著作権(財産権)には二つあります。
・一つ目は、安土城天主の内藤昌復元案は商品となっており、その財産を守るものです。
・二つ目は、著作者人格権です。 著作者の内藤昌の名誉や作品に対する思いを守る権利です。作品を公表するかどうか、作者の名前を表示するかどうか、作品の内容を勝手に改変されない(同一性保持権)などを決めることができます。この権利は作者本人にしか持てず、他人に譲渡することはできません。
しかし、内藤昌が亡くなっても、①侵害行為の禁止著作権法第60条により、第三者は著作者が生きていれば「著作者人格権の侵害」となるような行為(無断改変や不適切な公表など)をしてはならないと定められています。②子息などの遺族(配偶者、子、父母、孫、祖父母、兄弟姉妹)は、著作者が存命であった場合と同様に、第三者に対して差止請求や名誉回復の措置(謝罪広告の掲載など)を請求することができます。

CGを使いまわしています。CGを画像を見るより、右下の模型を見る方が3次元でありリアリティあるのですが、こうしてみるとCGが勝ります。


2024年2月から 「絢爛安土城」と銘打った動画にバージョンアップしており「信長の館」で見れます。


- ●はじめに
- 第一章 NHK「豊臣兄弟」に使われた安土城CGを内藤復元案と並べる。
- 第二章 内藤昌(1932~2012)とNHK
- 第三章 内藤案に対しての宮上茂隆(1940~1998)の論、それに対しての反論。
- 第一項 内藤先生(1932~2012)、藤岡先生(1908~1988)が、宮上先生(1940~1998)をいさめる。
- 第二項 宮上先生の「天守指図は偽書」が正しいと、広島大学文学部博士課程 三浦研究室院生 からの「アンチ内藤復元案」 それに対しての名工大工学部建築学科教授・河田克博(1952~2023)の反論。
- 第三項 宮上先生の「天守指図は偽書」が正しいと、15年ぶりの広島大学文学部博士課程 三浦研究室院生 からの2020年「アンチ内藤復元案」 それに対しての2021年名工大工学部建築学科教授・河田克博(1952~2023)の反論。さらにそれに対しての2022年広島大学文学部準教授中村氏の反論。
●はじめに
大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、売れっ子の八津弘幸氏のオリジナル脚本もあって大変面白く、毎回楽しく見ています。「信長、秀吉、家康」が出てくれば、伊達政宗、黒田官兵衛、明智光秀が主役であっても見せ所は同じであり、「今回の<本能寺の変>はどう描かれようか。」と歌舞伎18番のように楽しんでいます。
1963年に始まった大河ドラマですが、全65本の内12本は「信長、秀吉、家康」の何れかが主役級であり、20本以上に「信長、秀吉、家康」がセットで出てきます。視聴率が高く出ないと視聴料を取っているNHKは批判されますので、1992年「信長 KING OF ZIPANGU」1996年「秀吉」2000年「葵徳川三代」と3人が直接「主役」を行った後に、3人とやや距離がある2002年「利家とまつ」2006年「功名が辻」2009年「天地人」2011年「江」2014年「軍師黒田官兵衛」2016年「真田丸」2017年「女城主直虎」を7本続け、近年はまた、2020年「光秀」、2023年「家康」、今年「秀長」と3年毎に「信長、秀吉、家康」が「主役級」を行うドラマに戻っています。おのずと、繰り返されてきた「おはこ」話に、脚本家が自身の独自性をいかに面白く付加したかが話題になります。
セビリア万博(1992年4月20日~10月12日)に、堺屋太一がプロデュースして出品した、安土城天主5・6階の原寸模型(内藤昌復元)に相応して、内藤昌が建築考証を行った1992年「信長 KING OF ZIPANGU」以来、安土山への築城も「おはこ」の一つでしょう。
NHKの看板をかけ、大量の役者・物量をつぎ込んで来た大河ドラマですが、「豊臣兄弟!」では、1965年の「太閤記」のようにエキストラを大量動員した合戦シーンがありません。秀吉は馬に乗らず、走り回っていますが、これは脚本家の狙いではなく、馬の大河ドラマへの投入が年々大変になっているからでしょう。
その代わりとして、20人ほどで合戦シーンを作る工夫が進んでいます。VFX(Visual Effectsとは、実写映像にコンピュータを用いて視覚的な加工や合成を加える視覚効果)は大働きです。水攻めの城などもCG(Computer Graphicsとは、コンピュータを使って作成された3次元映像、それらを生み出すための技術全般)で城を作成し、手前の役者たちとVFXで合成すれば圧倒的な迫力が得られます。テレビは映画と違い、標準・中望遠(35ミリ換算で50mm〜200mm)画角:約30度〜12度と写す範囲が狭いので、遠くの背景をCGで作っておき、その前での画面切り替えを繁茂に行えば、場面の雰囲気を作れます。
安土城天主のきらびやか外観、内観のCGは、信長、妹の市が身に着けているあでやかな衣装、金泥襖モドキの大道具の効果とあいまって、全体の制作費を減らすこともできます。建築を3次元の立体映像で作るのがこの10年で大変増えており、大河ドラマに欠かせなくなっています。
さてはて、NHK2026年大河ドラマ豊臣兄弟の第25話「変事の予兆」が終わってから、1分30秒ほど、アナウンサーのナレーションで安土城跡を訪ねるのですが、いつもと違い「復元イメージ」と小さく右上にテロップをつけ、安土城をライトアップしたCGが3カット映し出され、「信長がこの巨大建築にこめたのは、自らの力を示す「見せる城」としての圧倒的な姿でした。この権威の象徴ともいえる城づくりは後に秀吉へと引き継がれて行きます。」とナレーションされるのでした。
このCGは、ナレーションのもったいぶった「資料によれば」という曖昧な事ではなく、史実です。天正9年(1581年)7月15日の盂蘭盆会の夜に、イタリア人の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを歓待するために、宣教師の出立を延期させ、城下の民家などの明かりを全て消させた上で、安土城山の天主や寺にたくさんの提灯を吊り下げ、新道(南の施工用登山道を入江と共に整備し東山道の脇街道を山の麓に呼びこみ、入江と城下町の端にあるセミナリオに至る)には松明を持った家臣たちを並べ、入江に浮かべた船にも松明をつけさせています。現在の盂蘭盆会、京都五山の送り火は新暦8月16日に行われますが、旧暦では7月になります。
CGの内容に疑問を持ったのではなく、私のさてはてとは、「映像提供:近江八幡市」「天主復元案監修:内藤昌」とテロップにありますが、アナウンサーはこれらを読みあげることなく、「見せる城」とのナレーションに私は驚いたのでした。信長が誰に見せるのかを言いたくないので「資料によれば」としたのでしょう。大河ドラマが従来持っていた歴史性を示す1分30秒だったのですが、脚本家に従いこの時代の歴史のタガ(=南蛮)を外した「制作NHK」でした。
この2行のテロップに対して、以下の長い「NHK2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の中に描かれた安土城の姿に、内藤昌の安土城復元を考える。」を書こうと決意しました。

●「復元案は内藤昌」とあるので、テレビ視聴者は本編のCG安土城天守も内藤の復元と思ってしまわないでしょうか? 本編は三浦ー中村復元案ですのに。
内藤昌の著作権「著作者の内藤昌の名誉や作品に対する思いを守る権利」に照らして、本編のグロい復元案を内藤復元案と思わせるということは、内藤の名誉、思いを犯すものと弟子の私は考えます。
テレビを漫然と見ていて、内藤復元案と三浦ー中村復元案の違いなど、誰もが分るものではありませんが、私は瞬時に分かります。この1分30秒の天主は本編とは違って間違いなく内藤復元案です。近江八幡市は「絢爛安土城」と銘打った動画にバージョンアップしており、2024年2月から「信長の館」でここに提供された資料の元ネタが見られます。内藤昌案の原寸模型を持つ近江八幡市の動画の天主は2001年、2015年の動画も内藤案によっていました。なお、この動画を2007年に病に倒れ、2012年に亡くなった内藤昌が監修することはありえません。
NHKの意図としては、三浦ー中村復元案を放映したいが、それによって、内藤昌(2012年に逝去)の著作権者から「著作権違反である。」との攻撃を受けないように工夫したテロップだと、私は深読みをしました。「NHKは、安土城天主復元案監修者として、内藤昌を認識しているよ。」です。
何故なら、三浦ー中村復元案のCGでも、この盂蘭盆会の安土山ライトアップ絵は作られていますので、それを使えば「1分30秒の城跡の解説」としては十分な事です。そうならば、「天主復元案監修:内藤昌」は要りません。NHKはあえて紛らわしい事をしました。
大河ドラマの伝統である「歴史」の重みを1分30秒のナレーションで作りたかったのでしょうが、舌足らずであり、「著作権」に無頓着でした。本編の復元案とは違うとは視聴者に気づれかない、暗闇の中にライトアップされた内藤復元案をあえて用い、実に「無頓着」を装って、「復元案は内藤昌」の一文をどうしても入れたかったのだと私は思いました。
それで、内藤復元案と三浦-中村復元案を並べて以下に示します。私は<内藤昌の名誉や作品に対する思いを守る>べく二案の違う事を示したいのです。私がもし「建築考証者」ならばとのコメントもつけます。
●本編NHKの安土城天主の映像は、滋賀県が2025年から遺跡でVR(Virtual Reality 仮想現実の略)で流している三浦−中村復元案と同じものですのに、この「近江八幡市提供の映像」と「安土城天主復元監修:内藤昌」のテロップによって視聴者に本編の復元も内藤昌だと思わせることは、滋賀県の著作権、三浦ー中村両氏の著作権をNHKは侵害しているのではないのでしょうか?

「監修」とは、本、記事、番組、商品などの内容を専門家としてチェックし、正しさや品質を認めて指導・監督することです。
「安土城天守復元監修:内藤昌」とNHKはテロップに出しましたが、弟子がどうかかわろうと「内藤昌復元」であり、安土城天主復元に関して「監修」を内藤昌はしていません。NHKは、どうして「監修」としたのでしょうか。
ペーパークラフトでは「監修・復元設計:内藤昌 模型創作:杉井清二」としていますが、紙で素人が模型を作る為の模型屋の紙の設計が必要だからであり、パース、模型、CGと3次元の立体で復元案を示す時は、復元内藤昌です。パース屋さん、模型屋さん、CG屋さんの働きが必要なので、製作者として彼らの名を出しますが、復元は内藤昌です。
山の麓から天主、寺、侍屋敷と安土山をなめるCGとなると、内藤昌の復元とはなりません。内藤昌の復元は天主だけです。では、そのCGは内藤昌が監修したかとなると、2007年に病に倒れてからは実際に何も出来ませんでした。
ここで私は便宜的に「三浦-中村復元案」と表現していますが、2019年12月に発売された学研ムック『ワイド&パノラマ 日本の城 天守・櫓・門と御殿 鳥瞰・断面イラスト、CG、精密模型でよみがえる近世城郭 監修:三浦正幸 1800円』の中では、安土城天主復元CG(復元=天守:中村泰朗、その他:三浦正幸 CG制作=浅野孝司)としていますので、NHKは内藤昌の著作を調べず、学研ムックの「監修:三浦正幸」を真似をしての「復元案監修:内藤昌」としただけではないでしょうか。
2005年の安土城天主復元案も、中村泰朗氏と同じ広島大学大学院文学研究科三浦研究室の院生であった佐藤大規氏が復元したと言い、一方雑誌テレビの中で三浦氏は自ら復元監修したと発言していますので、こちらの案も「三浦―佐藤復元案」と表現します。
この城跡紹介の3カットのCG著作権は近江八幡市です。「映像提供」のテロップがそれを示しています。しかし、近江八幡市の映像はこの放送では部分的に変えられています。(後で詳述します。)2012年に内藤昌先生は近江八幡市のCG制作に内藤案を使うことを認めていますが、NHKにこのように使われることはもちろん、近江八幡市のCGの制作を「監修」することも、2012年にお亡くなりになっていますのでできません。
復元案の内藤昌の著作権はそれを使った二次製品のCGにも著作権はあるのでしょうか。先日は静岡市が駿府城の3次元CGを作成していましたが、内藤昌復元とは朝日新聞のニュースに記されていませんでした。内藤昌は2012年に亡くなっていますので、CGを作成するために内藤昌の図面を利用する許可を内藤昌に求める事はできません。
内藤研究室卒業生が営む文化環境計画研究所が静岡市から復元の委託を受けていましたが、内藤昌著「城の日本史」にパースがあるように、駿府城復元案の著作権は内藤昌にあります。安土城天主と同様に、駿府城の復元図面も公布していますので、いずれも3次元の立体映像を作成するのは容易です。「著作権者」に断ることなく内容を少し変えて「自身で考え、描いた。」と言えば著作権はないことなり、よいのでしょうか。

内藤昌著「城の日本史」講談社学術文庫 2011年刊 より


復元日本大観1「城と館」責任編集 内藤昌1988年世界文化社刊 に図面、パース、解説があります。

及ばないと私は思いますが、今回のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」から、「著作権」の線引きを考えさせられました。
飛騨高山城も内藤昌の「復元的研究」により復元図が作られ、「内藤昌復元」と明記された復元模型が飛騨高山まちの博物館のガラスケースに保管されています。高山の観光案内に、高山城の3次元のイラストが内藤復元案をモディファイして何度も描かれていますが、そこには内藤昌復元とは書かれていません。もう高山城の肖像権は史実として一般化していて、高山市のホームページに復元の経緯とその結果「内藤昌復元」とあればよいのかもしれません。
史実解明には内藤昌の「復元的研究」があったのですが、史実は一つですので、それを他のものが描いても、400年前の事には著作権はありません。内藤昌の作った模型、パースを利用するなら著作権(財産権)が生じ、著作権者の承諾が要りましょうが。
現代のデジタル・コピペ時代に即した「著作権」がきっとあるのでしょうが、私に法根拠はよくわかりません。高山市は〇で、静岡市は✖だと私は思います。
2001年の国立歴史民俗博物館(歴博)による安土城動画制作には内藤昌の関与もありましたが、以後のバージョンアップに内藤昌が関わる事はなく、<著作者人格権。 著作者の内藤昌の名誉や作品に対する思いを守る権利>は、誰がどうのように守れるものでしょうか。NHK1分30秒の中に、内藤昌の「天守案復元案監修」とは言えない、NHK(VFXプロデューサー角田春奈、VFXディレクター山田茂人、VFXスーパーバイザー佐藤望、VFX樋口開斗)のCG変更の見事な手わざに気づいた私です。現代のコピペだらけの世界での「著作権」はどうなっているのでしょうか、「どなたか教えて下さいませ。」と、以下に私が気づいた<NHKの見事な手わざ>を書いて行きます。
私が気にしているのは「著作者人格権」です。著作者の名誉や作品に対する思いを守る権利以外に、作品を公表するかどうか、作者の名前を表示するかどうか、作品の内容を勝手に改変されない。があります。これらに対して、NHKは「映像提供:近江八幡市」「天主復元案監修:内藤昌」と示しておけば内藤昌の著作権者から攻撃されないと考えたのでしょうが、弟子としてこの扱いは納得できません。本編のグロい天守復元案が内藤昌の復元だとは思われたくないです。
私は内藤昌の家族でもなく、著作権を引き継いでもいませんので訂正・謝罪請求を法に訴えることはできませんが、こうしてブログにてNHKを糾弾することはできようと行っています。
三浦・中村復元案での安土城ライトアップ絵を使って「遺跡紹介」を行い、復元=天守:中村泰朗、その他:三浦正幸、CG制作=浅野孝司とテロップすれば、「学問への思慮がないNHKおよび脚本家である。」と「滋賀県の<安土城天主の見える化>は学問を無視している。」と非難されると同様に非難されるだけで、内藤昌のもつ「著作権」への違反の疑義は、私に生じませんでした。
NHKの歴史ドラマですので、ドラマの脚本が内藤昌の学問「復元的研究」結果を反映していなくても、たとえば「信長とお市とあんなに仲が良いのはオカシイ」の指摘により、大河ドラマの評判が落ちても、それで「歴史改竄した」と大河ドラマの歴史性が非難されないと同様に、内藤昌の学問「復元的研究」がドラマに反映されなくても、脚本家の創作と言われれば「致し方無い」と私は考えています。
●問題は「天主復元案監修:内藤昌」のテロップをつけた事から、生じています。

本編にない1分30秒の事であり本編の脚本家とは関係ないようですが、本編にかかります。「信長とお市との仲の良い場面」が、私がこのブログの見出し画面においた、NHKスタジオに作った安土天主の最上階となり「このインテリアも内藤昌の復元」と視聴者が捉えたとなると、「NHKは内藤昌の著作権を犯した。」となります。
なぜなら、この空間はナレーションにあったように「信長の権威を見せる場」であり、放送の「和む場」の金貼りだけの簡潔なインテリでなく、内藤昌の「復元的研究」の成果は原寸模型で「信長の館」にギラギラと復元してあるのですからオカシイのです。窓も手すりも扉も、内藤昌の復元した「信長の権威を見せる場」の豪華なインテリアとNHKスタジオの簡素な大道具「安土城天主最上階」は違います。
脚本家が「なぜ、信長が安土山にこんな見せる天主をつくったのか?こんなインテリアにしたのか?」の視座を持たないままに脚本を進め、「おはこ=安土山に築城」を従来のように丁寧に追わなかった事が、NHKが大河ドラマに見せたい「歴史性=今回の場合は、見せる城」との齟齬を生じました。
安土城天主は信長の権威、思想を示す建築空間ですので、6月28日第25回「変事の予兆」、7月05日第26回「信長を笑わせろ」、の2回も信長と市の二人だけで和む場として金貼りの天主最上階を使ったことがオカシイのです。内藤復元案は黒に金、濃絵のギラギラ空間です。「見せる城」として家康をひれ伏させる場には適していますが、兄妹が和める空間ではありません。NHKは「天主復元案監修:内藤昌」と番組最後に示しながら、本編の天主には、三浦ー中村案を採用しています。
私の「歴史考証」よれば、信長等が演じた中庭を持つ殿主の大道具もオカシイです(後に詳しく指摘します。)が、この広間は中庭の向こうに天主が見えていますので、天主内の広間でない事は明らかです。「天主復元案監修:内藤昌」のテロップとは関わらない、というしかありません。
もし、私が「建築考証者」ならばとし、内藤復元案と三浦-中村復元案を並べて示し、それと共に私の「納得できないところ」を書き加えました。大河ドラマは楽しくなくてはダメですが、歴史小説ですので歴史のタガはそれなりにあると考えての私のタガ二つです。
ナレーションで「破城の痕がある。秀吉によってなされたと言われている。」とありましたが、これは近年になって、滋賀県の教育委員会、考古学・木戸雅寿氏が言い出したことです。
「安土城天主には掘立柱があった。」「秀吉による破城があった。」「天主が燃えた後の火事場整備の跡ある。」「大手道前に城下町を広げる予定だった。」と、史実探求はさておいて、空想を楽しむ考古学者です。
50年前に私が聞いた「破城」の通説は、「この石垣の散らかり、石がないのは、秀吉の近江八幡城築城の為でなく、井伊の彦根城築城に石が運ばれた事による。徳川家はアンチ信長であり、石垣を壊しても気にしないというか、積極的に豊臣包囲網の為の彦根築城であった。秀吉は安土城を訪れ、伝・二の丸に信長慰霊碑を建てて、寺に供養を頼んでいる。その後織田信雄は三方師と共にしばらく安土城に住んでいる。秀吉に破城する理由がない。」でした。NHKは自身で調べていないのでしょう。
滋賀県知事は、歴史を曲げているいう認識を持たないままに三浦―中村復元案にて、2025年に動画を作成し、「安土城天主再建」を言っています。「新発見:秀吉の破城跡」の賑わしも、観光客誘致につながると思っているようです。文化庁が史跡の上に認める「再建」には、地道な研究の積みかさねが必要なのですが、まったく滋賀県には困ったものです。近江八幡市は、内藤復元案で動画を2024年に制作していますのに、1年違いで三浦―中村復元案により動画を作成しました。行政の調整が取られていません。私の滋賀県知事を糾弾するブログは「幻の安土城、復元。」と滋賀県は言う。2023年」です。3年前ですが、全く効き目はないままに、「築城450年祭」と知事は賑わしを行っています。底の浅い賑わしでも、せめて観光客が増えると良いのですが。
第一章 NHK「豊臣兄弟」に使われた安土城CGを内藤復元案と並べる。
第一項 建築考証とは何か、ホンモノの建築をNHKが作れるわけない中で。
大河ドラマは、作り物であり、脚本によって作られます。国民に人気の「信長、秀吉、家康」の3人を並べた大河ドラマは、脚本家を変え繰り返されています。今回の脚本は八津弘幸さんで、その原作はありません。役者の顔のズームアップの連続で話を繋げていく、売れっ子の脚本家です。私は歴史小説と歴史とを混同することはありません。役者がしゃべる言葉、しぐさ、衣装、大道具、セットは脚本家の考えにより、なんでもOKの「時代劇」としてあるものです。ドラマのセットであり、現実空間では当然ありません。
しかし、第25回「変事の予兆」で、明智光秀が織田信澄と二人で「信長殺し」を話す場面には、ビックリしました。このガラスで囲まれた空間を考え出したのは誰なんでしょうか。演出が美術と相談して、、、いや、脚本の段階で密室の想定がされていないとここまではできないでしょう。
紙障子もまだない時代に、ガラス障子で囲う空間とは!「必殺仕事人」ならば、蝋燭一本の暗闇で顔を寄せ、「時代劇」らしく濃い明暗を作って演出するのですが、この狭い空間に似合わない多数の燭台、釣灯炉があり、天井までも光らせています。これだけの準備を信長配下のものが安土城(天主ではないでしょうが、明智光秀と織田信澄の城主同士の立ち話ですので安土城での設定と理解しました。)でなしたならもう「密室」とは言えないでしょうに。現実にあったかのように見せるのが「時代劇」です。従来のルールを「ガラス障子に多数の照明」は逸脱しています。

NHKは、芝居を<らしく見せる為>に、いろんな道のプロを雇い、そこには「建築考証 三浦正幸」も明示されています。平井聖先生の時は考証・指導も少なかったのですが、今は多くのプロ、考証者、指導者がNHKに抱えられています。しかし、制作責任はNHKであり、大河ドラマの著作権はNHKが持っています。考証者に著作権はありません。
すなわち、安土城天主復元案の三浦ー中村著作権を、NHKはいくらかで買ったとなります。もしくは、2019年「麒麟が来る」の時にNHKはこのCGを三浦-中村復元案を元に既に作っており、NHKはCGの著作権を以前より持っていたとも考えられます。
2025年に滋賀県が作成したと言って現地に流した安土城天主のVRを見ましたが、大変な手間がかかっています。3次元情報をコンピュータ―に逐一入力し、動画にするにはアニメと同様に多くの2次元の絵を算出し、それを連続的に撮る事で作られます。3カ月ぐらいはかかかっていると見ました。滋賀県はお金を払っただけの「作成」であり、滋賀県考古学の木戸雅寿氏(1958年~)がまとめた「安土城復元研究の過去・現在・未来」を読むに、建築を知らない彼らでは到底作れません。

私の指摘は「建築考証者」でなく制作NHKに対してです。大河ドラマの建築考証を長くされた平井聖先生から「いくら言っても、NHKの美術は勝手に作ってしまうんだよ。」と伺っていますが、今回の場面設定にはずいぶんと無理があると安土城に限って以下に続けます。
第二項 安土城天主は「天主」でなく「殿主」と安土日記にあり、信長公記は「天主に移徒」と書いています。朝倉氏の一条谷、浅井氏の小谷の<館城>の延長に安土城天主があったのだと私は考えています。天主は信長の住まいでした。
●天主、天守、殿主、殿守の用例を書き出します。

1571年元亀2年 信長が足利義昭の為に特急で作った二条城の「天主之前」で、上京町衆舞踊遊行がされたのが「天主」の初見です。フロイスが「かって見た事がない石造」と書いているので、正面入り口に穴太衆による石積みがあり、中世以来の「矢倉」が門の上に組まれていたのでしょう。
中世の館城は、堀をうがち、塀を建て、門の上には矢を置き、守りを固めていました。16世紀洛中洛外図にも描かれています。
1571年元亀2年 信長が足利義昭の為に特急で作った二条城の「天主之前」
1572年元亀3年 明智光秀の坂本城天主「兼見卿記」
1573年元亀4年 和田惟長が高山右近により追放された高槻城天主「兼見卿記」
1574年天正2年 細川藤孝の勝竜寺城の殿主「東山文庫記録」
1576年天正4年 安土城の天主「兼見卿記」
1579年天正7年 安土城の殿守「津田宗及」
1579年天正7年 安土城の殿主「安土日記」
1579年天正7年 大和国井戸宿城の天守「多門日記」
1582年天正10年代となると、秀吉の姫路城だけでなく、「てんしゅ」の用語は「城」と共に枚挙にいとまないです。
1573年元亀4年に信長に差し出された松永久秀の多門城は、石垣の上の長屋を「多門櫓」と後世に呼ぶほどに先進の城(1575年島津家久日記)であり、「二層の常御殿に「楊貴妃の間」、四層の「高矢倉」があった。」とあるですが、具体的内容はわかりません。松永は1561年に多門城に入り、64年に城を完成させているので、信長の1571年二条城の「天主」の形は、多門城の真似かもしれません。
安土城天主は、2026年6月28日第25回「変事の予兆」、2026年7月05日第26回「信長を笑わせろ」、2026年7月12日第27回「本能寺の変」、2026年7月19日第28回「急げ!秀吉」と4回にわたって、信長の権力誇示をカタチで現すものとして使われました。
従来の「信長、秀吉、家康」大河ドラマから見て、安土城の出番が多かっただけに、「歴史小説」であっても視聴者は「歴史」的に安土城を捉えてしまった事でしょう。本編が終ってからのナレーションによる「城跡紹介」は。ドラマの「歴史」を伝えるという1965年「太閤記」以来大河ドラマで守られてきたものでした。
是非とも、3年先の「信長、秀吉、家康」大河ドラマでは、先達の「復元的研究」の成果を取り入れて欲しいものです。折角、平井聖先生等の努力で、裸足で板の間を歩くようになったのですから、ガラス障子はやめましょう。
●「天守指図」の中に、NHKの映像で作った場面を探します。
確かに「安土城完成」と予告編に打つほどの回でした。この写真の広間を「天守指図」に探しますと、帳台構えを上段脇に持つ大広間は安土城2階となります。


帳台構えの反対側に廊下を隔てて窓はありますが、漆喰の外壁に穿った窓は2m置きに4つしかなく、広間は明るくはないです。テレビは映画と違って明るい部屋でみますので、無理でも画面を明るくしないといけません。役者の顔は明るく、部屋は暗く見せる制作は難しいでしょうが、ベルサイユ宮殿舞踏場も3ルクスと暗かったので鏡を壁に貼ったのと同様に、金貼りの襖も実際の照度は稼げないですが、その効果はあったと思います。金の煌めきを暗い広間に欲しくて、狩野永徳に障壁画を描かせたのかもしれません。
「陰翳礼讃」によって、私たちは「西洋文明がもたらす<過度な明るさや合理性>を批判し、日本の伝統建築や生活空間にある<薄暗がり(陰翳)>の中にこそ、日本独自の美しさや深みがある。」ことを学んでいます。中庭からドカーンと広間に入る明るさでなく、美術照明の工夫で「時代劇」らしく金の煌めきを表現できないものでしょうか。

信長公記によると、天正10年5月19日に大宝坊を宿舎としていた家康歓待の能が摠見寺で行われ、20日の信長同席の宴会は江雲寺御殿であり、その後に家康と配下の者は天主に入て帷子を信長よりもらっています。多く者が参列する宴会では、皆がゾロゾロと移動しての事もあったでしょう。
しかし、ドラマでは宴会も能も相撲も同じ中庭を持つ殿主で行われています。ならば、その転換場面もテレビを見る者に受け入れやすくしないと、庭木がある中庭に面しての宴会、仮設舞台での能、中庭の全て取り払ったところでの相撲と、この場面設定には無理があります。この展開についていけませんでした。
八津弘幸脚本ならではの、役者のズームアップの連続で話を繋げているのですが、話題の積め込みすぎが、セットの乱雑な扱いになり、大河ドラマの重さがありません。
第三項 安土城天主の外観デザインについて
●昼間の絵でみれば、内藤復元案と三浦ー中村復元案は全く違います。

三浦ー中村復元案2019年の前の、三浦―佐藤復元案2005年でも、手すりが朱色でしたが、宣教師、安土日記のどちらも「5階の八角形は神社のような朱色が使われ、6階は窓以外は金」とあります。三浦―佐藤復元案2005年では、頂部の瓦が赤でしたので統一感もあったのですが、三浦ー中村復元案2019年では黒瓦にしたので、手すりの朱色の説明がつきません。飛田新地の廓のようです。気品がありません。最上階は単純に金閣寺を真似たで良いと思います。



宮上、三浦、佐藤、中村の諸氏は「ゑん とは縁であり、手すりを持ち、外壁の外についたバルコニーとしているので、5・6階がそのまま立ち上がって不安定ですし、雨漏りがします。破風が八角形の見せ場を千鳥破風で隠してしまっています。大工はこんなブサイクな納まりはしません。
三浦ー中村復元案2019年と三浦―佐藤復元案2005年の共通点としてさらに二つ、目立ってあります。八角形の外周に「ゑん」を回しているのですが、これでは雨漏りがします。「天守指図」では「ゑん」と文字はあるのですが、内部空間で内陣と外陣の外陣をさしています。1階にも「天守指図」には「ゑん」があるのですが、それは、石垣が矩に積めなくて四角の部屋にならず、あまった内部空間を指しています。
もう一つ、3階を大入母屋屋根にして、屋根裏を4階とするのは内藤復元案と同じですが、大棟に直角に大きな千鳥破風を設けています。外観デザイン以外に破風をつける理由はないのですが、これでは朱色の八角を破風の陰に消すデザインとなっています。ワザワザの朱色の八角形は、それを見せるためでしょうに。建築デザインを行ったことのない人が、信長公記の文字だけで復元した案です。木割書の中から見つかった「天守指図」は、大工の設計図として当然ながら理にかなっています。

●安土城のすぐあとに作られた秀吉の大坂城とは
三浦正幸氏等は、宮上先生の影響から、まず秀吉の大坂城の復元を先に行い、次に安土城の復元に取り組みます。安土城の宮上復元案、三浦ー佐藤復元案、三浦ー中村復元案は、大坂城のそれぞれの復元案から引っ張られています。秀吉の大坂城天守の一階平面図・配置図は大工の中井家に残されており、その上部の復元は屏風絵に依るのですが、これだけ違います。

豊臣大坂城天守復元南立面図(監修:三浦正幸/復元:中村泰朗) 2019/01/23 加藤理文先生のお城NEWS解説 より

2008年の三浦ー佐藤案とどこをどうして変えたなど意味のない詮索です。安土城と同様に三浦氏の思い付きでしかないのですから。三浦ー中村による大坂城復元案は安土城復元案と同様に派手に外壁に金をまとってました。安土城天主でも入母屋の大屋根の高さより、その棟に直行する千鳥破風が松江城のように高いのは、大坂城の屏風絵から来ているのでしょう。私は絵師がいい加減に描いた結果だと思います。屏風絵はアイソメ画法で描くのですが、絵師が正確に描写する事はありません。
内藤復元案と比べてギラギラ感が強い三浦―中村復元案の仕掛けの一つに、外壁の金がありますが、従前の資料でなく、秀吉の大坂城の復元図から持ち込んだのだとわかりました。安土城天主の外壁は悉く「黒」と信長公記に、輝く「白」と宣教師の手紙にありますが、金色が外壁にあるのは最上階だけというのが資料です。「最新の資料から復元」が売り文句の三浦-中村安土城天主復元案ですが、「三浦氏の思いつき」が一番の資料です。
NHKにおいては、「学者が復元」したもので、脚本家の求める「派手」にあっておれば「それでよい。」とし、大河ドラマの歴史性をうち出す番組最後の城跡探訪1分30秒で「天主復元案監修:内藤昌」と、有名学者の内藤昌の名をテロップで出しておけばさらに歴史性のダメ押しになろう、ぐらいの軽いノリの「制作NHK」なのでしょうが、「学者」の学問世界を、2001年NHK制作「信長の夢「安土城」発掘」ぐらいには、覗いて欲しいものです。
内藤復元案は「天守指図」「信長公記」に依りますが、宮上案、三浦―佐藤案、三浦ー中村案いずれも、復元の根拠が「信長公記」だけなのは変わりません。

●内藤昌の安土城天主の研究1976年国華以降の安土城天主の復元案
1976年に内藤昌が「天守指図」により復元案を世に示した後、イラストレーターは古建築技術を知ることなく、「天守指図は、宮上が言うように偽書である。」と言って、内藤案図面を元に、簡単に外観を「復元」しています。
d. 内藤昌(名古屋工業大学 建築学科 教授)1976年(昭和51年)
・「天守指図」に基づく復元案 ・平面図、立面図、断面図
e. 宮上茂隆(東京大学工学部建築学科 助手)1977年(昭和52年)
・「天守指図」を偽書とし、内藤復元案を否定 ・三重県伊勢市の「ともいきの国 伊勢忍者キングダム」
f. 兵頭与一郎(城郭研究者)1991年(平成2年)
・外観パースのみ
g. 石原守(一級建築士)2000年(平成12年)
・外観パースのみ
h. 佐藤大規(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期)2005年(平成17年)三浦正幸研究室
i. 中村泰朗(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期)2021年(令和3年)三浦正幸研究室
日本建築学会への提出は2021年ですが学研ムック「ワイド&パノラマ 日本の城」2019年12月で発表。
J.西ヶ谷恭弘氏(城郭研究者)、
k. 森 俊弘氏(日本史研究家)、
l. 横手聡氏(ネット上で復元案を発表)
m. 中村優希氏(早稲田大学城郭研究会の主催者でネット上で復元案を発表)などなど、
多く復元案があるのは平面図、断面図、立面図をそろえて示した内藤昌の著作によります。古建築の技術を踏まえて建築として復元している方は、内藤昌、宮上茂以降おられません。
広島大学工学部建築学科でなく広島大学大学院文学研究科ですので、佐藤氏の内藤案批判の論文など「大工が出来ないと言っているから、できない。」と、まったく技術なく稚拙です。後で、論文を載せます。宮上茂先生の論文への批判は、前川徹氏のブログ、安土城考(その9)「天主指図」宮上論文の考察に詳しいです。
宮上先生の内藤案批判により、「天守指図」の正当性が一層明らかになりました。「天守指図」は宮上先生が言うような偽書でないと、「建仁寺流の木割書」研究が以下のように進められています。
「池上右平に関する資料の発見と考察」正見泰 石川県金沢城調査研究所 日本建築学会 2010年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijt/16/33/16_33_735/_pdf/-char/ja
坂本忠規 竹中大工道具館 「黒田家伝来文書について」 建築史学71 2018年
https://yume-azuchijo.org/2023/05/10/tenshu-sashizu/
第四項 NHKが従来の大河ドラマ「信長」から、今回削除したもの。


最上層のインテリアに「儒教、道教の絵」を描かず、キリスト教宣教師、山頂の摠見寺伽藍に触れない脚本では、信長が、なぜ安土山に城を作ったのかが不明です。従来からの十八番=安土城築城で必ずふれていた二つのタガ、南蛮と摠見寺を今回の脚本では外してしまいました。
歴史小説として、「林秀貞の追放」より摠見寺は重要です。摠見寺を消すNHKのCGの変更を内藤先生ならば、絶対に認めません。比叡山、一向宗との熾烈な戦いは「豊臣兄弟」に描かれていましたが、安土山を蓬莱山にする為に、天主が信長のごとく高くそびえ、その前さばきとして神仏混合の伽藍を置いた事にNHKのCGは触れていません。アナウンサーのナレーションでは視聴者は寺は「信長の慰霊」の為に作られたと捉えてしまいます。違います。信長は、摠見寺を山頂に設け、安土城の一部としたのでした。
城の門と言えば、高麗門・多門櫓の枡形ですが、信長は神社の楼門を百土橋からの大手に置きました。今も残っています。山頂への登りには、三重の塔が目印でした。天主は大手からは見えません。

安土山の南面の石段が復元されて滋賀県は「大手道」と名付けていますが、間違いです。信長公記、宣教師の記録にあるように、城が完成し、斜路をソリを使って資材をあげる必要がなくってから「新道」として整備したのでした。信長の小牧山城と同じです。

右側の近江八幡市のCGの手前には人型がシルエットであります。スイマセンよく目を凝らすと、頭の形とガウンから宣教師だとわかります。山頂左には、寺の本堂と三重の塔も提灯を輝かせています。ハッキリと見るには近江八幡市の動画「絢爛安土城」をご覧ください。
キリスト教の宣教師の出立を止めて、この景色を信長は宣教師に見せたのです。松明は尾根の大手道でなく谷道から新道をセミナリオに向かって並べられました。宣教師の記録に丁寧に書かれています。信長はバチカンに安土城と城下町の金屏風を贈ることにしています。NHKは、だれに見せる安土城のライトアップなのか、盂蘭盆会も含めて話をしていません。NHKは宣教師を消し去り「見せる城」とただナレーションをするだけでした。
歴史小説ならば、築城に至るプロットが弱くてこれでは売れませんが、瞬時に流れるテレビですので、八津弘幸流で済ましたのでしょう。しかし、それでは大河ドラマの重さがありません。

〇ルイス・フロイスの『日本史』松田毅一/川崎桃太 訳 (第3巻・第53章) 要約です。
信長はヴァリニャーノを宮殿に招き、自ら非常に大切にしていた「長大な屏風」を贈った。それは信長が特別に絵師に命じて作らせた金色のもので、安土の城、城下町、湖、そこに浮かぶ船、家臣たちの屋敷などが極めて精緻に描かれていた。内裏(正親町天皇)から譲ってほしいといわれたものだった。
信長はヴァリニャーノに対し、「予に会うためにはるばる遠方から訪ねてこられ、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするにあたり、予の思い出となるものを贈りたいと思うが、予が何にもまして気に入っているかの屏風を贈呈したい。ついては実見した上でもし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい。」と語った。
ヴァリニャーノ巡察師一行は、天正9年7月14日に安土を出発して京都へ向かう予定だった。しかしそれを知った信長が、「もう1日滞在を延期して、翌15日の夜に行われる日本の(盆の)祭りを見ていくように」と強く要請した。信長は、巡察師に何か珍しいものを見せて喜ばせたい、自分たちの(もてなしの)情愛を示したいという親切心からそう言ったので、巡察師もその提案を喜んで受け入れ、出立を延期した。
信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提燈で天守閣を飾らせた。七層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。彼は街路──それは我らの修道院の一角から出発し、前を通り、城山の麓まで走っている──に、手に手に松明を持った大群衆を集め、彼らを長い通りの両側に整然と配列させた。(中略)松明が一斉に点火されると、あたりはまるで真昼のようになった。」
司祭、修道士、セミナリオの子供たちがくつろぎながら窓から祭りの火を眺めていると、信長が徒歩で修道院の入口を通過した。信長が喜ぶと思ったので司祭たちは表に出て深々と頭を下げた。彼はかなりの間司祭たちと歓談し、祭りについてどう思うかと尋ねた。
〇太田牛一『信長公記(巻十四)』慶長15年以降の自筆本(幕府に気を使った軍記物化した語りに)
七月十五日、安土御殿主ならびに惣見寺に挑灯余多つるせられ、御馬廻之人々新道江之中に舟を浮かべ手々に讀松とぼし申され、山下かがやき水に移り、言語道断、面白き有様。見物群衆に候なり。
信長が京都に建設を許した南蛮寺の外観は、三層の天守そのものです。信長は、城下町安土にセミナリオを建てさせています。南蛮寺の南蛮とは中国の明様式を指していました。宣教師は、ローマにあるバジリカ式の教会を建てたのではなく、マカオの建築様式を日本に持ち込んだのでした。今までのNHK大河ドラマの「信長」は、必ず鉄砲と堺商人と南蛮を取り込んでいたのですが、八津弘幸さんの脚本にはありませんでした。黒田官兵衛、小西行長はキリスタン大名ですが、弟秀長の死で「豊臣兄弟」を終えるなら、キリスト教禁止、朝鮮侵略にも触れないで済まされますが、この時代を描く大河ドラマとして南蛮人の欠如は物足りません。歴史小説のタガをはずしてはいけません。

第二章 内藤昌(1932~2012)とNHK
第一項 内藤昌先生の存命中のNHKとのやり取り
1976年 内藤昌著
国華 安土城の研究 朝日新聞社 9500円
専門家向けの本ですが、世に広く話題になり、
NHKのテレビ番組「文化展望」「みんなの科学」に内藤昌は呼ばれます。


通し柱は、地階~3階床、3階床~5階床、5階床~6階小屋組下と、3段に井楼を組んでいる。
1978年 NHK大河ドラマ
「黄金の日々」
建築考証 内藤昌
吹き抜けの広大な空間に、まるで宙に浮いているかのように「空中能舞台」が設置されました。階下で見せる能を見下ろすように鑑賞するという極めて特異な構造が立体的なセットで組まれました。信長の持つ圧倒的な権力と神格化された世界観が視覚的に表現しました。


1979年 内藤昌著
「城の日本史」
NHKブックス 900円
城の軍事機能だけを強調する世に、天守を中世の住まいから解説し、天守は近世都市の誕生とセットで生まれたものであり、「お城は都市である。」を従前からの城解説に加えて、一般向けにまとめました。


内藤先生は「黒沢映画の代表作、<乱>に見るがごとく、姫路城や熊本城が戦塵煙る原野に屹立している風景は、ドラマとしてはともかく、歴史的事実に反して滑稽でさえある。まさに薪の束のような木造高層建築を単に戦争の為にだけ作る必然性はまったくない。<城>はその原意において、<都市>の概念を持つ。」と「城の日本史」1995年角川書店の<まえがき 城の歴史相>に書いています。
1992年 セルビア万国博日本政府館安土城天守原寸復元
プロデューサー 堺屋太一
日本館(安藤忠雄氏設計)のメイン展示として出展され、会期中に博覧会史上最多となる520万人の入場者数を記録しました。NHKを始め、全てのマスコミが放送しました。
日本経済新聞社から、原寸模型を作る過程が本になりました。2800円


万博の後に、近江八幡市に寄付され、近江八幡市は、原寸模型の覆い屋「信長の館」を作りました。
1992年 NHK大河ドラマ
「信長King of Zipangu」
建築考証 内藤昌
セルビア万博とタイアップ。14年前の「黄金の日々」にも増して、吹き抜けがドラマに使われました。信長が内部を歩くシーンや、家臣・宣教師たちを招き入れるシーンなどで、この圧倒的な高さを誇る吹き抜け空間が画面に映し出されました。
豪華絢爛な金碧障壁画や独特の構造が立体的に表現されました


中央の吹き抜けを囲むようにして各階の部屋が配置されてます。
2001年 NHKは番組
「信長の夢「安土城」発掘」を制作し、
その内容を本にして出しました。
滋賀県埋蔵センターの発掘のいったんの区切りがされた事に応じての番組でした。
1994年に内藤昌著「復元安土城」が、国華の1章と6章を書き換えて出ていましたので、その紹介も含んでいます。


西立面 これが百々橋から大手道をのぼり、寺の伽藍の向こうに見える天主です。3階の信長の部屋から、登城の様子がよくみえます。北の琵琶湖への縋破風は秀吉が大坂城で真似しました。
2012年10月23日内藤昌先生はご逝去されました。2005年3月に体調不順を感じて愛知産業大学学長を辞められ、2007年1月中旬最終講義をされた二か月後に倒られました。
こうして、内藤昌先生とNHKとの事を書きましたが、私は1975年に名古屋を出て1995年に戻ってくるまで、先生との交流は途絶えていましたので、内藤先生の活躍、特に1992年の大活躍を残念ながら近くで見ていません。
内藤先生は、自身の安土城天主案が「お城は天守、最後の切腹の場である。」という城マニアに使われるのを嫌って、著作権によって案の使用を縛っており、先生の案が学研などの好事家の雑誌に出される事はありません。先生の復元案が忘れ去られていくのを私はいまいましく思っていたのでした。それで、2007年の最終講義に出席し、私は内藤先生に聞きました。
「2005年9月に日本建築学会に、三浦正幸の弟子の佐藤大規(広島大学大学院文学研究科 博士課程後期 三浦正幸研究室)が、彼の名だけ(通常は指導教官の名が院生の名の後ろにあり、共同の形をとります。)で、安土城天主内藤復元案を否定する梗概を出し(後ろに梗概そのものを入れます。)、その指導教官である三浦正幸氏は「城のつくり方図典」小学館2005年刊の中で、「私は、新たな安土城天主の復元を行った。」と書いていますが、ほっといていいんですか?」

先生のお答えは「いいさ、残るものが残る。」と、相手にしないという自信に満ちたものでした。確かに、梗概の中で「内藤案のナナメの軒は大工が出来ないと言っている。」を内藤復元案の否定理由に使っているのに、「掘っ建ての大黒柱が一本が真ん中にあり建物全体を支えている。」という宮上復元案そのままを継承しています。これこそ「大工が出来ないと言っている。」事でしょうに。一体どこのどんな大工さんなのでしょうか。その名がないのです。まったく、論文の体をなしていません。学会の誰も相手にしないと私も思いました。
第二項 内藤先生のお亡くなりになった後、対NHKを弟子たちが行う。
●2012年10月28日、内藤先生の横浜でのお葬式
全国から弟子たちが集まりました。私は定年退職し個人でコンサルを始めたばかりでしたので、時間が取りやすく、葬式の連絡係をしていました。そこで、先輩たちから「お前が書け」と言われ、名古屋市天守閣博物館への抗議文「今の安土城天守の復元案はすべて昭和51年の内藤先生「国華」案を基にしています。内藤案を示すことなく<私が復元した。>の広島大学三浦教授の天守閣企画展示は間違っています。」を書くことになりました。
これから、私の城の本格的な勉強が始まり、現在に至っています。昭和49年(1974年)の内藤研究室は安土城天主の復元にかかりきりであり、私も作図に駆り出されていましたが、私の研究対象は城下町(都市)でした。わずか一年ですが、内藤研究室での「城は都市である。」の知見は、その後の建築家の仕事に大変役立ちましたが、古建築は鑑賞するものであり、日本の伝統木軸建築に関わる事はありませんでした。
●2013年 畏友・河田克博(1952~2023)名古屋工業大学建築学科教授(当時)と内藤先生御令息は、NHKに「名誉棄損」の抗議の手紙を出しました。
私は、河田からNHKへの怒りの電話をもらって「抗議を手伝え」と言われても、何があったのかわからず、ビデオテープを河田に送ってもらって、事態がわかりました。広島大学三浦教授がNHKの城番組に出て「私は、内藤昌を超えた。」と、内藤先生の顔写真をテレビ画面に映し出したのでした。2005年9月に彼の弟子が日本建築学会に「復元した。」と発表した、その安土城復元図を「犬山城のように周囲に武者走をもうけた。」と自分が復元したとして、解説していました。
復元は弟子の佐藤院生でなく、三浦教授でないと道理が通りませんが、彼は日本建築学会に顔を出しません。「内藤昌を超えた。」とする論文、著作はありません。佐藤院生単独の「掘立の心柱」の梗概が日本建築学会に提出されていましたが、三浦正幸の名はなく、彼は「内藤案は天守指図によっているが、宮上氏が言うように天守指図は信頼できないので、宮上氏と同じく信長公記を資料として、復元した。」と話すのですが、その話のどこにも「内藤昌を超えた。」という論拠はありません。「言ったもん勝ち」で番組は作られていました。これに対しての「名誉棄損」の抗議でした。
NHKは、内藤先生の国華での安土城天主の発表の1976年から2001年「信長の夢「安土城」発掘」まで、安土城天守復元を行った日本の城の第一人者として、内藤先生を遇していたのですが、亡くなられたとたんに、今までの安土城天守の知見を投げ出してしまい、広島大学三浦教授の復元案を丸飲みした番組を作りました。
2009年に、三浦氏の師匠筋の宮上茂隆(1940~98)先生の復元した安土城天主をネタに、大工の映画「火天の城」が作られ、「天守指図は偽書」と言う宮上復元案が正しいとNHKは思ったのでしょう。以後は、内藤復元案に触れることなく、同じ「天守指図は偽書」という三浦ー佐藤復元案を、現在の2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」まで推しています。
・・・・なら、筋が通るのですが、6月28日第25話「変事の予兆」が終わってから、いつものように1分30秒ほど安土城跡を訪ね、いつもと違い「復元イメージ」と小さく右に入れ、内藤復元案のCGを3カット出し「天守復元案監修:内藤昌」とテロップするので、NHKがわからなくなります。
安土城天守復元であり、史実でないのですから、内藤復元案を否定する、宮上復元案、三浦―中村復元案が存在するのは至極もっともな事です。
しかし、学者としてふるまうなら「宮上先生の言う天守指図は偽書であるを支持する、新案を作った。」は、ダメです。
宮上先生の論は間違っていると内藤先生は反論し、宮上先生はそれに沈黙のままでお亡くなりになりました。内藤先生の著作に対抗しうる著作をものにしてならともかくも、内藤先生の顔写真を出しての「私は超えた」は内藤先生への名誉棄損です。


2021年中村案では、平面図から柱を抜き取られており、さらに「建築」とはなっていません。「信長公記」には、各階毎の柱の総数が書かれており、その柱の数でもって「建築」としての平面図を創造するのが、内藤復元案以前の「信長公記からの復元」でしたが、三浦氏(中村氏)は「建築」であることをついに放棄したのでした。人間が活動するための空間を内部に持つその構造を示さずして「建築」とはいえません。イラストレーターの「復元」とは外観を妄想するだけであり、「建築」を「復元した。」とは言えないものです。従って、日本建築学会では、このような「建築」でない復元案は相手にしません。
私たちは「建築」という三次元の立体を二次元の図面で表します。平面図、断面図、立面図です。三浦案は文学部ですので、外観デザインの立面図は探求するのですが、「建築」の構造を示す架構の断面図、柱・壁の平面図が描けていません。
●2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の建築考証が、平井聖先生から三浦正幸氏に変わったと聞き、内藤先生の弟子、満田、河田、私の3人はコロナ禍でもあり、ズーム会議をしました。
NHK大河ドラマ「麒麟が来る。」の建築考証を三浦正幸氏が平井聖先生に替わって行い、「手の込んだ安土城CGを作っている。」と大河ドラマの番宣をNHKの番組の中で三浦氏がするを聞き、内藤昌先生の弟子三人は、「彼が新たに復元したという例の吹き抜けの無い安土城天守をテレビに出すのだろうな。こりゃ、早めに大河ドラマ関係者に手を打たないといけないぞ。内藤先生がセビリア万博の為に5階6階の原寸模型を創り、先生がマスコミに追われたのはもう30年前だ。内藤先生の復元はNHKに忘れられているのでないか。(注1)先生は自分の復元案を城マニア向けの雑誌に載せるのを嫌がったので、今はイラストレータ―が先生の復元案を元にして、好き勝手に「復元した。」がまかり通っている。」と話し、それぞれが、自分の志向で何か書いてNHKに働きがけしてみようということになりました。
この後、私は他の二人の批評を得ながら「大工が作った安土城の復元」を時間をかけてまとめますが、それはこの時のNHKへの働きかけに直接は使っていません。
NHKは大河ドラマ「明智光秀」宣伝の為にやたら城ネタ番組を流し始め、<2019年12月14日放送のNHK「ブラタモリ」姫路城と江戸城は同じ白。>2020年1月14日放送のNHKの<「知恵泉」家康・秀忠・家光 3代の白い江戸城天守>と、千田氏が2年前作成した白い江戸城天守の絵を見せまくるのには、「これは、イカン!」と思いました。

建築を学んでいない千田氏でも、簡単にCGが描けるのは、寛永の江戸城の設計図が残されているからです。

2017年8月6日徳川美術館での「江戸始図でわかった「江戸城」の真実」(2017年5月宝島社新書刊)を記念して、千田 嘉博氏とイラストレーター富永商太氏とのトークショー「江戸城は白か黒か悩んだが白とした。」を私は聞いており、2018年6月雑誌サライ「江戸城と大奥:白い天守」も購入していました。
NHKも、千田 嘉博氏の言われるままでなく、少し調べれば元和と寛永の江戸城は大工の図面も屏風絵もあり、「黒」とは、すぐにわかりますが、それすらしないNHKなのです。慶長の家康の天守は、一次資料はないですが、漆喰壁の白ではありません。「NHKは、ちゃんと勉強してよ。」の意を以下のように書きました。
「内藤昌の城の本はこれだけあります。江戸城天守は黒かったのです。「麒麟が来る」では、多くの城がCG、大道具で作られるのでしょう。とりわけ、明智光秀の坂本城、織田信長の安土城は、ドラマの鍵となるのでしょう。三浦正幸氏は、NHKの番組内で「精緻な安土城天主のCGを作っている。(注2)」と発言していますが、三浦氏が作成した天主CGは、内藤昌復元案を覆すものとは学問的に認められていません。内藤昌の著作も是非お読みくださり、よりよい番組を作られる事を願っています。」
●1972年毎日新聞社刊 「江戸図屏風」8万円 諏訪春雄・内藤昌共著
●1966年鹿島出版刊「江戸と江戸城」780円→2013年講談社学術文庫 再販1000円
●1976年朝日新聞社刊 国華「特集 安土城の研究」9000円
●1979年日本放送出版協会刊 NHKブックス「城の日本史」900円
●1988年世界文化社刊「城と館 復元日本大観1」18000円
●1994年講談社選書メチエ刊 国華の再販「復元 安土城」1700円→2006年講談社学術文庫 再販1200円
●1995年角川書店刊 NHKブックスの再販「ビジュアル版 城の日本史」2800円→2011年講談社学術文庫 再販1200円

(注1) 名古屋城天守木造化事業に反対する私の仲間から「教科書の副読本では内藤先生の復元案しかない。三浦案はないので気にするな。」と送られてきたのですが、見てビックリです「吹き抜けはキリスト教の教会の様式が取り入れられた。」とあります。「南蛮風とは、レンガ造の西洋建築でなく中国から新たに入った明様式の木造建築である。」と、内藤先生は本に書いているのですが、この副読本の執筆者は読むことなく、本の扉の文だけで書いたのでしょう。
(注2)NHKで作成されていたCGは、コロナ禍で番組が5本飛ばされて放映されず、わかりませんが、すでに三浦氏は、三浦-佐藤復元案2005年に変わる三浦ー中村復元案を以下のように2019年12月に雑誌に発表しており、2023年「どうする家康」2026年「豊臣兄弟」の中の安土城天主を見るに、これを使っていますので、2020年「麒麟が来る」もこれなのでしょう。2025年滋賀県がVRを作成したと発表しているのも、これです。著作権がどうなっているのかわかりませんが、使いまわしがうまくされています。

信長の安土城天主復元CG (復元=天守:中村泰朗、その他:三浦正幸 CG制作=浅野孝司)。平成元年1989年からの滋賀県の平成学術調査および『信長公記』の内容を検討して作成されたもの。本書では、安土城は御殿を含む全景の鳥瞰復元CGも掲載。折込A3の大きさで、ノドに邪魔されず、細部までしっかり見ることができる。((株)Gakkenn 公式ブログ より)
●2021年1月30日のFB記をPDFにしていますので、3人の弟子のハラハラドキドキのズーム会議の内容が見えます。この時は3人とも、三浦-佐藤復元案2005年案が「麒麟が来る」に出てくると想定していて、内藤案との違いを追っていました。私は後でまとめなおす「安土城の復元」を書きはじめています。以下に、手短にして書いておきます。


復元=天守:中村泰朗、その他:三浦正幸 CG制作=浅野孝司


こうして、3つを並べると、「麒麟が来る」天主は、内藤復元案とは違いますが、放映の2秒をみた3人の弟子は「なんだ、三浦案でなく内藤案を出したのだ。」と確かめ合い、NHKへの抗議をやめました。内藤先生は、大河ドラマの考証をしており、内藤案でNHK映像も作っています。著作権違反と訴えられません。本来なら、内藤案の著作権者に「麒麟が来る」での映像使用の許可を得るべきですが、そこは「内藤復元案と違う。」と逃れるのでしょう。今回、この長いブログ「NHK2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の中に描かれた安土城の姿に、内藤昌の安土城復元を考える。20260721記」を、書く決意をしたのは、この2021年1月の事があったからでした。なんといってもNHKは偉大な国営放送です。
内藤案からNHKが替えたのは、
①最上階の色
屋根の棟に金を置き、 壁の金を減らし、青色を塗り、 高欄を朱色に。
②櫛形窓を頭が直線の四角窓に の二つです。
3階の妻を南に向けて、1階から6階まで、千鳥破風・窓 の位置・数の全てが内藤案からの盗作です。三浦-佐藤案、三浦-中村案の共通の特徴は、八角形の下の階の東西に大きな千鳥破風を設けている事ですが、ありません。
外観の色の事は資料(天守指図、信長公記)では細かく残されていないので、三浦-中村案が違うとは言えませんが、内藤復元案に比べて、破風の金、朱色使いが下卑たものになりました。
●2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、脚本上、安土城の出番が少なかったので、天主の三浦―中村復元案のこれ見よがしの出番もありませんでした。
家康は、甲斐武田を滅ぼして、信長に接待を受けに安土に来た時が、安土訪問の初めの最後でした。その接待場面と、接待者の明智光秀とのシーンしか安土城はでてきませんが、私は覚えとして「批判」をしてブログにしています。以下です。
雨漏りする特徴的な天主5層・6層は御簾で隠されており、誰の案とは普通の人にはわかりません。2層の黒い壁への金色のつけ方から、私には三浦ー中村案とわかります。

中庭でなく、板の間を御幸御殿の屋根の高さに設けています。雨があたるのに屋根がないので、広島の厳島舞台のように踊る板の間の板の間には雨水を落とすスキマがあったのでしょうか。そんな建築としての基本機能など、建築考証が三浦氏ですので考えていないでしょうね。NHK美術には良い建築考証者です、御簾越しに、三浦ー中村案独特の5層目が私には見えます。
少年に踊りを板の間でさせて、座敷から見るシーンですが、その向こうに多門櫓、御幸御殿の屋根、金ぴか天主を見せ、信長の権力を示す事にNHK美術の構想力を感じました。内藤復元の天主2階(穴倉を1階とすると、天主3階)こそ、こういう場合の舞台付きの宴会場ですし、それ以外にも伝・二の丸、摠見寺にも座敷はあるのですが、この舞台設定は伝・三の丸に座敷があったことを示しています。
城下の明智光秀の屋敷を家康が訪ねるシーンです。この座敷はセミナリヨのある内湖にあることになります。安土山の西北の湖を埋め立てて配下の屋敷を作られているので、山の上には安土城天主でなく、摠見寺の伽藍が見えていたでしょう。
この石垣は現地にある石垣の5倍の高さがあります。嘘です。信長は守り堅固な城郭を作ったのでなく、権力をしめす王宮を伽藍と共につくり、蓬莱山をめざしたのでした。信長の安土城の建設意図を捻じ曲げた背景です。

まだ、雨戸に障子もない時代です。家康の頭もヘントコリンですので、そうであっても・・なのでしょうが、信長がどうして安土城を作りたかったなどNHK大河ドラマには関心なく、とにかく映像を派手にしたかった。それが、城の歴史をゆがめてきました。
第三章 内藤案に対しての宮上茂隆(1940~1998)の論、それに対しての反論。
内藤昌(1932~2012)が、安土城天主の「復元的研究」を行う事ができたのは、1969年に偶然「天守指図」の発見をしたからです。
安土城遺跡の発掘、測量が昭和14~16年に行われ、400年前当時の文字記録として第一級の資料「信長公記」と合わせて、土屋純一、城戸久、中田行の諸氏が「復元的研究」を行い、復元案を作成していましたが、いずれも、崩れている八角の石垣なのですが、1階平面をなす石垣を四角に想定していました。


発見された「天守指図」の一階は八角形であり、遺跡に残る根石のラインと相似形であることが、「復元的研究」の第一歩でした。測量を徹底的に行い、当時の石垣の技術レベルを探りました。


これに対し、1977年、宮上茂隆(1940~1998)は、「安土城天主の復原とその史料について(上)(下)」『国華』998号、同999号において、内藤昌が前提としている「天守指図」が偽書であり、内藤昌の復元案は間違いであると断定しました。偽書だとする根拠は次の3つです。
1:「天守指図」には安土城天守遺跡と矛盾するところがあること(+宝塔と吹抜け空間)
2:「天守指図」には「信長公記」善本と矛盾する点があること
3:「天守指図」の粗本が実在した証拠がないこと
「信長公記」に書かれていない「吹き抜け空間」があり、中央に「宝塔」が置かれ埋め物がされていたという「天守指図」は、当時の大工が安土に来て八角の石垣を読みとり、「信長公記」から妄想した偽書であると決めつけ、四角の1階平面になるように、その周囲の石垣に蓋をし、中央のピットは掘立柱が建っていたと復元案を作成したのでした。

中央ピットは、その大きさ形状から昭和17年の報告書では「掘立柱ではない。」とあり、2000年に再び発掘して「掘立柱はない。」が確認されたのですが、1998年にご逝去されました。宮上茂隆の復元案を元に2009年、映画「火天の城」が作られ、今も宮上復元案はネット世界に残っています。なお、加藤理文氏は、広島大学文学部三浦研究室で博士号を得ています。
私の「安土城の復元」以上に、前川徹氏の「安土城考」において、前川氏は精緻に宮上論に反論しています。内藤昌の弟子たちは「いいさ、残るものが残る。」の内藤の言葉に、前川氏のように精緻に宮上論に向い、論点を潰すことをしていませんでした。前川氏に深く感謝します。
と、お礼を申し上げて、ここで宮上論にはこれ以上踏み込まず、内藤昌、藤岡道夫の宮上茂隆への反論を紹介します。
第一項 内藤先生(1932~2012)、藤岡先生(1908~1988)が、宮上先生(1940~1998)をいさめる。
1977年、宮上先生は「天守指図は偽書。江戸時代、大工が安土山にやって来て八角形の敷地形状を取得し、信長公記を元に創作したもの。」と、昭和17年の日名子元雄先生の史跡発掘報告書にある「石垣は崩れ、土砂、樹木に覆われていた。」を以下のように否定しました。要点を採録します。
私は『指圖』を、安土城天主臺跡に關する資料と『信長記』に基づいて右平が作成した推定復元圖と考えるが、内藤氏は、右平創作の可能性を次のように否定しておられる。
まず、天主臺遺跡は、天主焼失後土砂に埋没していたと推定されるから、創作に必要な資料は得られなかつたはずである、といわれる。しかしその證據は薄弱である。天主臺石蔵内床面の漆喰層がもし風雨に晒されていたならば日ならずして消失していたはずである、といわれるのであるが、今日残つていないほどである、発掘調査の行われた昭和十五年當時既に當初のままで遺つていたわけではあるまい。出展:宮上1977b:20-21
「今日残っていない」のは漆喰層を指しているのでしょうか。「漆喰層がもし風雨に晒されていたならば日ならずして消失していた」という内藤論に賛成しておいて、「昭和十五年當時既に當初のままで遺つていたわけではあるまい。」とは、調査報告書にかかれた「天主焼失後土砂に埋没していた。漆喰層が全面にあった。」を「あるまい」と否定している文章となっています。どうにも、国語になっていません。わけのわからない文章です。
●内藤昌 からの反論 1994年講談社選書メチエ「復元 安土城」注第1章32、
金沢の大工が遺跡を見に来たとしても、床叩き漆喰が昭和15年まで残っていたという事は、天主が燃えてから、礎石は壁土、崩れた石垣、樹木に覆われていることを示しており、八角形の石垣、7尺ピッチの礎石、クランク状の登閣御門は見えていない。(中略)意外性が強いからとして疑問視するは、従前の歴史観を完璧なものとしない限りにおいて、歴史研究自体を否定することになる。
1976年、国華での安土城天主の研究の発表の最初に、すでに、<「天守指図」は大工による創作>説を内藤先生は自問自答していました。以下を読んだ上での、上記の宮上論でした。これ以外にも、宮上論は内藤先生の論文がなくては発出できないものばかりです。
しからば、この『天主指圖』は池上右平正次によって創作された可能性がないだろうか。しかし全くの荒唐無稽な天主を空想したにせよ、この様な不等邉八角形で對稱性のない造形を、單にスケッチとしてでなく極めて現實性のある理路整然とした指圖の形で描き得るものではなかろう。しかもそれが幻の安土城天主に偶然に一致する等という、いわば歴史上の奇跡を信ずるわけにはいかない。
それにしてもなお且つ技術者として右平正次が案出する場合を考えるならば、何等かのデータに基づいているであろう。例えば、牛一・道喜の兩『信長記』が流布した寛文期以降において、その資料を参照とする事はあり得よう。加えて想像をたくましくするならば、安土城天主臺跡を實測調査し、その結果をふまえて復元圖を作製する可能性がないであろうか。
しかし安土城跡は天正10年の燒亡後永らく放置され、慶長八年から元和八年に及ぶ彦根築城においてはその石垣が轉用、以来自然の崩壊にまかせてきている。特に頂上の天主臺跡は當初から土砂に埋歿していたようだ。それは昭和十五年發掘調査時迄、もし風雨に晒されれば日ならずして焼失している筈の當初のまゝの石藏床面叩き漆喰が傳存していたをみても明白である。(中略)要するに天主䑓跡は、昭和十五年迄土砂に埋歿し、樹木の叢生する一山と化していたのである。江戸時代において、加賀藩御大工が他國におもむき、特に許可されて發掘調査をなし、不等邉八角形の天主臺を知る可能性は、まず絶無としてよかろう。出典:内藤1976a:72-73
昭和17年の遺跡調査記録 滋賀県「安土城復元研究の過去・現在・未来(「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー資料)」2023.3、より
昭和17年の発掘後の写真と比べると、床面叩き漆喰の中に埋没していた礎石が5~10センチ浮き上がって見えます。すなわち、「礎石まわりの叩き漆喰が雨で流され、現在は叩き漆喰はない。」と写真が示しています。
私が安土山に登った1974年でも、もう漆喰はのこっていませんでした。
昭和17年の日名子元雄先生の調査記録に、穴倉階の階段を登ったところが「叩き漆喰が良く残っていた。」と書かれており、「天守指図」の平面図から、いわゆる上がり框前のタタキですので、特に入念に叩かれていたと思ったのですが、その差はわかりませんでした。


●藤岡道夫 「城と城下町」1988年中央美術社刊 から、内藤昌の安土城天主復元について
「後世の推定でこの天守指図を作ることは不可能と考えられる。ところが発掘前の状況(焼け残った壁土が50センチの厚みで覆い、崩れた石垣が散在し、その上に樹木が繁茂)を知っている人はほとんどいなくなり、整備された天守台の現況を見た人が多いために後世復元図などと非常識な批判が出るのであって、文献の細かな点の考証より、もっと基本的な問題を理解すべきである。」
この論によって、宮上先生の指摘する<「天守指図」への細かな点の考証>について、日本建築学会では、誰も議論しなくなりました。天守指図の中で、信長公記とあっていない所を探し出し「天守指図の価値」を下げようという宮上論の姿勢は否定されたのです。
50年を経た現在も、宮上先生の研究姿勢「天守指図の信頼性はない。事を信長公記から明らかにする。」を続けられている広島大学文学部の中村准教授がいらっしゃいますが、書誌学によって、木割書「天守指図」の価値はさらに明確(次項に詳述)にされており、「天守指図」を大工の創作だという歴史、建築学者はもういません。
「天守指図」「信長公記」を互いの他の検証ネタとして、「復元的研究」を進める事が1990年以降の日本建築学会でしたが、2005年に広島大学文学部三浦教授が「天守指図は偽書。新たに、安土城天主を復元した。」によって、また30年前に戻ってしまいました。
第一章で見て来たように、学研雑誌、NHK大河ドラマに三浦復元案を出すことが目的の模型・CG作成であり、内藤、宮上先生の著作に匹敵する、新たな安土城天守復元案の著作を三浦氏自身が出すことはありません。広島大学ではありますが、史実探求の学問ではなく、イラストレータ―等による外観復元と同じで、その復元案は彼らの「だったらよいな。」という一種の文学表現なのです。
内藤先生は「史実」を探る「復元的研究」を、新発見の「天守指図」という大工の図面と従来の京都奉行の見聞記「信長公記」との詳細な比較を行ってしていますが、当時の武家屋敷での生活を知っていることが理解の前提ですので、素人にはわかりにくいです。私はブログ「静嘉堂文庫「天守指図」と内藤昌復元案」にカラーで解説しました。よろしかったらドウゾ。
藤岡先生による、内藤昌の安土城復元研究への批評は、弟子の私では書けない「内藤博士の憶測」とズバリと書いています。面白いので、以下に抜き書きしておきます。
「内藤博士はこの中央の吹き抜け部がカトリック教会内部を思わせる見せ場であったと主張しているが、それほどの見せ場なら「信長公記」の記載に出ないはずがないから、この資料「天守指図」が怪しいという説もある。しかし、吹き抜けが見せ場だったとするのは内藤博士の憶測で、資料には何も記してないから、それで資料の価値をうんぬんするのはおかしい。」
「1階の北半分に窓が一切ないが、大工が書き忘れたのでなく、内藤博士の検討により、石垣の積み方から平面が不成形になり、北側に屋根が低く下がって窓が取れなくなっていることがわかった。これは天守指図は後世の推定復元でない事を立証している。」
「このように日本の建築史の上に大きな意義をもつ幻の天主が、その実像を現したことは幸せなことだった。」
●その後の「天守指図」の研究
「天守指図」について、近世大工の木割書からの論考が進められています。内藤先生が静嘉堂文庫の「木割書」を探索した事から始まった「復元 安土城」ですので、原点回帰です。私は「天守指図」は「設計図」と書きましたが、部屋名が=障壁画の題材が書かれていますので、大工の「指図」の中に「見聞記」を書き込んだ「竣工図」と言えます。大工が障壁画の題材を決めることはないでしょう。

「木割書」とは、近世になって、大工が建物用途ごとにティピカル例を描き、大工の流派を確立し、技術の平坦化を図るものです。法隆寺大工の「愚子見記」平内家「匠名」甲良家「建仁寺派家伝書」があります。「天守指図」をコピーした大工・池上は建仁寺流でした。
「池上右平に関する資料の発見と考察」正見泰 石川県金沢城調査研究所 日本建築学会 2010年
坂本忠規 竹中大工道具館 「黒田家伝来文書について」 建築史学71 2018年
滋賀県近江八幡市にある団体「安土城再建をめざす会」のブログに小川守氏が「安土城復元案の決定的資料!「天守指図」とは?」をまとめておられます。大工・池上が写した祖本の所有者とされる黒田家にも言及しており、甲良家・建仁寺流スクールの流れが見えてきます。ドウゾ。
ちなみに、私は安土城の再建をめざしていません。450年前の高層木造建築なぞ、危険で作れません。「遺跡が文化遺産」ですのに、その遺跡破壊となる「遺跡の上にレプリカ建設を推進」する文化庁に、私は反対しています。遺跡は、450年間の歴史の結果です。450年前のものを再建する意味はデズニーランドのシンデレラ城となんら変わりません。娯楽です。世界遺産の考えは、隣接する博物館で、模型・映像を使って、学芸員が現在までの変遷が語られるようにする事です。
第二項 宮上先生の「天守指図は偽書」が正しいと、広島大学文学部博士課程 三浦研究室院生 からの「アンチ内藤復元案」 それに対しての名工大工学部建築学科教授・河田克博(1952~2023)の反論。
●佐藤大規 2005年9月日本建築学会大会 梗概「安土城天主」 広島大学大学院 文学研究科 人文学専攻博士課程後期 三浦研究室院生の「掘立の心柱による復元案」
内藤先生が2007年に「いいさ、残るものが残る。」と言われ、うっちゃっていた2005年に日本建築学会に出されていた佐藤大規氏の概要です。長文の論文・著作と違い、たったA4版2枚で、同じエリアに巣くう研究者に簡便に訴える手段です。
内藤先生が2012年にご逝去されると、「自説の概要を学会に出した。」を「学会に認められている自説。」と、学会が利用されている事に気づき、2013年に慌てて、この論文に反論すると決めた、畏友・河田名古屋工業大学教授(当時)でした。
通常、院生が論文を出す時は指導教官の名が後に続くのですが、佐藤大規氏の単独名です。その後も佐藤大規氏は単独で論文も出しています。



長文の広島大学文学部の紀要「史学研究」第255号(2007.2)佐藤大規「安土城天主の平面復元に関する試案」では「発掘を担当した考古学・木戸雅寿氏の教示によると、掘立式の心柱の跡と考えられ」と、木戸雅寿氏の著作『よみがえる安土城』吉川弘文館、2003年に書かれた「中央のピットは、宮上茂隆氏が唱えた掘立柱であり大黒柱と考えられる。」をそのまま繰り返しています。
木戸雅寿氏(奈良大学文学部史学科卒1958~)は、2024年になっても、三浦正幸氏(東京大学工学部建築学科卒1954~)と滋賀テレビ収録「歴史探訪レキトビラ」というYouTubeチャンネル安土城の回で、楽し気に「掘立て柱だ、夢だ、浪漫だ。」とやっていました。この後に、広島大学文学部三浦研究室を引き継いだ中村大規准教授も続きますので、半世紀前の宮上茂隆先生から⇒三浦正幸⇒木戸雅寿⇒佐藤大規⇒中村泰朗と「安土城天主:掘立の大黒柱」説が続いていることになります。
木戸雅寿氏は2000年の発掘責任者であり、その記録で「昭和17年の発掘記録の「掘った柱はない。」を覆すものでない。」と書いているのですが、「掘立柱も捨てがたい。」と続けています。「そう、あってほしい。」という、文学表現なのでしょう。確かに、考古学は文学部であり工学部でないですが、科学でないといけません。このような学術報告書などあってはなりません。
歴史的建築物を材料工学・構造力学と共に学んだ者は、「天守の中心に掘立の大黒柱が一本あった。」だけで、もう三浦-佐藤案のその案全体を信用しません。昭和17年の日名子元雄先生による発掘記録「穴の形状から、掘立柱ではない。」で、明確な事なのです。
穴の底は平らでなく、割栗石もなく、穴の側面が垂直でないので、大工が掘ったて柱の為に掘った穴とは認められないというのが第一級の古建築研究者である日名子先生の見解です。さらに、私が加えると、穴の径から入れる柱の径は直径30センチほどでしかなく、深さも1mでは「大黒柱」になりえる物ではありません。姫路城の二本の大黒柱の直径は92センチでしたし、法隆寺五重塔の掘立心柱は3m埋めていました。
「天主の復元的研究」は考古学、文学でなく建築学の分野ですが、滋賀県の考古学・木戸雅寿氏が「掘立柱があったかもしれない。」と言い続け、半世紀前の内藤先生の研究を滋賀県民に押し隠し、「幻」の天主にしていることが佐藤大規氏の「発掘を担当した考古学・木戸雅寿氏の教示によると、掘立式の心柱の跡と考えられ」から、わかりました。滋賀県のホームぺージにある「安土城復元研究の過去・現在・未来」では、木戸雅寿氏は「内藤案が画期的」とは書いていますが、その画期的な内容を具体的に語らず、その後の全くの素人であるイラストレーターの復元案と内藤案を同列に扱っています。
論文だけでなく、6案をCGに表して滋賀県はそれぞれの案を評価しています。そして、VRとして、現地で大きく見えるのは、三浦-中村案だけです。どうして、三浦―中村案なのか私はわかりません。

noteブログ 2026年4月6日「安土城考(その13)心柱説の信憑性(補遺)」にて、建築工学とは全く畑が違う前川徹氏ですが、氏は科学的にいくつかの論文を読みほぐし、半世紀前の宮上茂隆先生から⇒三浦正幸⇒木戸雅寿⇒佐藤大規⇒中村泰朗へと続く「安土城天主:掘立柱の大黒柱」は、全く信憑性がない。と暴きました。
この「心柱説」は、ひとえにいびつな木戸氏の思考にある事もわかりました。どうして、前川氏のように科学的に広島大学文学部は思考できないのでしょうか。
科学でなく、文学として安土城に対峙しているからだと思い至りました。城は、太平記のような軍記物から始まり、歌舞伎、浪曲、映画、テレビ、ゲームと面々と続く娯楽の「花形」です。「城つくり」を楽しい文学作品と捉える人が求めるものに、広島大学文学部は応じているのでしょう。彼らの「復元的研究」はその結果である「復元天守案」にターゲットを置いていますが、内藤先生の「復元的研究」は、歴史の真理、史実を探る復元であり、現地に再建することが目的の復元ではありません。研究者が変われば「天守指図」にもとづく復元の結果も、内藤復元案とはまた違ったものになりましょう。
●河田克博 2013年8月 日本建築学会大会 歴史意匠部会日本建築史小委員会 梗概「安土城天主内藤昌復元案の追考」
河田名古屋工業大学教授は、何も新しい事例をあげての反論はしていません。佐藤大規氏が、先達の論考を読んでいないか、読んでも理解できないのか、ですから、先達の論文を再掲しただけの梗概でした。反論を出しておかないと「日本建築学会に論文を提出している」イコール「日本建築学会が認めている。」とされてしまうからの梗概でした。


2013年8月札幌の建築学会で河田教授が「安土城天主内藤昌復元案の追考」を発表するために安土を訪ねるのに、私も同行しました。
2005年9月建築学会で佐藤大規氏が「安土城天主:軒先がナナメなどありえない。大工が作れないと言っている。」と、軒先のナナメを実証するナナメ瓦が発掘されているのにもかからず、否定する論文を出したのでした。
では、あらためて滋賀県埋蔵文化センターに実物を確認しておこう、と訪ね、応対してもらいました。一枚として型どられた瓦でした。

しかしながら、後になってわかったことですが、滋賀県安土城考古博物館からの、2025年刊「安土城 2025 信長の夢のあと」では、全く違っていました。「ナナメ瓦から、軒先がナナメであったと復元された案もある。」と書かれています。嘘です。これでは、「博物館」を名乗る資格はないです。

内藤昌復元案は原寸模型となって、30年間近江八幡市の「信長の館」に展示されているのですが、この冊子では内藤昌の「復元的研究」は、一切ふれていません。

が、その選択理由はなにもないです。滋賀県の私への手紙は「これまで、多くの研究者が様々な天主復元案を発表されていますが、いずれも復元の根拠となる資料として決定的な案として確定したものはなく、安土城の実像はいまだ謎につつまれており、「幻の城」といえる状況です。」と、6つの復元案を示しています。
瓦から復元を考えた「論文もある」と言って示しているのは、内藤案の模型ではないですか。滋賀県はさらに「内藤案には、さらに検討を有する。」のいいまわしで権威者ぶっていますが、内藤復元案でのナナメ瓦の経緯は違います。
1976年国華での安土城の復元には、このナナメ瓦はまだ発見されていなく、「天守指図」からの復元的研究でナナメとしました。埋蔵文化財センターに内藤先生と河田が寄ったときに、学芸員から「こんなのが持ち込まれました。」とあり、急ぎ記録を取って1994年講談社選書メチエでの再版「復元安土城」では、このナナメ瓦の内容を国華の論文に挟み込んだのでした。
2013年7月30日に私たちの応対をした滋賀県安土考古博物館の学芸員は、どこに行ったのでしょうか。

滋賀県に内藤昌はよほど嫌われる事をしたのか、滋賀県には学問の行う人が全くいないのか、どちらかです。
第三項 宮上先生の「天守指図は偽書」が正しいと、15年ぶりの広島大学文学部博士課程 三浦研究室院生 からの2020年「アンチ内藤復元案」 それに対しての2021年名工大工学部建築学科教授・河田克博(1952~2023)の反論。さらにそれに対しての2022年広島大学文学部準教授中村氏の反論。
●中村泰朗 2020年9月 日本建築学会大会 梗概「静嘉堂文庫蔵「天守指図」に関する考察」 広島大学大学院 文学研究科 人文学専攻博士課程後期 三浦研究室院生からの「天守指図は信頼が置けない。」よって「アンチ内藤復元案」
までで、ここには「よって、天守指図によらない復元案を私が作成した。」はありません。柱のない建築案(注3)なぞ「建築の復元」とは言えません。日本建築学会には出せません。私が示したような架構方法も住まい方も、まったく彼らからの説明はありません。外観を語るだけでは、それは単にトルソ(かたまり)であり、人間が活動するための空間を内部に持つ「建築」とはいえません。
(注3)日本建築学会への梗概ではないですが、論文としては、2021年3月建築史学会の学会誌「建築史学」の76号に「安土城天主に関する復元的考察(その一)―一階から三階までの部屋割り―」があり、柱のない図面は滋賀県のホームぺージにある「安土城復元研究の過去・現在・未来」に入っています。
今まで見てきたように、建築と呼べない外観だけのイラストレーターと同レベルの絵であっても、三浦-中村復元案として、雑誌に載り、滋賀県・NHKは動画にして流しています。「安土城天守は今も幻である。」と「天守指図」に基づく内藤復元案を打ち消すのが目的の「天守指図は信頼がおけない。」の梗概でした。
昭和51年に宮上茂隆氏が「天守指図は、大工・池上が信長公記に基づいて書いたものであり、天守指図に従った内藤昌博士の復元は誤りである。信長公記と現地の考古学成果によってのみ復元すべきであり、それを行った。」の継承者を宣言したのでした。
佐藤氏はどうなったのでしょうか?もう、三浦―佐藤案はなくなり、三浦ー中村案なのでしょうが、と佐藤氏を探すと、愛媛大学におられ、佐藤案としてネットにも出されていました。三浦ー中村案は、三浦伝統建築文化研究室で見えます。 従って、三浦―中村案は、現・三浦案なのでしょう。三浦氏はこの15年間で何を研究成果として新たに生み出したのか、論文は弟子任せで自らは書かないので、並べてみました。

「第一章 NHK「豊臣兄弟」に使われた安土城CGを内藤復元案と並べる。」で、三浦案の3次元画像を見てきたように、1~2階の黒い壁の上に金を多く使い、朱を最上階に使い、破風・棟を派手に見せていますが、「立面図で比べると確かに同じ人の色付けだが、そんなに変わっていないじゃん。」と見えます。
佐藤案は、2005年三浦-佐藤案(上掲の模型)と比べると、1~2階で平面規模を低減させ、最上階の向きを変え、手すりを朱色から金に変えています。最上階の屋根は赤瓦のままですが、15年間でいろいろ変えています。しかし、1977年内藤昌案の方が、これら2案よりはるかに複雑です。石垣が予定通りに積まれずとも、屋根裏のごとき吹き抜け4間×6間を心柱として、8間×11間の母屋の周囲に7層を組み上げるには、こうならざるを得なかったのでした。


「復元的研究には、トレーサビリティが必要である。」として、内藤先生の論文は作られています。
天守指図は平面図への書き入れだけですので、縦方向の数値は、石垣の実測をし、他の天守の階高表をまとめ、屋根形状のいくつかの試案を作成した上での、全て推定です。指図は平面図ですが、破風と窓の書き入れが平面図の周囲にあり、これから屋根の形状を推定できました。
「復元的研究」と先生は言っていましたが、真実に迫る「復元」をトレーサビリティを持って行いますが、「真実である。」とは言えない限界を有するものです。 内藤復元案であって史実と違うのは当然です。
しかし、その復元された姿は、内藤先生が数々の教示を得た、歴史学、考古学、古文書学、書誌学、美術史学、思想史学、宗教史学、経済史学、技術史学、都市史学、建築史学の諸氏に、新たなインスパイアを与えるものであり、内藤復元案は史学学問領域のエポックとなりました。ですので、安土桃山時代を代表する狩野永徳の絵と並び、安土城天守の内藤復元案が日本史の教科書副読本にあるのです。
内藤先生の発表から半世紀を経て、「内藤復元案」は史学学問領域の定説となっています。しかし「真実である。」ではないです。復元案としての限界を持っていますので、中村氏のように復元過程の重箱の隅(ex.東西の天守台石垣にだけ反りがある。)をつつくことはできます。内藤先生はトレーサビリティを保つべく、復元の不確かさもきちんと書き残しています。すなわち、重箱の隅はオープンであり、建築素人の中村氏でも容易につつけます。だからと言って、内藤先生の「復元的研究」の成果、「天守指図」への評価は揺らぎません。
文学部の考古学でもって木戸氏(1958年~)が、発掘成果として古建築を語り、文学部の中村准教授(1990年~)が内藤案を非難するのですから、どだいオカシイのです。建築知識のレベルが内藤先生(1932年~2012年)とは全く違います。建築史学は歴史学の一部ですが、同時に、建築工学から科学的な考察をし、実際に建てられた形を追い求め、近づけます。
●河田克博 2021年9月 日本建築学会 歴史意匠部会日本建築史小委員会 インターネト発表 の梗概「池上家伝来「天守指図」の信頼性」
河田名誉教授は「また、三浦研究室院生からのアンチ内藤復元案か。」でした。今度は「「天守指図」の信頼性はない。」と攻め口を変えてきたのですが、「石垣のソリ」以外は、「第一項 1998年内藤先生(1932~2012)、1988年藤岡先生(1908~1988)が、宮上先生(1940~1998)をいさめる。」の繰り返しです。中村泰朗氏は1990年生まれですので、昔の論文を読んでいないのか、読んでも理解できていないのかですが、「天守指図」の木割書研究が内藤先生没後に進展しており、それを含めて、短く梗概の形式で「「天守指図」は信頼できる資料」を残しておくのは有益だと、繰り返し丁寧に語っています。


昨年2020年の日本建築学会大会での、中村泰朗・広島大学准教授の「静嘉堂文庫蔵「天守指図」に関する考察」 への反論です。
限られた字数の中で、丁寧に言いたいことをいう、これが学者の論なのですよね。私には書けません。
❶❷❸と中村氏の主張を書き、それに反論し、さらに、2018年に坂本氏からの論文で、「天守指図」の原本の一部が発見された事も書かれています。2020年中村氏は、この坂本氏の論文を見ていなかったのでしょう。
注1~17が、こうした短い論文では重要であり、これらを読んで理解していないと、質問はできません。注7、北垣総一郎氏より直接聞いた、以外は。
名古屋市石垣部会の座長をされている北垣先生が、1987年「石垣普請」を出され、それしか石垣でまとまった本は今もなく、中村氏の根拠はそれしかありません。中村氏の現地で石垣を見ての2020年論考はありませんでした。北垣先生は「その後の30年間を足して書き直さんといかんな。」とおっしゃっていましたが、本の出版を待っておれないので言葉でいただきました。
❶内藤昌が崩れた石垣から石垣を復元したが、北垣先生の本「石垣普請」ではこの時代にはない「そり」を入れて復元している。「天守指図」の平面に合わせた石垣の復元は間違い。「天守指図」は現在の石垣にあっていない。
反証:そりのある算木積み石垣は今もニの丸に残っています。中村氏は、まさに石垣進化中であり、さまざまのレベルの石垣が併存してある現地を見ていないです。
宮上氏は現地の八角形の石垣の中に四角の天守を復元したのですが、三浦氏の新案(佐藤氏の名で学会提出)は、八角形にしています。内藤復元案すなわち「天守指図」を見なければできませんのに。「そり」があったとしないと、「天守指図」の平面形が石垣とそろわないというのは、内藤昌はそのように書いています。「そり」がなかったのでなく、現在の史跡からは「そり」のあるなしがわからないという事実から、「天守指図」の平面に合わせた石垣の復元は間違いだ、とは帰結しません。
❷橋渡しの礎石の遺構はない。「天守指図」の記述が間違っている証である。
反証:これは「フロイス」に書かれています。礎石の発見と新聞でも取り上げられていましたが、平成の発掘前に失われました。滋賀県安土考古学博物館の記録の扱い、中村氏の資料探索がずさんなだけのことです。

❸江戸末の盗掘されていた。よって、大工・池上が現地に来て、石垣が八角形であることを知っていたと推定できる。
反証:昭和15年の発掘以前は、崩れた石垣と壁土に覆われ樹木が繁茂していました。石垣内部は50センチほど一面に土に覆われていたと記録されています。その下に漆喰があったので、樹木も石垣内部では繁茂できなかったのでしょう。盗掘は、天守台中央に「信長の埋めた黄金」を求めてあったのでしょうが、全体石垣の姿、柱の礎石は、燃え崩れたあと400年間、昭和15年まで、誰も知りようがありません。
イチャモンは、学問の進歩です。内藤論文の中で、細かい事ででも、一部でも突っついて、だから全体がオカシイと言うのはアリです。しかし、内藤論文を引っ張り出しての他からの借り物でケチつけだけでないか。自説など何もない。と、内藤昌の弟子を自認する私は怒り、畏友・河田氏(満田氏)のこの論文に結び付きました。
中村氏は「信長公記」からの部屋名を入れていますが、「天守指図」が示すような武家屋敷のプランにはなっていません。三浦氏から依頼された中村氏の仕事は「天守指図の信頼性、内藤復元案へのケチづけ」であり、中村氏は復元作業をしていません。中村案を見てわかるように、柱、梁が描けないのです。文学部であり、古建築を建築工学として学んでいないのですから、できないのは当然です。
内藤昌の弟子としても、研究の畑が違うのですから、「古建築を知らないのが、中村氏の問題だ。」と当たり前の事を指摘するのもおかしいので、本人の自覚を待って、ほっておくしかありません。しかし、伝統木軸建築を一から学ぶ事をしない限り、もう、彼は日本建築学会・歴史意匠部会・日本建築史小委員会に論文は出せません。出しても相手にされません。三浦氏の依頼で中村氏は論文をムリクリ作成しただけであり、2021年日本建築学会での河田名工大名誉教授からの指摘・反論により、これ以上三浦案(佐藤案、中村案)は、日本建築学会での話題にはなりません。
●中村泰朗 2023年9月 建築史学 「静嘉堂文庫蔵「天守指図」および安土城天主内藤昌復元案に関する考察」 広島大学文学部準教授
内容は「アンチ2021年日本建築学会の河田論文」なのですが、「アンチ1976年内藤復元案」のタイトルにしています。
畏友・河田は、40年前の内藤×宮上の論争を中村氏が知らないとして、「石垣のソリ」以外は、先達の論考を繰り返したに過ぎません。また、この20年の間に、宮上氏が「偽書」と言い放った「天守指図」の研究は進み、竹中大工道具館に同様の木割書がある事が判明していると、書いています。
50年前の内藤昌の復元的研究への宮上茂隆の批判を、今ここで中村氏が繰り返しても、宮上氏の「天主指図は偽書」は、1988年に藤岡、1994年に内藤に否定されていますので、師匠三浦正幸氏と先輩の佐藤大規氏による現・三浦案でない自らの安土城天主復元案をキチンと示し、それに至った自らの「復元的研究」の著作、内藤昌を超える著作をものにしなければ、もう科研費も出ないでしょう。
なにはともあれ、PDFになっていますので、17枚を以下に入れます。
中村泰朗氏(1990年~)は「平成の発掘で石垣内部に漆喰がない事がわかった。土間の叩きだけと報告されている。昭和17年の発掘報告で床面たたき漆喰があった書かれていることから、内藤昌は<土に覆われていたので漆喰が残っていた。すなわち、礎石は土に隠れ400年見えていなかった>と言うが、平成の発掘記録のとおり、もともと漆喰はなかったのである。木戸氏は火事後の整理のようすが見えるという。なら、礎石も見えていたのである。金沢の大工・池上は史跡を見に来て、信長公記の内容に合わせ、妄想して書いたのが天守指図である。発掘を行った考古学の木戸雅寿氏もそう言っている。」と書いています。
これでは50年前の内藤×宮上の繰り返しです。滋賀県の考古学がダメなので、今もこんな発言が出てきます。佐藤大規氏と同じく、ここでも「発掘を行った考古学の木戸雅寿氏もそう言っている。」です。これは論文のエビデンスになりません。「内藤復元案はできないと大工が言っている。」と同じです。
「天守指図」とか内藤復元案をタイトルにしていますが、内容は河田名工大名誉教授の<これからも学者として生きるならば>と好意を持っての「たしなめ:天守指図の信頼性」に対しての強烈な反発だけでした。まったく、反論にはなっていません。
彼が論文で使っている絵は、内藤先生が半世紀前に書いたのものです。自らの絵で自説を唱える事が出来ず、考古学の木戸氏、市川氏、宮武氏等の他人の石垣論文からの引き写しの論では、学会の誰もこの中村氏の論文には向かいません。
木戸氏、市川氏、宮武氏のそれぞれが<河田名工大名誉教授の天守指図の信頼性>に反論をたてないかぎり、テレビタレントの千田氏が先達論考からの引き写しで行っているテレビ向け論説「いざ城マニアたらん・15ページ目」と同じであり、学問の世界では通用しません。
文学部の方に工学部建築環境学科建築史学の説明をこのようにする事など、まともな学者の世界ならばありえません。私は学者でないですが、私の畏友・河田名工大名誉教授への彼の反論は反論になっていません。
この「内藤昌は<土に覆われていたので漆喰が残っていた。すなわち、礎石は土に隠れ400年見えていなかった>と言うが、漆喰はなく、礎石も見えていたのである。」以外は、論文はだらだらと、河田×中村の比較を書きつないで<私が正しい>としかありません。エビデンスが示されてなく学術論文になっていません。
でも、彼はそれでよいのです。学会的に「天守指図は信頼がない。さらなる検証が必要だ。」が残ればよいのです。マスコミは、タイトルだけでこの論考を読みませんから。
内藤先生に言われた「残るものが残る。」を信じて、ここで終わります。悪口の言い合いになれば、自分もそのレベルに落ちてしまいます。ですので、行わないようにしているのですが、畏友・河田を想い書きました。
