都市史として、私が書いたのは名古屋しかありません。
信長の都市・岐阜、安土。秀吉の都市・長浜、京都、大阪、伏見。家康の都市・江戸、駿府、名古屋を10年前に書こうとして、それぞれの都市計画を探りはじめたのですが、無謀でした。それぞれの都市のその時代の地図が簡単に描けるものではありません。ラフスケッチと断って描けるものだけでなんとかしたいと、これからまた10年考えます。
名古屋昔話 2017年2月27日記
2017年の名古屋市長選に出ると宣言した元副市長の岩城さんが自宅に来られ「お城を教えて」とありました。私はすでに2年間「名古屋城天守木造化事業に反対します。」運動を行っていましたので、恩師・内藤昌の本を基に名古屋城だけでなく、お城全般の話をしたのでした。
しかし、岩城さんは城だけでなく名古屋の歴史も知らないようなのでした。姪っ子が小学校の先生をしているのですが、名古屋の郷土史は低学年で少しやるだけだそうです。そこで、1972年に33歳の内藤先生が書いた「都市・名古屋を考える」を底本にして、明治以降は書き足し2週間で「名古屋昔話」を書きあげました。PDFにして、A4版67ページを以下にアップします。
私の大学時代は、内藤先生の「復元 安土城」のまっさい中であり、復元の下働きをするも、私の卒論は都市史「城下町」でした。以後の設計の仕事を40年するにも、その町の歴史を常に背景においていたので、ネットを徘徊して意外とあっさりと2週間でまとめることができました。

万治年間の絵図から、名古屋の実数を出しています。昭和49年度名古屋工業大学学士論文 高橋和生


東区の山車祭り 2018年3月5日記
わが町の山車祭りに触れないままに「名古屋昔話」をまとめてしまったのは、触れると奥が深くなると逃げたのでした。ここの山車祭りも尾張のそれらと同様に津島神社の末社であり、都市民が牛頭天王に疫病退散の祈りをするものでした。そして、津島神社の先には京都の祇園祭があります。祇園さんも津島神社も同じ「木瓜紋」です。さらに、織田信長が「木瓜紋」なのです。織田信長の読み物は多いですが、祇園祭と信長をつないだ記事はありません。ここを探り、書かないと「安土城 復元」と手をあげている私としてはいけないと、時間がかかりました。
東区の山車祭りフェイスブックのノートがブログに最適でした。データは消されてはいないのですが、どこにあるのか?この「東区の山車祭り」は、たまたま控えがとってありました。長いです。
パリと名古屋の都市比較 ブールバール(仏: Boulevard)2021年11月23日記
アメリカでは、ブールバードと言います。幅の広い道路で、道路の中央に植栽などの中央分離帯が設けられている都市の軸線をなす道路ですが、元はフランス語で城壁上の通路を指す語であったのでした。パリでルイ14世が城壁を壊して幅の広い道路としたことから大通りを意味する言葉となり、パリでは1860年以降、環状街路に Boulevard(ポーマルシェ大通り、ペリフェリック大通り)、放射状街路に Avenue(シャンゼリゼ大通り)と名付ける規則になっています。
パリ市民は城壁に囲まれた中に住み、いったん事あれば、王と共に攻めてくる外敵と戦うのでした。街を大きくするにはその城壁を壊さないといけません。パリの街の中を周遊する3重のブールバードは、パリの街を生かす大切な都市施設=道路ですが、パリの都市形成の歴史を示すものでもあります。現在のパリ市の境界は最後の城壁の跡の環状道路です。
それに比べ、名古屋の城下町は東海道、佐屋街道、美濃街道、下街道と街道沿いに町人地を延ばし、結果、熱田の宿とくっついてしまっただけであり、植民地の如く作られた50間の格子の町割りを新たに周囲に開くことはありませんでした。
市域は庄内川と天白川で囲まれたところまで昭和の初めに広げるのですが、田んぼの区画整理の延長でした。戦後の都市計画によって作られた100m道路ですが、若宮大通りは市内つらぬく高架高速道路の用地でしかなく、久屋大通りは市長好みに賑やかなバラックが建つ姿です。
東京と比べると、名古屋市内の道路幅は広く、トヨタ自動車の力もあったのか早々に路面電車は廃止され、車優先の道路に歩行者は危険を感じ、広い道路によって寸断された街の姿となっています。
という事を、やんわりと論文にして、河村市政の都市計画批判をしようとまとめた「パリと名古屋の都市比較」でした。サブタイトルには「名古屋に馬車はなかった。自動車都市への助走がなく都市計画に失敗した。」と車批判をして、歩行者優先の都市計画に興味を持ってもらおうとしたのですが、全く力及ばず、2022年9月、名城公園5haを潰しての、愛知国際アリーナの建設が始まりました。
稠密な都市は不衛生であり、疫病が流行るので、ロンドン、パリは建物を壊してでも公園を作ってきたのですが、大村知事、河村市長には公園を潰す罪の意識はまったくありません。なくした5haの公園を復活させることなどできはしません。今からでも遅くありません。工事をやめて、青空を取り返しましょう。
私の育った中川区昭和橋の話です。「百曲がり街道」2017年記
昭和橋は、昭和5年にできた中川運河を渡る国道1号線の橋の名前です。
それに並行して松並木の街道がありました。「姫街道と言い、宮の7里の渡しを嫌ってお姫様が歩いた道ですよ。」と、私は昭和橋小学校でならったのでした。
それが、どうもおかしいぞ?「百曲がり街道」ですと。国道一号線の南を熱田から漁港の下之一色を経て弥富に行く道は、子供の頃はまだ太い松も残っていました。観音様がそここにおわす確かに江戸っぽい街道でした。
「百曲がり街道」とは、正保3年(1646年)徳川義直が国奉行に命じて慶安2年(1649年)に完成した「熱田新田」とその北の中野新外田との間の堤防の上を街道としたとありました。

下の一色の漁港と、熱田の魚市場まで5kmを陸路で結んだのでしょうか。堤防沿いをクネクネ百曲がりだそうです。
「佐屋街道」は、川がなくなった津島でなく「佐屋の渡し」をめざした新しい道でしたが、その「佐屋」も埋まり、さらに南の「弥富」を目指す街道が「百曲がり街道」として、100年ほどは使っていたようです。


「佐屋川の川底上昇に伴い、明和9年(1772年)佐屋船会所は幕府より貸下げ金を受け川浚い費用としたが効果はなかった。文化5年(1808年)、佐屋は渡船場としての機能が果たせず、川下の荷之上村焼田に仮会所を設けられていた。」荷之上村焼田とは、弥富です。
弥富と言えば、14世紀の庄内川を超える宿場、萱津を含めた鎌倉の円覚寺の地図が今に残っています。



中川運河の伝馬船は昭和50年に消えました。「百曲がり街道」の近くを、田んぼを潰して一直線に作ったのが国道一号線です。
中川運河は作って50年の命でした。臭い水ですので観光名所などなりはしません。ミラノの運河のように、新鮮な水を通して、潤いのある街にしたいです。
名古屋市内の村の様子は、きちんと残されています。どの村でも、私がここに書いたようなことはあります。どうぞ。

尾張と越前 「目子媛と継体大王」1994年小学館の紹介です。2023年7月記
この本は春日井市50周年のシンポジウムがネタです。当然「名古屋を濃尾平野全体の一部として見る。」のは、名古屋都市史ではないです。都市が生まれる前の古墳時代のお話です。
古墳という「おらが親分、集団のシンボル」を頂く人々には、農村集落でないところ、商工業を集落に抱いて、武器を整える武人の存在がありました。都市の萌芽です。やがて飛鳥を中心とした中央集権国家ができると、在地の豪族は進んで大和国の支配下に入ります。国司に仕える「郡司」です。そんな時代の名古屋を見ましょう。
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