犬山城、名古屋城と、城を順に書いて来ましたが、その都度、石垣について必ず触れています。重複が多くなるのは、名古屋城木造天守復元での名古屋市石垣部会のお話が「石垣の基礎知識」がないとわからないので、それを補おうとした事と、小牧市が「信長の小牧城石垣の発掘」を博物館まで作って展示をしているのですが、「子供だましの展示」であり、ここはひとつでしゃばって、学芸員に代わり「石垣とは何か」を書かなくてはと思ったからでした。
信長の小牧城は地山のチャートを生かしつつ、2~3段積みした「土留め石」を土塁の上に3重に巻き上げただけであり、石塁は低く、土塁の勾配は緩く、隅石もありません。北垣先生の定義「高石積み」即ち石垣(石塁)とは呼べないものです。「塁」とは、土を重ねる砦が漢字の源意ですので、小牧城は「土塁」と「石塁」が交互にある「塁」と単に呼ぶのがふさわしいです。
信長の小牧城は防備装置の堀、土塁がないです。あるのは家康が小牧長久手の戦いで作ったものです。麓に館の礎石もありません。ですので、守護所の清洲城は相変わらず存続し、上4郡と美濃に対して勢いを示すため「見せる砦」だったのでしょう。


- お城の石垣について、イロハから書いてみます。
- このブログでの「お城」とは、信長の安土城からを指しますが、その前の「館城」「要害」「山城」から
- 石垣は、当初は内部空間を持たない上部建屋の為の「土留め」であり、水堀では水に削られないよう護岸石であり、空堀では登れないような垂直面を作る石積みでした。
- 金沢城の石垣案内から、「野づら積」→「割石積」→「切り石積」との石垣の発達を示す。
- 角石を安土城から秀忠の大坂城までみる。
- 清正流「扇の勾配」とは
- 小牧市は城跡に展示館を作ったのですが、たんなる「塁」を「信長の石垣」と呼ぶので、子供たちに「石垣」を間違えて教えています。
- 岐阜城 岐阜市の取り組み
- 安土城天主の石垣 と 北垣聡一郎「石垣普請」
- 築城図屏風 名古屋市博物館蔵 縦55.8cm 横210.2cm 6曲一双
- 兵学のおさらい
お城の石垣について、イロハから書いてみます。
日本の石積の技術は古墳の横穴式石室に示されています。奇麗に成形され、箱型に組まれていました。古墳そのものは、葺石で覆われて、段積みされていました。土盛りの自然勾配は30度であり、高く威容を見せようとし勾配を45度とあげると、盛り土が雨で流れだすので、石で表面を押さえたのでした。舟木山5号墳のように、白く輝く長石で葺けば、より遠くに首長の権力が伝わった事でしょう。
江戸初期、全国一斉に、白亜の天守を城下町に向けて聳え立たせたのも、まったく同じ理由「城下への権力の誇示」でした。



このブログでの「お城」とは、信長の安土城からを指しますが、その前の「館城」「要害」「山城」から
●館城
中世になると武士の「館城」の絵が描かれます。堀と塀で囲まれ、門の上に楯を建てて高楼を組み、中には、蔀戸の母屋に、土倉、馬屋、武器が描かれています。信長に燃やされた一乗谷の朝倉の「館城」は、現地で体感できます。信長に1559年落とされた岩倉城は発掘により、外々200m角の土塁と堀が確認されました。



●要害
「城を枕に討ち死に」と書かれている太平記、そこにある楠木正成の千早城が有名です。「平城」「平山城」に対して「山城」と建築学では言っています。「平城」は平地に建つ名古屋城であり、「平山城」は丘に建つ姫路城です。「山城」は籠城戦で使う城であり、逃げ込むので「逃げ城」とも言います。
信長の岐阜金華山山頂の「岐阜城」も斎藤道三の「稲葉城」以来の籠城して仲間の助けを待つ「逃げ城」です。山頂では水もなく長くは住めませんので、平時は、麓に家臣を集めて住み、それらは「山城」に対して「根小屋」と言われていました。


300mの高さにある館を山麓の館とひっくるめて岐阜城と書くのは、山村氏は山城と根小屋は一体にあったとしているのか。要害と言う場合は、戦闘の城だけであり日常の住まいは含まない。
フロイス日本史によって、フロイスが信長に接待されている様子が分かるのだが、確かに「逃げ城」というだけでなく、山頂の館は濃尾平野を一望する接待場として信長は使っていた。
この接待の館を山頂に持つことが、信長が浅井氏の小谷城を見てのち、100mの高さにある安土城天守に自身が住み、日本初の「平山城」とする事に結びついたのだと私は考える。
石垣は、当初は内部空間を持たない上部建屋の為の「土留め」であり、水堀では水に削られないよう護岸石であり、空堀では登れないような垂直面を作る石積みでした。
寺内町の堀と土塁を真似て、秀吉は京をぐるりと土塁で囲み「城下町化」をします。掘り出した土を土塁として内側に積み上げるのは、まさに「城=土を叩いて成す」です。中国語ではCITYを城市と訳しています。一方日本では「城」と「城下町」を分けています。CITYの訳は、都を使い都市としました。800年間、天皇の住む都しか日本ではCITYがなかったからでしょう。しかし「城下町」はちゃんとした近世のCITYです。
「土塁」に石を足して積んだ「石塁」があります。城には土塁の助けとして「腰巻石塁」と「鉢巻石塁」があります。江戸城にもあります。「石塁」は、壮大な「高石積み」の「石垣」だけではありません。石垣の内部を利用しない土留めですので、古墳の葺石の延長線上の構造となります。
水の中に置いた根石から石垣を積み上げるに、根石の下に丸太の松を杭として打ちました。名古屋城で石垣が崩れたので、松杭を抜いたのですが、水につかっており全く腐っていませんでした。

それが「天守台」となると、石垣内部は「穴倉」として、天守への登り口をもうけないといけません。犬山城の天守台は登るはしごの分だけ土塁を削っています。

川や海に面して、護岸の為の石を積むのは従前よりありました。堀とするために、石積みの断面の工夫がされました。水堀は渡られるので、空堀の方が防御によりとされ、特に「片薬研堀」が良いとされました。垂直面の方が城内になります。

金沢城の石垣案内から、「野づら積」→「割石積」→「切り石積」との石垣の発達を示す。
北垣 聰一郎(1941~)先生の石川県金沢城調査研究所 所長の力故でしょう。金沢城には「野づら積」「割石積」「切り石積」の現物モデルがあり、ボランテイアの方が丁寧に「石垣のイロハ」から説明してくれます。私は、前田藩の穴太、後藤家文書から、割石でなく「打ち込みハギ」、切り石でなく「切り込みハギ」と学びましたが、このブログでは金沢の現物モデルの名前に従います。金沢城のパンフは野石を「自然石」、割石を「租加工石」としていますが、それでは名称でなく、説明です。それも不味い説明です。野石でもノミは入っていますので「租加工」となります。「野石」を使って石垣の表面が凸凹するのが「野面」であり、割石なのですが「切った」ように見えるまで加工したのが「切石」です。


「石垣巡り」のパンフがあるので、それに従って回れば、誰でも石垣博士となります。


私の金沢城の石垣巡りがフェイスブックにありますので、以下に入れます。
岡崎城も石垣巡りパンフを作っています。

私の岡崎城の石垣巡りがフェイスブックにあるので、以下に入れます。
「石の加工精度を上げると、石垣の勾配が急にできる。」と、石垣の秘伝書にありますが、どうなのでしょうか?「反りの戻り」ほどの見た目の効果はないと思います。しかし、野面積、打ち込みハギ(割石積み)、切り込みハギ(切り石積み)の表面の姿が分かりやすく書かれているので、「城の日本史」内藤昌著1995年角川書店刊より抜き出しました。種石への加工度を上げて、石垣の進化があった事が分かります。
西洋では切り石積みとし、頂部にアーチを設けて内部空間を作ることを2000年前から行っていますが、日本では1634年に長崎に中国人によってつくられた眼鏡橋までありません。

角石を安土城から秀忠の大坂城までみる。

熊本地震での「一本足」で、角石が有名になりました。
天守が残っているのは、全国で12か所しかありません。しかし、石垣が残っている城跡は「史跡」として保護されており、北垣先生の石垣の分類から、いつ頃に建設された石垣であるかがわかります。
天正、文禄年間の初期の野面積みの石垣(高石積みの石塁)から、慶長の割石積みの石垣の間で、顕著に発達が分かるのが、隅石です。
野面であっても、隅石は早くから加工が進み、長短を互い違いに積みあげる「算木積み」になります。







北垣聰一郎 著「石垣普請」1987年法政大学出版より
六角氏の観音寺山城は、天正以前の石垣です。
信長は1559年下尾張4郡を治めたと上京に際し、六角氏の「観音寺山城」を見上げています。麓には東山道に面して「楽市楽座」の城下町がありました。先進の城は信長の小牧城ではありません。観音寺山城であり、朝倉氏の一乗谷でした。
北垣先生の論でいくと2~3段の小牧城の石塁は「高石積み」でなく、石垣とは言いません。7段積み6尺、と背の高さを超えないと「高石」とは言えません。
百姓が段々畑の為に石積みをしていましたが、大きな石を滑車を使って積み上げることまではしていません。
小牧山の断面図があり、そこに石垣を推定したと小牧市の報告書にあります。チャートの地山で角度が30度ならば、石垣で土を止める必要はないでしょうに、どうして4段の石積みがあったと推定できたのか。報告書に理由はありません。
それに比べて、観音寺山は佐々木六角氏の一党が、それぞれ勝手に山を削ったようです。石垣が要ります。「先進の城」は、小牧山でなく観音寺山でしょう。小牧市の展示には、他の城の石垣を例示しておらず、「信長は、安土城の前の前、小牧山を城とし、城下町を作っていた。小牧は信長の先進性を示すものだ。」です。
1995年の小牧城下町の発表以来、発掘をしているのですが、城下町の根拠は「背割り側溝」の発掘しかありません。宅地だけでなく畑でも雨水排水の側溝はあります。江戸や大坂の背割り側溝は町人地の排水溝でしたが、この小牧には上水となる川がありません。よって排水溝もありません。とても多くの人々が住める土地ではありませんでした。
古墳が葺き石で権力を見せたように、小牧山を裸にし、石で覆い櫓を組み上げ、犬山、岐阜に圧をかける為のものだったのでしょう。山の周囲の土塁、堀は家康の小牧山長久手の戦いのものであり、信長は小牧山城を守る普請をしていません。
清正流「扇の勾配」とは
名古屋城の天守の石垣は、「勾配は、頂部に行くと上に垂直に向かう。扇の姿であり、美しい。加藤清正が作った。」と、言われていますが、石垣の技術書では「扇勾配」とか「寺勾配」とはなく、「石垣の反りをもどす。」とあります。3種の技術書から、その「反りを戻す」姿を「城の日本史」内藤昌著1995年角川書店刊より、示します。

堀金流 「石垣築様目録」1655年岡本家蔵
穴太頭の堀金出雲は、秀吉の伏見城、姫路城、江戸城、駿府城、秀忠の大坂城の幕府直轄に関わっており、彼の資料だとされているもので、姫路城にあいます。
後藤流 「後藤家文書」1800年頃 金沢市立図書館蔵
前田家の穴太であった後藤家の秘文書です。当然、金沢城に合致します。
清正流 「石垣秘伝の書」1743年熊本県立図書館蔵
各勾配の延長が、頂部で等分割されるというもので、上に行くほど「反りの戻り」が急激にまします。当然、熊本城、名古屋城にあいます。
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熊本城の二様の石垣。
手前、慶長期の加藤清正積み。と向こう、寛永期の細川積み。
細川期になると、以下のように進化した。
①布積みと言って石垣の横の層が見える。
②算木積と言って角石の長短を交互に見せる。
③勾配がきつく、反り返しは垂直になる。
小牧市は城跡に展示館を作ったのですが、たんなる「塁」を「信長の石垣」と呼ぶので、子供たちに「石垣」を間違えて教えています。

●信長の小牧城の石塁です。
高く石を積むことなく、帯状に段々となっています。勾配も30度の自然勾配で登っています。古墳の葺石の積み方です。
最上部「石垣1」を4段積みとした小牧市の推定はまちがいです。3段積みで地山の高さになります。発掘の記録にも4段積はありません。地山を崩れないように保持するための「石塁」を「石垣」と言うために高くしたのでしょう。
しかし、小牧市の教育委員会は「石垣」の技術を持っていません。信長も「石垣」の技術を持っていなかったから、それを示したのでしょうか。
ならば、「石垣」ではなく、砦建設の為の整地として、「土塁」を積み上げ、「石塁」を土留めの抑えとしたのであり、建っている聚楽第を模したコンクリ天守とこの「塁」とは形があっていないとの解説が要ります。
聚楽第の石垣は「割石積み」であり、このようだったと、コンクリ天守をここに作ってしまった経緯も含めて市民に提示すべきでしょう。
頂上の物見の砦の平面形を保持するために、地山が崩れなければよいわけですので、地山のチャートを一部残して、間に石を置いて「石塁」ともしています。
硬いチャートですので、割ると、石はとがってあり、筑石の鉄則「表面に見える幅の3倍の長さを後ろに持つ」が、秀吉の大坂城のようにできていません。ですので、高くは積めません。
観音寺山城と比べて、幼い石積の技術ですが、固いチャートですので加工ができなく、仕方がありません。金華山の信長の城も同様でした。


●六角氏の観音寺山城に残る石垣です。
流紋岩です。花崗岩と成分は同じで火山から出た溶岩が花崗岩と違い、浅いところで急に固まった石です。割りやすいです。「野面」ですが、割られています。
角石の算木積の萌芽があり、交互になっていますが、麓の大きな石は信長が安土山に運んで安土城に使い、山の上の小さな石種しか残っていません。
いずれにしても、これが信長の小牧山城の前に存在していたのでが、信長はこのような石垣を作れませんでした。

●小牧市の展示館(れきしるこまき)の模型の石垣です。
正面の写真は「割石積(打ち込みハギ)」の名古屋城ではないでしょうか。ここでは、当然小牧城の石積みの解説でしょうに。写真のような高い石垣は小牧山にはありません。
子供が見ている模型の石は丸みを帯びており、ほぼ同じ大きさに成形された石種の4段積みです。
外を見ればとがった石の実物がころがっているのに、小牧市はこんな明きらかなウソを模型にして子供たちに教えています。
さらに、「野づら積」ではやってはいけないとされている、水平線が通る「布目」「重箱」であり、目地は「十文字」です。そして現地で復元されたような間詰石はここにありません。
この模型をもとに現地に「復元」したのでしょうか。まったく石塁を知ろうとしない、市民に知らせないお粗末な小牧市です。
石垣の50年の発達を示して、この小牧山の石積みはどのようなレベルかを示すのが教育ですが、小牧市教育委員会は「信長の先進の城」一点です。観光によって学問をまげてはいけません。

●一乗谷 朝倉氏の石垣
朝倉氏の城下町の虎口にある巨石は、馬子の石舞台風であり、城下町の屋敷地の造成は段々畠の石積です。
隅の石は形を保つために特別ですが、小牧城はせいぜい3段積みですので隅石はありません。

朝倉氏の城下町・一乗谷の屋敷地の造成は段々畠の石積です。「野面積」でも隅石はこのように加工されています。
秀吉の大坂城、犬山城天守の石種は大きいですが、技術的には同じです。

●浅井氏 小谷城
信長は、浅井を小谷城で滅ぼしたあと、山上に千畳敷がある小谷城をみて、安土城の構想を抱いたと思います。
尾根伝いに、梯郭式の縄張りを行い、住むことを前提に城としています。
浅井長政(1545~1573)は六角氏の元で生まれ、六角氏から賢政の名をもらっていましたので、観音寺山城の先進の石垣を見て育っていました。
三井寺(園城寺)の石垣には、石工集団「穴太」がすでに見えますので、近江から高石積みは始まったのでしょう。
信長の城、小牧城も岐阜城もそれぞれの市長がいう「先進の城」ではありません。


●遅れて現れた戦国大名、信長
信長がどこに居を置いたか、並べてみます。
勝幡城 信長 0歳~12歳 の12年間
名古屋城 信長12歳~22歳 の10年間
清州城 信長22歳~30歳 の8年間
小牧城 信長30歳~34歳 の4年間
岐阜城 信長34歳~43歳 の9年間
安土城 信長43歳~49歳 の6年間
42歳の時に長子の信忠に尾張・美濃の家督を譲り自身は近江の安土に移り、畿内の国人を新たに従えて、京を中心とする天下を取ろうとしますが、武田、上杉、毛利に伍して戦国大名として世にデビューできたのは22歳の清洲城でなく、34歳の岐阜城からだと思います。
信長は「遅れて現れた戦国大名」であり、長篠の戦いでは鉄砲の力を生かす戦いをしましたが、弓矢からの城の守りにおいては、六角氏、浅井氏、朝倉氏の石垣による虎口、郭づくりに遅れていました。それらを学んだ安土城によって、はじめて「平山城」を作り、その城の頂部に天主を聳え立たせ、そこに住み、生きた権力の象徴としました。よって、日本の城の嚆矢となりました。

そして「平城」は秀吉が大坂城で1年後にすぐ作ります。大きな堀と石垣が防御のために必要となりました。「山城」から「平山城」もしくは「平城」であり、この違いは「城郭」と「城下町」を選んだ土地にどのように置くかであり、「平山城」から「平城」に進化したわけではありません。「城郭」を「小山」に置けば、山を三の丸、二の丸、本丸と高さを変えて造成し、その郭のラインを防御ラインにできますので、防御ラインが作りやすいですが、「城郭」を平な土地に置くと、幅の広く深い堀を回して防衛ラインを引き、高い石垣を組んで「郭」への出入り口(橋、虎口、馬出)を作ることになり、普請工事が大変になります。
秀吉の大坂城の配置図が「詰丸(本丸)}として大工の中井家に残されていますが、慶長期の城のような「郭」を複雑にして防衛ラインを作ることはしていません。信長から秀吉と、天守をいただく「城」は「城下町」と共にあったのですが、秀吉が1593年に亡くなったあと大坂の陣1615年までの「城」は、豊臣対徳川のにらみあいの中、急速に防御性能を高めたのでした。

小牧城に移った1563年30歳の信長は、まずは目の前の上4郡の守護所岩倉の織田を討ち、美濃国に向かおうとしていたのです。金も兵も技術も六角氏、朝倉氏に比べ貧しかったのでした。それが歴史です。教育委員会が歴史をゆがめてはいけません。
1602年全国一斉に150もの城と城下町が作られます。その形は急にできたわけでなく、それに至るまでに50年の進化があります。中世の町に寄って作られた町、秀吉の全国制覇の中で作られた町、江戸幕府が出来てから作られた町、と町の作られた時(中世、桃山、江戸)によって「町割り規模」が違うのでした。それが私の50年前の卒論でした。
●蒲生氏郷 1588年 松坂城の石垣
氏郷(1556~95年)は、信長に12歳から可愛がられ、妻は信長の娘でした。1582年本能寺で信長が殺されると、26歳の氏郷は、信長の女子供を引き取りに安土城に行き、近江日野にかくまいました。1585年、氏郷は秀吉によって近江日野から伊勢松ヶ島に移封されます。紀州征伐・四国征伐(1585年)・九州征伐(1587年)と秀吉に従うも、秀吉による、大坂城(1583年~)、近江八幡城(1585年~)、大和郡山城(1585~)の築城を横目で見つつ、松坂城とその城下町を、織田信長の安土城を範として、独自に3年がかりで作っていたのでした。1588年に町民共々移ります。



一般の天守台の石垣の頂部は、穴倉周囲に高さ・幅13尺ぐらいの石垣を積み、天守の附属屋を載せています。重い母屋は、穴倉底の地山にのせて、付属屋を吊り上げているようなイメージでもあります。その石垣の独立壁ですが、穴太の後藤家文書を管見したところ記述がありません。
石垣で郭を作れば、隅櫓に、出入り口には多門櫓と、盛り上げた石垣の上に建物を作ることもありますが、天守のような重いものは載せないのが、秘伝書に書かなくても当然なのでしょう。どのように積めばよいかを探して真田純子著「誰でもできる石積み入門」に行きつきました。フリーススタンディング(独立壁)ダブルファサード(表裏壁)と、外国の事例が出ていますが、いずれも建築とはなりません。ローマ時代の建物は、レンガの型枠にコンクリートを流し込んだ厚さ2m以上の壁の表面に大理石を貼ったものであり、石造ではありません。



岐阜城 岐阜市の取り組み
城主館でやめておけばよいのに「織田信長公居館跡」とあります。私も、このひな壇造成の上に館を作って信長が住んだとは思っています。

しかし、谷川があり庭の正面に滝として流したというのは、チャートでできた単独峰金華山にありえません。保水性がない山ですので雨がふればすぐに流れ落ちてしまいます。
「跡」はそうだと思いますが、この館の絵はだれがどうやって妄想をしたのか?「フロイスの日本記」のよると看板にありますが、これでもって4層の建物があるとどうして思うのか、2階建てがひな壇にあり、下の段から上ると4層目になるということでしかありえません。
一応、フロイスの書いたものの抜き書きをしておきます。これでは子供を騙す教育委員会です。
「第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴らしい材木でできた劇場ふうの建物があり、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます」
「内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何もなく終わりであると思われるところに、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、(中略)これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、(中略)この前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてははなはだ稀有なものであります。(中略)下の山麓に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています」
「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます」
「三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前郎からは全市を展望することができます」
2016年2月20日FB記 岐阜市教育委員会への私のお手紙「史実を偽るな。」
岐阜市教育委員会に私はお手紙を出しておきましたが、効果がなかったようです。今朝 2月20日の日経新聞朝刊 「信長の館 2月27日発表会」についてです。またぞろ、出てきました怪しい学者。滋賀県立大学 中井均教授(日本城郭史)の「信長は濃姫の為に計画を変えて御殿」との発言を、日経新聞は岐阜市長の為にそのまま載せて観光のネタ協力です。

岐阜出生の私としては、岐阜市を恥ずかしめるこのインチキ記事に、憤慨しています。
この下に、写真jpeg にして昨年の10月のFB「岐阜市教育委員会へ抗議」を再録しておきます。
奈良大学学長千田を、前に岩波書店あてに手紙を出し、糾弾しましたが、この中井も考古学なのです。
学者が偽の縄文遺跡をイッパイ作ってしまって、考古学全体で反省をしたはずですが、、、ダメですね。考古学は妄想の学問なのです。
信長の時代になると文献が優先し、考古学では「濃姫の為に信長が」なんて細かな時刻の設定はできません。





新聞記事へ、記者の間違いの指摘をしておきます。
①発掘現場は、岐阜城の跡であるが、信長の館であるとの証拠は発掘現場から出ていない。文献からは、「岐阜城は1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦で、家康が織田秀信の城を燃やした。」ので、発掘現場は秀信の館であると判断するのが第一である。その前にも、1576年に信長が安土城に移ってから、24年間で城主は4人替っている。信長も斉藤道三の庭と館を燃やして、その地を利用し「岐阜城」を作った。この館跡では、敷地造成が繰り返され、館も何回も建てなおされたことは、文献的にわかっていた。それが、発掘によって実証されたが、「信長が濃姫の為に」とまでは、断じてわからない。
②滋賀県立大学 中井均教授(日本城郭史 ?私は知りません。)は学者のようです。しかし、学者だから正しい事を言っているとは思っていけません。(節度のある学者はマスコミに出て断言をしません。)その分、記者は勉強をしないといけません。特に、考古学の人は怪しいので、城に関しては土木と建築を分けて記事をとりに行く姿勢が必要です。
③瓦は間違いであり、瓦と同じ材料で焼いたものに金箔を施して棟飾りとたもの。金の鯱鉾と同系のものである。瓦ぶきは棟の端に鯱を置き、御殿(殿様の住い)は屋根を杮葺き(名古屋城本丸御殿と同じ)とし、棟側面に飾りとしてこれを貼りつけた。
④ポルトガルの宣教師の文では、岐阜城では「内部に金」安土城では「内外に金」と、はっきり書きわけている。よって、棟飾りのこの「金の瓦」は、信長の時代でなく、秀吉が棟飾りとして聚楽第で用いたのちに、信長の孫、秀信(幼名三法師)が、秀吉を真似て岐阜に作ったのではないか。と推論するのが正しい。
⑤濃姫は、信長公記でも、1549年?に斉藤道三から送られてきただけの記述しかなく、1567年に、岐阜城のどこに入ったのか、いや、死んでしまってもういなかったのか、子供を産んだのか、文献上全くわからない姫様である。だから、好き勝手の想像が出来て楽しく、小説家には良いが、学者たるもの濃姫への発言はできません。
安土城天主の石垣 と 北垣聡一郎「石垣普請」


現在は、講談社学術文庫2006年の「復元 安土城」によって、内藤昌先生の安土城の復元的研究が読めます。しかし、その元は古く、1976年朝日新聞社の「国華:安土城の研究」です。それには、150分の1の図面がついていまして、その図面の石垣は実は私が書きました。100分の1の美濃紙に鉛筆で書いたのを、地図屋さんがインキングし、縮小したものが出版されたのです。


もとより、私に城の研究をする気はなく、1975年2月に卒業設計を製図室に寝袋をもちこんで行ったいたら、内藤先生から呼び出しです。「キミ~、間に合わないだ。石垣をこの写真を見て書いてくれないか。あと、16枚すべてに通り芯と縮尺を入れてほしい。」
忙しいからと言って、私に断る選択はありません。4日間でやっつけました。それが、今の「安土城の復元」に結びつくのですから、人生先々どうなるのか分かりません。


私は写真を見て石垣を書いていくのですが、その上部3分の1~2分の1は、実は崩れてありません。先生は「キミが想像して書けばよい。それで、石垣の中央は空白にしておいてくれ。論文は石垣の復元ではないのだから、そうしよう。(先生は後年気が変わって、私の4年後輩小山氏に埋めさせています。)木造天守が石垣と接するところは石が扁平になるから、名古屋城天守をみて書いてくれ。」でした。
まったく、ノーテンキな内藤研究室の私ですが、 この石垣の天端を高さ13、5尺に考定するところは、先生の論文で、最も苦労したところということは知っていました。なぜなら、3月に再々度の石垣の実測に私も同行したからです。
粟田万喜三さんがご子息とたった二人で台所丸下の石垣を滑車を建てて組みなおしていました。どこをどう組みなおしたのかわからないすばらしいでき映えに滋賀県埋蔵文化財センターは困っていますが、栗田さんの言われた野面積み(穴太積み、坂本積み)のコツは「石の声を聞け。」でした。
内藤先生は立面図におとす石の姿にはこだわりを持ちませんでしたが、石垣の積み上げ角度を何カ所も、何度も測量しました。「石垣の頂部に行くと上に垂直に向かう。扇の姿。」としないと、大工の指図の平面が石垣に乗らないのでした。ここが、後に論文で「安土城でそこまでの技術があったか?」と刺されたところでした。
先生は、私の同級生の楠田氏に穴太衆に伝わる秘伝書「後藤家古文書」を読ませていたのですが、そこには、具体的な石積みのヒントはありませんでした。

そこで、1987年法政大学出版局刊の「石垣普請」北垣聡一郎著の登場です。内藤先生は独自に石垣を1979年「城の日本史」にまとめていましたが、北垣先生の論文は、日本各地の城の石垣を網羅しており、特に角石による石垣技術の進化の詳述はとても説得力ありました。

これを前もって知っておれば、、、ですが、2021年の北垣先生は、内藤昌の石垣勾配の考定については「了解している。その後30年以上たったので、新たな所見もあり、書き直さなないといけないと思っている。」でした。石垣のソリに触れた、名古屋工業大学名誉教授、故・河田克博氏の論文「天守指図の信頼性」を以下に入れておきます。



築城図屏風 名古屋市博物館蔵 縦55.8cm 横210.2cm 6曲一双


名古屋城と思い、市は富山にあった腰屏風を買ったのですが、これは家康の駿府城の天下普請に参加した加賀藩(右下の宴の幕、左上の幟)の武将が自慢話(白馬に騎乗)として作らせたものであり、大工の中井家に残された配置図とこの屏風から内藤昌は1990年(平成2年)3月に、復元図を作成しています。(駿府城学術調査研究報告書 静岡市教育委員会)
絵柄として、楽しく見せる物であり、築城の姿そのものが時系列にあるわけではないですが、大石をソリで引いたり、牛にひかせたり、二人がモッコで担いだり、一人背中の籠にゴロタ石を入れたりが見えます。材木は、大勢で肩に担いでいますが、平城だからであり、平山城だとまっすぐな傾斜路を作りソリに載せて引いたのでしょう。安土城の伝・大手道は、まさにソリの為に作られたものです。





兵学のおさらい
後藤家文書は、子孫に伝える現実的な石垣技術書であることより、口伝で行われていた事を文字であらわし、もっともらしく陰陽を持ち出し「秘伝書」としてまとめたものであり、また、「ご先祖様は偉かったんだ。」というアピールの書でもありました。「兵学は甲州流」と後藤家文書の中にありますので、ここで「兵学」を復習しておきます。
「兵学」の流派で著名なのは、武田信玄を祖とする「甲州流」です。長篠・小牧長久手の物語化は、いずれも「甲州流」の軍学者によって行われ、合戦図屏風のシナリオとなりました。
武田の兵がそのまま徳川、井伊の下に入ったことが大きく、春日聡次郎が完成させた「甲陽軍鑑」は、徳川方として大坂夏の陣で活躍した小幡勘兵景憲(1572年生まれ)が、「甲陽軍鑑末書前集・同後集」と発展させ、広島、尾張で普及しました。
この小幡に1621年13歳で入門した北条氏長が、「兵法雄鑑」「士軍鑑」表し、「北条流」を起こし幕府に採用されます。甲州流の中世部分を取り去り、神道的思想の基にオランダの測量術、砲術を取り入れました。それに、儒教的哲学と日本的史学を加えて「兵学」としてまとめたのが山鹿素行(1622~1685)であり「山鹿流」として、赤穂、平戸、水戸、津、松江、熊本にも伝えられました。
山鹿流に中国の兵法を合わせ体系化したのが長沼澹斉(1635年生まれ)」の「長沼流」です。武田信玄と言えばそれに対抗したのが上杉謙信であり、「越後流」を起こしています。