたってしまった。いま脱するには永久に神の身を離れることが必要であり、仏教に帰依したい。」
763年の託宣からわずか25年で大伽藍の神宮寺ができあがり、788年「多度神宮寺資財帳」がまとめられたのでした。701年大宝律令以来、地方民の五穀豊穣・飢餓無しの願いをきく、昔から今に繋がる有力な神社が選ばれて、その祝部は遠路を帝都の神祇官まで参集し、国家の祈年祭に参加し、皇祖神の霊力で満たされた稲穂以下を班与されていました。種籾として田にまかれれば絶大な霊力によって豊かな収穫が期待できるとした制度でした。租庸調の税制を知らない民に、神々への感謝の初穂の名目で、租税を取り立てられると考えたマジカルな基層信仰を国家的に統合する呪術的な神祇官制度でしたが、国家鎮護を行う仏の力が浸透し、地方の豪族も寺を欲したのでした。
多度神宮寺には、美濃、尾張、伊勢、志摩の豪族が寄進しています。神仏習合の地として、国家の寺である東寺と結びつきます。対岸の津島神社は、中世に京都の感神院祇園社から分霊された牛頭天王を祭り、町衆による神仏習合となります。古代の精神世界は大河と共にあり、尾張連の熱田神宮は草薙の剣を持っていても7世紀以後の新参者のようです。伊勢神宮も、持統天皇の神話と寄進によって名を売り出した、神の中では新参者なのでしょう。
多度大社の近く、肱江川(ひじえがわ)の左岸に南小山廃寺(みなみおやまはいじ)・北小山廃寺があります。
額田廃寺が、高速道路桑名インターの西にあります。城下町桑名の西、員弁川(町家川)の左岸、標高15mの丘陵地です。元は浄蓮寺と称し、織田信長の北勢侵攻の時、その兵火にかかってからは再興されず、畑になっていました。1964年の発掘調査は建設面積の約15%だけでしたが、塔、金堂、講堂、僧坊、中門跡などが発掘され、法隆寺式の伽藍配置を持つと記録にあります。出土した重弁蓮華文軒丸瓦は、川原寺(創建662~674?)と同形であり、まさに壬申の乱の主役たちによってこの地に寺が持ち込まれたのでしょう。
桑名郡は北勢地区の中心地であったのでした。後代の城下町桑名と違って河口からさかのぼって川幅が狭くなり渡河しやすく、水田へ水路工事もしやすいところに人は集住し、これらをつないで古代の道があったのでした。熱田台地にも同時代の尾張元興寺(がんごうじ)廃寺があります。廃寺はヤマト王朝(大海人皇子)の権力域に、伊勢、尾張、美濃が含まれていたことを示すとともに、上に書いた多度神社の763年の託宣を、「さもありなん」と納得させるものでした。
なお、伊勢の国分寺は、鈴鹿川左岸(鈴鹿市)に作られました。国道25線沿いに、亀山、鈴鹿の関、伊賀上野とつながる、大海人皇子(天武天皇)も使った伊勢路のメインルートです。
中世は「十楽」の津、と呼ばれた港町の桑名。
貞応二年(一二二三)の「海道記」に「市腋を立ちて津島の渡といふ所を舟にて下れば、蘆の若菜あをみわたりて、つながぬ駒も立ちはなれず(中略)渡りはつれば尾張の国にうつりぬ」とあり、津島の渡は尾張への西玄関口でした。伊勢側は桑名郡の市腋、今島の名前が残っています。
京の町と東国をつなぐ桑名は、鈴鹿の山を越えて近江に抜ける山道を開発します。
峠の主なものとして、北から鞍掛峠・治田峠・石榑峠・八風峠・根ノ平峠・安楽峠などがあるのですが、中でも菰野町千種から根ノ平峠を越えて、現在の近江市永源寺町甲津畑まで至る「千種越え」と、菰野町田光から八風峠を越えて、永源寺町杠葉尾までの「八風越え」が多く利用されました。
八風街道から、津島経由で尾張に、さらに遠く海運を使って伊勢湾・三河湾へと、陸と海の結節点として発展しました。
平氏は伊勢湾の海の世界から姿を現し、院の厩の別当となって淀川流域の牧を支配下に入れ、瀬戸内の要衝、厳島、伊予国を拠点として海の領主を組織化し、大宰府を中心に北九州をおさえます。王朝の権力を掌握すると、その支配を太平洋・日本海沿海の東国・北陸諸国に伸ばす一方、列島の外、中国大陸の宋との交易をすすめます。「唐船」を摂津の港に入れ、平氏も唐船を作りました。平氏は西国国家をつくりました。
一方、鎌倉幕府は自らを関東武士と言い、西国を「関西」と名付けますが、平氏の海の世界も受け継ぎます。
熱田さんは延喜式(905~967)によると、尾張の三の宮とあり、その格は、一の宮の真清田神社、二の宮の大縣神社より落ちます。966年(康保3年)3月22日 – 正一位[熱田大明神](日本紀略)と、中世になって偉くなったようです。源頼朝の母は、熱田の神官の娘というか、藤原南家が都から神官として尾張に下り、尾張でなした娘です。関東の武士は、馬と同様に船も操ります。
桑名は、嘉暦二年(1327)に「十楽」の津と呼ばれ、博多、堺と同様に、自由立ち入り、自由取引が保障されていました。「十楽」とは、仏教用語で、仏の十の楽しみを持つ「自由都市」である津(港)ですので、松阪、大湊(伊勢市)も十楽の津なのでしょう。中世になると、太平洋添いの黒潮に乗って房総半島まで一気に行けたのでしょう。
城下町 桑名
正保(1644~48)の絵図と現代地図を同じ縮尺でならべました。桑名は河口の港であり、海には面していません。
中世の桑名の港は、赤い町人地の入り江になったところであり、広重の絵では石垣と櫓が正面ですが、その右手、川にそって広重の絵で見えない所に港があります。
河口ですので、常に南北の流れがあり、このような突堤でも良かったのでしょう。伊勢湾台風の高潮には木っ端みじんでしたが。
常に土砂が流れ込むので、北側には浅瀬ができています。中世の港の外側の干潟、絵では城の下に残っていますが、そんなところに、堀り下げて水路を作り、その堀った土を干潟に盛り上げ土地を作り出しました。これは江戸でも大坂でも行われた掘割造成工事です。
町割りは、名古屋のような近世の城下町の碁盤割でなく、中世の40m×60mが平均です。街道沿いの町割りを、運河沿いに作ったような感じです。私が昭和50年の卒論で「中世型」と名付けた城下町の典型が桑名であり、大垣です。この後に出す讃岐高松、筑前福岡は「桃山型」と秀吉配下によって築城されたものです。一覧表で示します。
桑名の城下地のデータです。四角形は「計画された町割りブロック」と捉えています。
渡しは、津島、佐屋、弥冨と、尾張側は時代が下がるにつれて、河口に下がってきます。川底が土砂で上がってしまい、港として使えないからですが、桑名は江戸時代はずっと場所を変えません。
埋まったら掘るしかないのですが、海が近いので引き潮で土砂をもっていかれたのでしょうか。
御囲堤は、美濃側に150回もの洪水を出し、川底を上げることになりました。尾張側では、水田のために新たに運河をひくことになります。
高台にあった中世の桑部城を桑名港に降ろし、城下町にしたのは誰か
1571年から1574年まで3回にわたり、信長は願証寺を中心とする長島一向一揆を攻めました。一揆勢の死者は2万人にのぼったといわれており、日本史上に残る凄惨(せいさん)な出来事でした。信長の命により、配下の瀧川一益(1525~1586)が桑名や多度、長島を支配するのですが、桑名でなく、自らは長島城を作り、入ります。一益は柴田勝家、織田信孝につき、秀吉、織田信雄に敗れます。
織田信雄は、旧知の尾張国と伊勢国(三重県北中部と南部)・伊賀国(三重県伊賀地方)・志摩国(三重県志摩地方)の支配を秀吉から認められ、一益が築いた長島城に入ります。信雄は、秀吉に立ち向かい、1584年小牧長久手の戦いを家康と共に行います。小牧長久手だけでなく伊勢でも信雄側は攻められ、桑名城の名も戦記に出てきます。しかし、これは町屋川(員弁川)右岸の、信長も攻めた平山城の桑部城です。同じ丘陵には縄生廃寺もあり、この対岸にあった額田廃寺と合わせて考えると、員弁川河畔のこの地帯が北伊勢、桑名郡の古代からの中心地だと思います。
信雄は家康抜きで秀吉と和睦をし、領地は尾張と北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・鈴鹿)の78万3千石となります。1586年の天正地震により長島城は崩壊し、清州城を増改築して清州に移ります。伊勢は、信雄には北畠に養子に出て以来なじみのあるところでした。信雄が作った伊勢松島城(松阪)は、1584年小牧長久手の戦いで羽柴秀次に奪取されます。この戦いで戦功のあった蒲生氏郷が南伊勢国12万3千石を与えられ松島城(松阪)に入りました。しかし、彼は1588年、現在の松阪城の場所に城を築きなおします。それが今に残りました。1590年小田原攻めのあと、信雄は除封され、多度、桑名、長島は秀吉直轄地となり、尾張は豊臣秀次の所領に組み込まれ、その後、1595年に福島正則の支配に変わります。
●1601年関ヶ原の勝利によって、本田忠勝が、上総国夷隅郡大多喜から移される
秀吉は1598年に63歳で死し、1600年の関ヶ原の戦いで家康が勝ち、家康が日本全国の城割りをし、桑名10万石は本多忠勝(1548~1610)が藩主になりました。<忠勝は、桑名城下の整備を行い、員弁川(町屋川)・大山田川(おおやまだがわ)の流れを変えて外堀(そとぼり)に利用しました。これを「慶長の町割」と言います。>と、桑名市のHPの歴史に書いてありますが、現在の川の流れと正保の絵図を見比べると、員弁川(町屋川)は大河であり、支流を城下の南に外した程度でしかできないでしょう。現在は桑名の1.5km北に流している大山田川ですが、元の流れは城下北にあり、それが中世からの桑名港を作り、海水と混じった掘の水としたのでしょう。桑名港の中世都市に、近世の城下町としての体裁を整えるように、城と武家地を加えたのは果たして本田忠勝なのでしょうか。1609年忠勝は隠居し、1615年大坂夏の陣の功労で1617年に姫路15万石に移っています。
中世の城は、高台にあった桑部城のような要害でした。「山城」と言います。それが、1581年信長の安土城で、城下町を山下に抱える「平山城」となり、1585年秀吉の大坂城では、城下町を広げるために、水路を作りその土で埋め立てをしました。城郭は「平城」となりました。
秀吉は天下人となり、1591年京を囲む「お土居」を作り、京を聚楽第を中心とした城下町に変えます。1594年秀吉は大坂城を秀頼に譲ると決め、隠居城として家康に伏見城を作らせ、大名屋敷を城下に並べさせました。平城ですので、防御のために堀を割り、石垣をつみ、櫓を連ねて城郭を形成しないといけません。そして、権力と町のシンボルとして天守を聳えさせました。大工事となります。
名古屋城は、1609年に家康が秀頼方への牽制として、城下町と共に天下普請で作ると決したのですが、井伊家18万石の彦根城はすでに1603年から築城を始め、津城は1607年に伊賀・伊勢22万石を得た藤堂高虎が入り、根本的に作りなおしています。大阪の西でも、1601年姫路城に52万石池田輝政が入り、秀吉の姫路城の上に8年かけて、今に残る巨大な城を作っています。
このような豊臣秀頼への包囲網の一環として、徳川譜代の本田忠勝も桑名城に金を投じなければならなかったのでしょうが、海側に城郭を持ってくるプランは大変珍しいです。堀と石垣にお金がかかります。城作りの達人で聞こえた藤堂高虎の津城は、反対に海辺に町人地があり、武家地が内陸側にあります。中国由来の設計思想は「四神相応」と言い、山を背に城館があり、町は川に挟まれた低地に広げ、主街道を町に取り込むというものでした。
桑名は中世以来の港町であると、町割り規模と町割りの形から、先に宣言をしてここまで書いてきましたが、城郭が海に面して内陸側に町人地があることからも、中世以来の港町をそのまま生かし、城を海側に抱きあせて城下町にしたのだ考えます。
秀吉時代の城は、大坂城、姫路城、駿府城と徳川時代の城の下に埋没しているのがほとんどであり、残っている松本城、犬山城も築城の模様を伝える文献が残されていません。大垣城と同じく、桑名城でも、秀吉時代にこの城郭の配置がされていたのではないかと推測しています。
●1591年に秀吉の家臣・一柳直盛(1564~1636)が桑名に入封しています。⇒推測の1
1590年秀吉から尾張国黒田城(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)を与えられ3万石を知行し、1591年豊臣秀次につき、秀次から5千石をもらっていました。
そのころ、生駒親正は讃岐高松で「水城」を作っていました。秀吉は、紀州征伐、四国平定、九州平定と続け、配下に関西に新たな城下町を作らせています。それらの町は、江戸時代に継続されていくのですが、港と小さな町ブロックが共通しています。一柳と生駒は町割りについて相談していたのでしょうか、大変似ています。
彼は、1582年の羽柴秀吉の「備中高松城攻め」に配下で参加しており、低湿地にあった備中高松城(岡山県)は黒田孝高の献策により城を堤で囲む「水攻め」にあい、落ちているのをみています。明智光秀を討って秀吉が天下を取る「大返し」の時の戦いの場であり、彼が城を作るにあたって頭に置かないはずはありません。
絵図の讃岐高松(香川県)は秀吉の四国平定1585年後、1587年に生駒親正が秀吉から讃岐一国17万石に封じられた後に、丸亀と共に築城したものであり、落城した備中高松城(岡山県)とは違います。町割りが、城下町が一気に作られたことを示しています。
城が水没するから「水攻め」になるのであって、最初から水に囲まれておれば、あとは水軍での戦いであり、兵糧も船で運び入れればよいとなります。
一柳直盛は、伊勢湾を支配する志摩の九鬼水軍に自信があったので、備中高松城のように城郭を海側に置いたのでしょうか。
いいえ、それより、城は戦闘の防御施設であるだけでなく、治める国の政治、経済の中心地となる城下町の上に立たなくてはいけないと考え、丘陵の桑部城から桑名港に城をおろしたと考えます。
なお、長崎の出島のような鳥羽城古図は、松江の「極秘諸国城図」74枚の内にあるもので、「真田丸」「江戸城始図」と、タレント千田氏が取り上げたこの城図群は、江戸中期に軍学のネタとして書かれたものであり、正保絵図のもつ信ぴょう性は全くありません。桑名城にある堀が一切なく、描法もつたないです。
既存の都市を利用するのでは、秀吉の京都改造の他に、1601年黒田孝高(官兵衛・如水)も古来からの港町・博多の隣に、福岡城をもってきています。
もちろん、一柳には本田家のような金も時間もなかったので、小さな城郭でしたでしょう。それを本田が拡大整備したのだと考えます。本多忠勝(1548~1610)は1590年、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石で入りますが、城下町づくりの記録は家康の江戸城同様にありません。彼らは、秀吉による町づくりを、この後、畿内に来て学んだのでした。
●1595年、美濃3人衆氏家直元(1563年大垣城を築く)の次男・氏家行広(1546~1615)が2万2000石で入りました。⇒推測の2
1600年9月、関ヶ原の戦いで行広は当初は中立を標榜したのですが、伏見城を落とした西軍が伊勢路を迫ってきたので、西軍に組みしました。この西軍は総勢3万という大軍でした。毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親 等は三河矢作川あたりで決戦だと思い、進軍してきたのですが、福島正則等の動きが早く、岐阜城もおとされてしまい、桑名から「大海人皇子の道」をつかって大垣に向かいます。大垣城は父の直元(卜全)が掘割りを行っており、揖斐川で桑名と結ばれていましたが、3万の軍となれば陸路です。西軍が敗れたため、家康によって氏家行広は本多忠勝にかえられました。
氏家行広は、この関ヶ原の戦いでは、また桑部城に戻っていたことでしょう。1615年、豊臣を滅ぼした家康が、戦闘はもうないと「一国一城令」を出し、多くの城が壊されます。国(藩)を治める城下町が確定するまでは城はいくつもあったのでした。
ぶらり、桑名宿
桑名の名所、六華苑に来ました。コンドルの設計ですので、岩崎邸を思い起こしますが、そこまでは。しかし、名古屋市文化の道の「二葉館」「豊田邸」の和洋建築がならぶ姿より、リッチです。
七里の渡しの跡に、この看板がありました。スマホの現在の地図と見比べると、東海道はすぐわかりす。町の名前が江戸時代のままなのが楽しいです。直線距離で南北に1㎞ですので、街歩きにちょうど良いです。14000歩でした。
伊勢神宮に対して「伊勢国一の鳥居」が建てられました。この鳥居は式年遷宮ごとに内宮宇治橋入口の鳥居が下賜され、建替えられています。向こうに見えるのが、桑名城を想起させるコンクリートの蟠龍櫓です。桑名城には櫓が51あったそうですが、この櫓は広重が有名にしました。
川が桑名港でしたのに、伊勢湾台風にやられて、護岸工事を行い、その頂部を通りにしてしまいましたので、鳥居と櫓がつながってしまいました。
櫓の内部は窓がなく暗いです。ここに展示してある正保の絵図のコピーはガラス越しですが、原寸ですので文字が読めて楽しいです。真剣に読もうとしていた学生時代を思い出しました。
南大手橋まで石垣が500m残っています。櫓の石垣と違い丸まった石ですので、古いのでしょう。
曲がり方が江戸です。道幅は広がっていますが、曲がりは変わりません。寺町もちゃんと残っていました。博物館もあります。訪れるべきだったのでしょうが、歩き疲れて帰りました。とても、観光地とはいえないですし、賑わいのある街でもなく、私のような趣味をもっていないと散策はつらいかな。
ドウゾ。