江戸、明治、大正の地図を今の地図に重ねる。ー名古屋市熱田区ー

ランドスケープ

家康が都市・名護屋を作ったのですが、その南限は本町通が大須の寺町を出て、国道19号線に出たところでした。大門があり、尾張七代藩主宗春は、都市外に傾城町を作りました。その一里先に熱田があるのでした。
もとより、名護屋城は17世紀になって忽然と洪積世の熱田台地の北端に現れたわけであり、台地南端の熱田宮の伝承は素戔嗚がヤマタノオロチを退治した際、その尾から現れた神剣、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)すなわち、三種の神器の一つ草薙剣が祀られている、とあり、6世紀まで遡ります。

享元絵巻には、若宮八幡から大須にかけて、芝居・操り浄瑠璃・軽業・相撲の興行を楽しむ人々が生き生きと描かれています。 富士見原・西小路・葛町と、3カ所の遊郭も許されました。宝永の絵図(1710年)では何もないところに、町を新たに作ったのでした。京の島原、江戸の吉原の賑わいはかくもあろうかと「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われました。紀州藩藩主吉宗(1684~1751)は、享保元年(1716年)に、尾張6代継友との競争に勝ち、8代将軍になると、幕府を建てなおすべく質素を旨とする「享保の改革」を行いました。継友もこれに従い倹約令を出していたのですが、継友の異母弟であった宗春は、藩主となると改革に逆らい、享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配り、3月『條々二十一箇條』を発布しました。享保の改革が15年行われたのですが、緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発から、「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」と主張し、具体的に政策に移したのでした。結局は幕府の意向に背いたと蟄居させられ、藩の財政破綻から、尾張藩の人々は吝嗇となり、それらが、どケチだけどブランド物が大好きという現代名古屋人の気質に繋がっています。
葛飾北斎  富岳三十六景 尾州不二見原
通称「桶屋の富士」と呼ばれ、現在の愛知県名古屋市中区富士見付近を描いたものです。大きな桶の円の中に小さな富士山が見える大胆な幾何学的構図が特徴です。
名護屋から、富士山は絶対に見えませんが、そんなことはお構いなしの北斎です。
尾張名所図会 本町通りを南下し熱田に至るのですが、途中の富士見原はこんなのでした。

熱田の宮は古代からあるのですが、尾張の城下町・名護屋ではなかったのでした。宿場町、木材と陶器産業を持つ名護屋の外港、名護屋の魚河岸として、独立してありました。明治になり、名護屋と名護屋広小路とは一里離れていた熱田を一緒にして、名古屋になりました。名護屋の名は、勤王の志士である佐賀県(肥前国)名護屋に取られてしまい、「古」と替えられました。

ポンタックの2025年11月のブログ<江戸、明治、大正の地図を今の地図に重ねる。ー名古屋市東区ー>は大変な人気で、閲覧数が2000に達しています。今も見られているので、同じ古地図の重ね合わせネタでもう一品と考えたのがこの熱田です。東区の都市変容は、建中寺を軸に江戸時代からありますが、ここ以外江戸時代において、城下町名護屋の都市域の拡大はありません。
しかし、名古屋としてみると熱田の都市変容が大変ドラマチックです。東海道最大の宿場町をベースに、隣接する南区・中川区の低地を埋め立てて熱田の領域を広げ、都市間交通の要所として、運河、鉄道、道路を狭い所で交錯させ、急速な都市化を推し進めました。

東海道線は、古来からの「古渡」で洪積世台地を横切りました。1962年(昭和37年)国鉄(現JR)中央線の複線化、高架化と同時に金山駅が設置され、1968年(昭和43年)地下鉄(現名城線)栄〜金山間の開業に伴い、地下鉄金山駅の設置や関連する掘削・延長工事が行われました。1989年(平成元年)世界デザイン博覧会に合わせてJR・名鉄・地下鉄を一体化した「金山総合駅」が本格整備され、道路は橋上を走るのですが、彫り込まれた鉄路によって新たに熱田との境界が明示されました。

江戸時代、熱田の入口は「尾頭町」でした。今も金山総合駅の南の道は、「堀川の尾頭橋」を渡り、荒子観音から「佐屋の渡し」に向かう「佐屋街道」として残っています。

尾張名所図会 一の鳥居  尾頭町にあった。鳥居は8本あったと図会。名古屋からの来る人向けの鳥居であり、夜祭りに向かう駕籠の絵であろう。うどん・そば屋もあるぞ。まだ、きしめんは無い。名古屋から4kmあるので、毎月熱田さんは祭りをやり人を集めたのか。祭りだらけだ。

私の浪人中の自習の場は、神宮の中の熱田図書館(今は駐車場)でした。半世紀前ですので、「冷房完備」が売りになる時代です。家から自転車で通いました。初詣も必ず家族そろって「熱田さん」ですので、熱田さんの事は知っているつもりでしたが、尾張名所図会はさすがに詳しいです。短く、私流にツマミ食いをしてこれからアップしてゆきます。
<江戸、明治、大正の地図を今の地図に重ねる。>が、東区の次が熱田区となったのは、私に、いわゆる<土地勘>があるからなのでした。調べ物をしてブログにしていくには、現地の臭いをかぎ分ける<土地勘>が必要だと思います。

第一章 江戸時代以前の熱田を簡単に

今回のブログの対象範囲を、江戸時代の村名で示しました。北は城下町と本町通り一本でつながり、南区とは東海道でつながっています。南区の高台は歴史が深いですが、西の中川区は江戸時代の埋め立て地です。「新田」が多くあり、江戸時代から熱田の開発がすすられていた事がよくわかります。

第一項 地勢から、古墳と古代の熱田の宮

名古屋の地勢は、ブログ「名古屋都市史」名古屋昔話 2017年2月27日記 に詳しくあります。ここでは、縄文海進があり、名古屋の洪積世台地は、熱田で半島のように突き出ていたというところから始めます。この辺りは古墳が多くあり、東海地区最大の古墳「断夫山古墳」が、熱田の港を行きかう人々に、尾張物部氏の力を見せつけていました。江戸時代になっても船(七里の渡し)で濃尾平野をよぎっています。尾張愛知郡には水田は少なく、海運・交易により富み、美濃の金生山から鉄を手に入れ、清洲、味鋺、守山、小牧、犬山の豪族を押さえ、目子媛を継体大王に嫁がせ、天皇の外戚となって日本書紀にその名を残しました。

縄文海進図に古墳と神社を落としている。
尾張名所図会   「日本武尊ヤマトタケルノミコトが宮簀媛命ミヤスヒメノミコトに草薙剣を渡す図」
延喜式神名帳によると熱田神社は「名神大社」と、尾張の三の宮でであり、格は、尾張一の宮の真清田神社、二の宮の大縣神社より落ちる。966年(康保3年)3月22日 – 正一位[熱田大明神](『日本紀略』)ころに、偉くなったようである。

宮簀媛命が剣を祀ったのは、大高にある「氷上姉子神社」であり、尾張豪族の氏神の熱田神社に遷座されたとある。「氷上姉子神社」の西に、4世紀とこのあたりで最も古い古墳があるので、天白川の南の高台の勢力が熱田の豪族に従属した姿を示す物語なのであろう。

古事記の尾張の連となる祖先神は、なん柱もあり、どれがどうだかわからないし、遷座どころか、神社の名前も、祀る神様も変ってしまう。おまけに簡単に引っ越しもされるので、わけわかりません。草薙剣は、何本つくられたのでしょうか?今も熱田の本宮と皇居の2本は間違いなくあります。
ヤマトタケルでは、天皇の子であり、古事記の神々を祀る社より、新しいから格落ちしそうだが、そこを熱田さんは「祀るのは剣である。剣はアマテラスがニニギに渡したもの、剣はアマテラスの分身」と言い、明治になって熱田さんは力を得たことが今回のブログでわかりました。
美濃 尾張 三河の古墳    尾張は遅れて巨大古墳を作った事、後進性がみえる。
高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)は、熱田神宮より古くあるという説もあります。

神社の古さは、古文書があるわけでもなく、建物は白木で小さくあり、代代わりを簡単にするので建築で追う事もできない。伝承だけだが、この辺りは古墳の近くだったり、上に建つのが多い。
白毫寺 1571年創建
万葉集: 『万葉集』にも詠まれた歌枕であり、境内には「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ」の万葉歌碑や勝景跡の石碑が建つ。今、見下ろしても何にもないし、寺と和歌との関係はまったくない。
県名の由来: 「あゆち」の読みが「あいち」へ転訛し、愛知郡となり、現在の愛知県名の語源となった。
富部神社  地名では「戸部」なんですが。
ここにも「牛頭天王」信仰の山車はあるのですが、祭りは出来ていないようです。古図でみれば、熱田から星崎の海の向こうになるのですが、江戸時代には山崎川、天白川に橋が架かり、現在は、南区のど真ん中になっています。
鎌倉街道の案内がありますが、江戸時代になると、山際の街道が海沿いに降りてくるのは日本のどこでも同じです。水を制御できるようになれば、平地の方が動きやすい。
江戸時代の東海道 呼継を通る  南区の高台をめぐると、古墳、神社に出くわす。鳴海から知多には、これほどないのは、水があるかどうかでしょう。
尾張名所図会 「戸部村 蛇毒神社」
今の南区の富部神社であり、牛頭天王を祀っていたのでした。蛇毒は、地名の戸部でなく富部にしました。(笑)牛頭天王の天王は天皇と紛らわしいので、全国でスサノオノミコトに変えられました。皇国史観が国民を戦争に押し立てました。
「戸部村 蛇毒神社」 
今も信者を集めている。今の南区の富部神社であり、牛頭天王を祀っていたのでした。東海道により、笠寺、戸部村は鮎千潟の向こうにある台地として脚光を浴びたようです。図の上には海が見えます。

社は、尾張を治める清洲城主の徳川忠吉(秀忠の同母弟)の病回復を願う妻の寄進です。津島神社の社もそうです。重文です。

第二項 源頼朝の父、義朝

義朝は妻の実家を頼り、野間で殺されてしまう。「頼朝の母は、熱田の神官の娘というぐらいか。」というのでなく、藤原南家が神官として尾張の熱田宮に下っており、血筋正しきようです。北面の武士にはそれぐらいがつり合いが取れていたのでしょう。
戦国時代、熱田の神官は、馬に乗り、弓矢を操る訓練された武士でした。「神人(じにん)」や「供僧(ぐそう)」と呼ばれました。都では、神人はしばしば要求を通すために神輿を担いで強訴を起こしました。祇園社は商人と神人による錦座を組織し、京都を中心とした織物や衣類の販売権を独占していました。その武力である「犬神人(いぬじにん)」と呼ばれる下級神人たちは、京都市内の清掃や祇園祭の警護、葬送(遺体の処理)に関する独占的な権利を持っていました。有名なところでは、京都府大山崎町にある離宮八幡宮と、その神人が結成した大山崎油座は、エゴマ油の販売・製造の独占権(油座の特権)を持っていました。寺が僧兵を持つのと同様に、神社も武装をしていたのです。

大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたのですが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られ、以降は子孫の藤原南家藤原氏・千秋家が大宮司、尾張氏は権宮司を務め続けています。千秋家は武将として織田家に仕え、千秋季光が織田信秀に、季光の子季忠は織田信長に仕えていました。

神官を含め6人が射る神事。今も「歩射祭」としてある。

第三項 信長が桶狭間の戦いの前に熱田神社で戦勝祈願

「信長公出陣の図」の詞書には、桶狭間合戦の際、永禄3年5月19日、今川義元が大軍を率いて尾張に攻め入ったこと。清洲城にいた織田信長が急報を聞き、従者わずか数騎で飛び出したこと。「まづ熱田の社へおはしまして、神前へ一礼し、武運長久を祈念せられたる」様子。その後、善照寺砦や中島砦へ向かい、大勝を成し遂げた故事が書かれています。今も残る「信長塀」は、このような江戸時代の故事からの命名であり、信長が寄贈した塀ではないと、私は思います。

かなったので、戦勝記念の海上門(戦災焼失)と信長塀と俗称する大練塀が最初に作られ、後に信長は元亀2年(1571年)~天正3年(1575年)に渡って旧来の面目を一新するかの如き熱田社の大造営を行い、長篠出陣の前には熱田社摂社八剣宮の造替を命じています。全て、岡部又右エ門が行っています。何よりも彼は天正7年(1579年)に安土城天守の棟梁を務め、「日本総天守の棟梁」とされたことが熱田の宮大工の最大の誉です。戦いにあっては、当時の大工は工兵隊を務め、天正10年本能寺の変において、岡部親子も討ち死にしています。
熱田の神社と言っても、熱田には神社がいくつもあり、八剣社の方が武ばっていて、信長に続いて家康も八剣社に寄進をしていますので、<旧来の面目を一新するかの如き熱田社の大造営>の熱田社がどこを指すのか疑問に思っています。

また、今も「熱田まつり(尚武祭)6月5日」=牛頭天王祭り」を主宰する南新宮の方が、牛頭天王の元締めを京都の八坂神社と分け合う津島神社を在所とする信長に合っているような気もしています。

熱田神宮の最大の祭りをご存じでしょうか。
例大祭を略して「例祭」と呼び、一般には「6月5日 熱田まつり」と呼ばれ、夏到来の花火もあがる夏祭りです。今は地上ですが、私の子供の頃は船でした。大正までは「大山」も出しており、祭りの形式は、中世からある「津島まつり」の真似でした。
「熱田まつり」これは実は牛頭天王の祭りなのです。津島神社のように朱色の摂社・南新宮社は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)をお祀りしています。江戸時代は、熱田神社の鳥居の外にありました。
熱田の宮  今と違い、そんなに大きくはない。一宮真清田神社と同じ構成。今の本宮は、北西に100m動いている。建屋は昭和30年伊勢神宮のおさがりです。伊勢神宮とアマテラスで同格だと明治以来言い続けてきた。
絵では、流れ作りが二社並びである。尾張作りなら、妻入りだと思うのだが、相の間も見えない。勅使殿が随分手前にある。伊勢神宮に比べておかしい。
八剣宮 八剣宮も 草薙剣を祀るという。別宮だそうだが、怪しい。熱田神社とは全く別の神社が熱田に取り込まれたと思う。信長が桶狭間の戦いの前に参ったのは、これか、もしくは上知我麻神社か。
信長公記にある、岡部又右エ門が大工事をしたとあるのは八剣宮だと思わるれのは、武士の信仰が厚かったことから。八棟もらしい。
南新宮  牛頭天王である。 境内も建築も熱田の宮に比べて小さい。南新宮社は、信長が領地の津島神社から持ってきた事も考えられる。私の子供の頃は、巻きわら船を運河に浮かべ,市電は花電車となって、屋台の連なる広小路通りを走ってました。「信長塀」は言い伝えであり、建築学徒としては、まったく信じていません。
信長の在所の津島の山車に負けない大きさの山車が出ました。電線がひかれてから、やっていません。カラーの京都祇園祭りの鉾と変わらない大きさの熱田の牛頭天王まつりの車輪です。水野先輩は、この大山から、岡部又右エ門は安土城の吹き抜け構造を思いついたと論文を書いています。

知我神社(星宮神社)は、「星崎」にあるとあり、尾張名所図会の「塩田」の風景の場所なのでしょう。近くの笠寺公園に登り、弥生時代の家屋が復元されている「名古屋市見晴台考古資料館」に行くと、見晴台の東側にあった、昔の天白川の広大は河原敷の写真が見られます。尾張名所図会の「塩田」はあったのでしょうが、江戸時代も早々に田んぼになったと思います。知多半島では海水を煮詰めて塩を得るために専用の陶器が出土しています。

星崎が古くからの千鳥の名所(歌枕)であり、芭蕉がこの地で「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」と詠んだことを紹介し、小山は天日干しで多く塩分を含んだ砂を積み上げたもので、里の人が「塩尻」や「塩くそ」と呼んだとあります。釜で煮だす為の煙が立っています。
考古資料館の名古屋市立はここしかないです。
考古学は愛知県の陶芸資料館が主体ですが、そこには、名古屋市内の遺跡が示されていません。発掘資金いることが、考古学者を下らない役人にしています。

第二章 江戸時代の熱田

江戸時代の地図と現代の地図を並べました。①西の堀川と東の精進川の間で、熱田神宮、八剣宮の他に、寺が周囲に多くあるます。②木曽谷から弥冨を経て来た材木の加工場は左岸に少しあります。③天保14年(1843年)の記録によると、東海道の宮宿(熱田宿)には旅籠が248軒あり、東海道一の数でした。カタチから見て、この敷地は埋めたたてられたのではないでしょうか。④常夜灯の突堤、東御殿は削られ、その他は埋め立てられ運河となっています。

重ねて見ると、精進川が掘削されて新堀川になったことがすぐにわかります。現代の地図、旧東海道の伝馬町と裁断橋あたりで、今も街区が広がっており、埋め立てと運河掘削が行われたことが読み取れます。

第一項 七里の渡し、熱田の宿

本陣2軒、脇陣1軒、旅籠200軒以上。東浜御殿は将軍専用であり、西浜御殿は幕府高官や公家・大名のためでした。桑名まで4時間から6時間かかりますので、前の日は熱田に泊まらざるを得ませんでした。

七里の渡し(白黒の尾張名所図会をNetwork2010がイメージ着色) 現在は国道一号線と19号線が熱田さんの南側で交錯し、熱田の宮の賑わいを壊してしまいましたが、道路線形は残されています。
常夜塔は復元されてあります。海は遠くになりましたが、堀川の川ガ広く、水ももう海水ですので江戸時代の雰囲気が想像できます。
尾張名所図会 大瀬子の魚市場  宿場町の北、現在は公園に。
名産として、鯔魚(なよし=ボラ)・藻魚(もいお=アイナメ)・万魚(よろず=不明、サヨリに似て太く長い魚)・牡蛎(大野が産地)・蛤・蜜丁(ちんみがい=サルボウガイ)・鱸(すずき、知多郡産)・棘鬣魚(たい=タイ、師崎・日間賀島など産)・喜子魚(きす=キス)・箭簳魚(やがらいお=ヤガラ)・鰺(アヂ)・海蝦(しまえび=伊勢エビ、名古屋では志摩蝦とよんだ)を挙げている。
丹羽家   元は脇本陣格の旅籠屋であった「伊勢久」で、江戸後期の建築である。昭和59年(1984)に市の文化財に指定された。
熱田荘  熱田湊に面している日本の伝統家屋というだけで、明治29年と新しいです。「魚半」という料亭でした。二階部分の階高を高くしたのが江戸時代の旅籠でした。名古屋の中村遊郭に比べると、貧しい建物です。

第二項 東海道(七里の渡し)と美濃街道(名護屋本町通り)の分岐点

江戸から来ると、精進川を裁断橋で渡り、伝馬町に入ると正面に大きな社「上知我麻神社」が見えます。神社の前で左に折れると「七里の渡し」です。右に折れると、高札場の前を通り、八剣宮正面に出ます。名護屋に行くのを急ぐなら、熱田さんを横目に熱田さんの西側の美濃街道(本町通り、現在の19号線)を北に向かいます。京、大坂に行くのに、七里の船旅を嫌う旅人も多く、朝鮮使が使ったことから大垣までの「美濃街道」は京都への「朝鮮街道」とも呼ばれました。

江戸時代の熱田さんの姿は現在とは全く違います。明治、大正、昭和と熱田さんは都市計画の度に、社地の拡大をし続けたのでした。
戦後に作った19号線が、「上知我麻神社」を、「八剣社」と共に熱田さんの社叢の中に入れてしまいました。左の江戸時代の地図を見ると、東海道の正面にあって、大きな社です。明治の写真も探し出しました。
上の現在の写真を見ると、T字路の形で東海道は残っており、今も突き当りには小さな祠があります。
国道一号線も幅が広く、熱田のかっての宿場町には行きにくいなりました。「伝馬」は、地下鉄の駅名でしかありません。
東海道「伝馬」   正面に、かっては「上知我麻神社」が見えた。
花井金造は、岡崎市の和菓子店・亀屋芳春で修業した後、現在の本店の場所に「亀屋芳広」を1949年に開店し17店舗を展開している。
明治の写真 「上知我麻神」正面にこれなら、右、左まちがえない。戦後に作った社は、水平に段々に延ばし、軒先を流して先端を唐破風にしているが、妻を大きく見せるコチラが尾張らしい。
メモリアルとして東海道沿いに作られた「裁断橋」
熱田さんに戦後吸収された「上知我麻神」   一応、八剣社と同様に鳥居の外にあるが、熱田宮の摂社となる。正月5日「えびす祭り」江戸時代から、商売繁盛、家内安全、漁業豊漁の祈願で人気。
尾張名所図絵 「裁断橋」「姥堂」
尾張名所図会「上知我麻神」  社は明治の写真のとおりだ。高札場も右に折れたところにある。高札場は宿場町に必ずあった。

第三項 熱田の宮

江戸時代の熱田神宮は小さかった事を、前項で示しましたが、その根拠を出します。

前項で使用したのは「熱田本宮及摂末社之図」は、ネットで見つけたのですが、絵の根拠の論文をさがしたのですが見つかりませんでした。高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)を、熱田本宮の摂社としてトポロジカルに置き、地図としての精度を求めていないのは、熱田本宮関係者による復元図なのでしょうか。
「本宮」としていますが、高座結御子神社の周りには多くの古墳があり、精進川の河川で水田を営む人々には、海に近い熱田宮よりこちらの方が祀るには都合良かったのでしょう。すなわち古墳時代の「本宮」は、北の高蔵の方だったのだと言えます。
江戸時代の熱田の復元図が名護屋城下町に繋げて内藤研究室で半世紀前にできたのは、山村亜希氏が2014年に「地図で読み解く中近世の港町熱田」昭和堂刊と「もうひとつの近世都市・熱田―いまに残る近世の港町の残照を求めて―古地図で楽しむなごや今昔」風媒社刊に書いているように、江戸時代の資料があったからでした。同年に同じような内容を別のタイトル、出版社で出しており、ネットにPDF論文として出ていません(津島、犬山、岐阜は愛知県立大学歴史地理学PDFで拾えます。)ので、著作権で二社の間に何かあるのかもしれません。従って、ここで山村亜希氏の内容には触れません。

近代以前の熱田神宮社叢の林相の変遷 2021橋本啓史 名城大学農学部  より

熱田社参詣曼荼羅図(享録年間)の屏風を見て描いた尾張名所絵図があります。信長が生れたころですが、五重の塔、多宝塔、神宮寺もあります。熱田さんの西側には美濃街道にそって多くの寺があります。この神仏混合が、牛頭天王信仰が、庶民のよりどころでしたが、明治の廃仏毀釈が日本の宗教を混乱させ、伊勢神宮との連関を強くうたう熱田社は社地を大きくしました。

尾張名所図会   熱田社参詣曼荼羅図(享録年間)  私は、熱田社参詣曼荼羅図(享録年間 1528~32年)の屏風 の景観時期を所蔵する徳川美術館のように古くはとっていません。享録の絵を1808年に写したと解説されていますが、「このようであった」でなく「こうだったらいいな」という妄想の過去を、1808年に大須の七つ寺などの盛んな境内から写したものだと思っています。ただし、八剣宮からの門前町から港に向かうところは、この絵を書いた江戸期の事実だと思います。

尾張名所図会と同じ配置の浮世絵もあります。一宮の真清田神社、津島神社の建築を見れば、三宮の熱田神社はこのくらいが適切ですので、これは間違いないでしょう。

古代、中世の実力は尾張より美濃でした。古代より、この地域(美濃、尾張)では多賀大社(滋賀県多賀町)が神仏混合で名をあげており、江戸時代の多賀神宮寺には三重塔がありました。熱田神宮も神仏混合だったとはいえ、社格が上の多賀大社を超える五重の塔・多宝塔があるとする熱田社参詣曼荼羅図は、事実を描いたものとは思えません。この浮世絵図(下村信博氏復元図)から見ると、熱田社参詣曼荼羅図の神宮寺は境内の外になってしまいます。

松尾芭蕉は貞享元年(1684年)8月、江戸から故郷へ向かう途中に熱田を訪れました。野ざらし紀行の中で、当時の社頭(境内)が大きく荒れ果てていた様子を「社頭大いに破れ築地はたふれて草むらにかくる」と描写しています。宿場町、門前町の繁栄は、熱田神社の西にあった多くの寺にもたらされたのでしょう。
日光東照宮、羽黒山には五重塔がありますが、初めから神仏混合の祭神でした。仏舎利を納める塔が立つならば、神宮寺が主体の境内になってしまいます。草薙の剣を祀る神社ですのでありえないと思います。


熱田神宮神境図説 二枚続  作者不祥 大判二枚続 和紙木版色刷り 各 51×75㎝  明治7年(1874年)
清雪門 開かずの門とあり、本宮北門か別宮の東門の移転と説明しています。1686年綱吉の修理の墨書がありますが、確かに浮世絵では、現在立っているところは空き地です。瓦土塀に本瓦ですので、神社でなく、熱田神社の大宮司の屋敷の塀が似つかわしいです。熱田神宮の大正・昭和の大造営で敷地が拡大したので、南新宮は境内の外と言う意味を込めてここに置いたのでしょうか。

浮世絵と同じアングルの尾張名所絵図があります。境内は樹木で覆われ、神社の西、唐破風を持つ楼門しか描かれていませんが、社叢の西を走る美濃街道(名護屋本町通り)の西が門前町であり、奥に寺の名前が書かれています。手前は宿場町です。

出所不明の地図です。ネットで拾いました。
尾張名所絵図「美濃街道」 西門「鎮皇門」1600年八脚楼門 檜皮葺きに唐破風 戦災消失

第4項 熱田のお寺

手前が臨済宗の霊鷲寺(りょうしゅうじ)。奥に見えるのが、811年に弘法大師空海が創建したと伝わる曹洞宗・白鳥山 法持寺(ほうじじ)です。小山が寺の奥に見えます。白鳥古墳です。白鳥古墳のテッペンに白鳥社を置いている寺でした。この尾張の観光名所にしていた伝統から、今も世への売り込みが盛んな寺です。この辺りは寺町ですので、檀家で成り立つ寺ではありません。
尾張名所絵図 の法持寺は古墳のてっぺんに白鳥社を置いていました。  今の古墳の東の位置と違います。堀川に境内を繋げ、白鳥陵を後ろに立たせていました。白鳥古墳の南半分を削っています。古墳であるとの認識は江戸時代もしていますが、熱田さんが言うところの「白鳥御陵」は、日本武尊が亡くなった後に白鳥となって舞い降りたという伝説(白鳥伝説)からの名ですが、地方豪族であった尾張物部氏の古墳です。
東海地方最大の前方後円墳です。 全長約151メートルに及ぶ、6世紀初頭に造られた超巨大古墳です。熱田神宮公園の中にあり、周囲を散策できます。熱田神宮の祭神である「日本武尊(ヤマトタケル)」の妃である「宮簀媛命(ミヤズヒメ)」の墓という伝説があり、熱田神社がお守りをしていましたが、今は公園局が管理しており、申し出れば登れます。もっとも登っても樹木が茂り、この絵のような江戸時代の眺望は得られません。
このような案内看板を名古屋市はつけるようになりました。
今はやりのQRコードをここにつけて、スマホ活用でさらに深く楽しめると良いですね。
源頼朝の生誕地 とあります。今やこの門だけの寺です。
誓願寺は熱田神社の美濃街道の向かいにあった大寺です。今は見る影もありません。尾張名所絵図では、熱田神宮の大宮司であった藤原季範(すえのり)の別邸跡であり、ここで頼朝が生まれたとあります。

円通寺   熱田神宮の南西に位置し、かつては神宮の別当寺(神社を管理する寺)でした。弘法大師(空海)が草創したと伝えられています。

熱田さん となれば、この寺も一体です。今も、火事にならない「秋葉山」として、火祭りに信者を集めています。
東の空から見ています。北と西の二方を熱田さんが囲っています。

野球場と19号線の間に、「青大悲寺」という大きな寺があります。創立1802年という新興宗教「如来宗」であり、尼寺です。ここの苔むした庭は見ものです。

明治時代の地図を見ても、寺が多いのです。湊と熱田神宮が人と材を集めたのでしょう。

空襲で熱田は燃えつくされ、戦後の都市計画で道路を通され、寺は引っ越しをよぎされなくなり、檀家を持たない寺はこのように、新しい寺にとってかわられました。
寺が、真言宗から浄土宗とか禅宗の曹洞宗に宗旨替えするのは歴史の中でごくごく当たり前の事です。
法華宗と浄土真宗は、自前の設立にこだわっていました。

第三章 明治の熱田

重ね図

20世紀になりました。
1889年(明治22年)に全通した東海道線の熱田駅が町の中心となり、18年でこれだけ西側に民家が広がりました。
②熱田台地の東下に兵器製造所、日本車両、西下に愛知時計、北になど、日本の近代化を急ぐ工場群を作り、北の大曾根駅と同様に、熱田駅は集荷の中心となりました。

明治政府は、鉄道と港の整備を急ぎました。これによって、近世城下町が近代都市に変わりました。名古屋に限った事ではありません。
熱田神宮の東は崖です。高座結御子神社の周りに古墳が多いのは、年魚千潟の水田から見上げられるからでしょう。熱田は海の中に突き出ていました。

③熱田駅と港を継なぐ「熱田運河」が掘られ、精進川の流れも変わりました。
④東側の熱田社叢、寺を民家が侵食します。それまで台地の東側は、精進川の低地で人もすまなかったのですが、東海道線が通り、熱田の東側が開発されました。
⑤熱田の港は埋め立てられ、伊勢湾から遠ざかるも、堀川を使っての物流は昭和30年代まで発展します。常夜灯の突堤、御殿は必要がないので壊されてます。
⑥堀川の左岸にあった貯木場は右岸になり、木曽・飛騨だけの江戸時代より、外材が入り、広がっています。これからさらに広がりますが、1959年(昭和34年)伊勢湾台風で木材が流され甚大な被害を生み、1968年(昭和43年)名古屋市外に西部木材港が作られます。運河の命は、昭和50年頃まででした。
⑦熱田さんは、明治40年経っても江戸時代と領域は変わっていません。いや、小さくなっています。1732年と1907年を並べます。「廃仏毀釈」の嵐は神仏混合の熱田さんも襲い、神宮寺を切り離したので、寺が増えています。熱田神宮は「草薙の剣」をアマテラスの御霊代(みたましろ)、熱田大神(主祭神)はアマテラスそのものと言い、皇室、伊勢神宮に近づきます。御霊代とは仏教でいうと位牌みたいなものだそうです。

第一項 熱田運河(姥子川運河)

1896年(明治29年)、国鉄熱田駅の現在地への移転に合わせて、鉄道輸送と水運(船)を連結する重要な貨物ルートとして掘削します。両岸を結ぶ「御田橋」や「丸山橋」などの橋が架けられていました。名古屋港駅や白鳥駅の開設、臨港線の整備に伴い役割を終え、昭和初期早々に埋め立てられ消滅します。現地を見ても、運河の痕跡は全くありません。

鉄道に運河では、熱田の東に広がる土地はなく、熱田神宮は押されています。名古屋のメインストリート大津通りを南進させ226号線として熱田神宮と東海道線の間に通し、昭和6年の地図では熱田運河は消えかかっています。明治10年と昭和6年を比べると、熱田神宮は大きくなっています。

第二項 百曲街道(国道一号線)

上の地図、昭和31年で、国道一号線が熱田神宮の南側に幅広(幅員50メートル)の幹線道路として計画・建設されたのは、1946年(昭和21年)に策定された名古屋市の戦災復興都市計画によるものです。太平洋戦争後の戦災復興事業の一環として、焼け野原となった熱田の旧市街を横断する形で整備されました。

では、旧東海道は国道一号線のように「七里の渡し」だけでなく、陸地伝いで西に向かっていたのでしょうか。そうです。第二章 江戸時代の熱田 では、「佐屋街道」を紹介しましたが、「津島」の川湊が土砂で埋まり「佐屋」に川湊が降りて「津島街道」が「佐屋街道」に代わり、次に「佐屋」が埋まり、江戸末には「弥冨」に川湊が降りてきました。それに至る「百曲街道」が干拓地の堤防の上にできました。少しづつ作られた堤防なりに進むので曲がりが多く「百曲」と呼ばれました。江戸初期の海岸線ですので、立派な松並木の記憶を私は持っていますが、伊勢湾台風で海水に一ヵ月つかり、すべて枯れてしまいました。

私は、中川運河にかかる一号線の橋「昭和橋」近くの「中野新町」で育ちましたので、熱田神宮から庄内川の橋「正徳橋」までは、わが手の内です。

弥冨は、鎌倉時代の荘園の地図があります。「尾張国冨田荘絵図」鎌倉の円覚寺所有 

弥富市の東側に隣接する名古屋市中川区戸田(冨田荘)周辺の海岸線、河川の絵の北端に、鎌倉街道の庄内川を渡る宿場である「萱津宿(現・あま市甚目寺町萱津周辺)」があり、その南側に大きな寺院である「成願寺(現・あま市大治町の自性院周辺)」が書かれています。
第一章の南区呼続のあたりでは、鎌倉街道が山側に、東海道は海に近づいてありましたが、中川区でも同じです。家康が木曽川の堤防をつくり、濃尾平野は安定した米どころとなりました。見た目は川ですが、運河で給水をしていました。

川は現在、暗渠になっており見えませんが、もともと人工の用水路だったのでした。
河岸段丘の微高地に宅地がありました。昭和になって「笈瀬川」「中川」を元にして「中川運河」が掘られました。「堀川」には「大幸川」の水を入れてました。

百曲街道は、三十三観音で彩られます。

観音堂は街道沿いに必ずしもありませんので、回られるならコチラの地図をお持ちください。

中川区も、歴史街道がある事を知り、売り込んでいます。
6番は、新幹線のガードのすぐ隣で、その向こうには名古屋高速道路が見えています。
ここから、北の日置橋に向かいます。
8番です。この右手にわが母校の昭和橋中学校です。中坊時代、何も感じていませんでした。
10番の観音様。
11番のこの通りに、古い家が残っていたのですが、今は右の富田さん一軒だけでした。
中川運河にかかる昭和橋も、昭和60年に架け替えられており、私の見なれたテラゾーの手すりはアルミになっています。
この国道の一本南の通りに、大きな松が残っていたのですが、、、50年以上も前の事です。伊勢湾台風で枯れました。
出発は、子供の頃の遊び場「神明社」から。
農村でしたので、氏神様はあちらこちらに残っています。
堀川での花見   日置橋(ひおきばし)周辺の堀川両岸が舞台です。満開の桜と群衆、川を行き交う花見舟が特徴で、江戸の隅田川や京都の嵐山にも劣らない名古屋屈指の景勝地でした。今はどぶ川ですが。
宮宿(熱田)から桑名宿へ向かう陸路の途中、庄内川を渡る地点として大いに栄えました。馬も載っています。

第四章 大正の熱田

第一項 熱田神宮の拡大

名古屋のメインストリート大津通りを南進させ226号線として熱田神宮と東海道線の間に通し、熱田社叢は北、東に膨らみます。

近代以前の熱田神宮社叢の林相の変遷 2021橋本啓史 名城大学農学部  より
雲見山は山でなく、熱田さん のさんです。江戸時代からの社叢をそう呼んでいました。緑濃い熱田さんですが、多くは戦後の樹林であり、大正、昭和において熱田さんの拡大が行われました。
熱田さんの社叢は明治神宮を手本に作られたものでした。
現在の熱田の社叢 社、建屋の配置図

熱田神宮の格付けの運動と、熱田社叢の発展はリンクしています。

1868年慶応4年3月、明治政府は「神仏分離令」を出します。6月に神宮号を宣下されて熱田神社から熱田神宮に改められた。
1871年7月1日(明治4年5月14日)の近代社格制度の制定により、熱田神宮は官幣大社に列格した。熱田神宮は「三種の神器の一つを祀っているから、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張をし、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願したものの却下されている。
1878年明治11年明治天皇の参拝を得ている。明治天皇が伊勢神宮を参拝したのは、明治2年3月12日(新暦:1869年4月23日)であり、飛鳥時代の持統天皇以来、実に約1000年ぶりであった。伊勢神宮が皇室に繋がったのを尾張三宮の熱田神宮はうまく利用した。
1889年(明治22年)までに伊勢神宮に準じた、神璽勅封・権宮司設置などが認められた。

明治26年(1893年):従来の尾張造から伊勢神宮にならう神明造へ本殿を改修。
大正期〜昭和初期、明治神宮を新たに作った実績(大正9年竣工)をもって、伊東忠太らの参画のもと、社殿群の本格的な拡充、および大規模な境内拡張(社地拡大)が本格化。周辺土地を買い上げるなどして神域を広げ、近代的な参道や広場を整備
大正から昭和初期にかけて、名古屋の近代化・工業化に伴う都市の煙害(大気汚染)により、熱田神宮の元々の主軸であった針葉樹(マツなど)が衰退し始めていました。伊東忠太らは、明治神宮での経験を生かし、煙害に強い常緑広葉樹(クスノキ、カシ、シイなど)を意識的に配する近代的な造園計画を実施しました。現在の鬱蒼と茂る、豊かな「熱田の杜」の景観は、明治神宮と同様に作られたものでした
昭和10年(1935年)境内全体の近代的大改造が完了。伊藤忠太設計による社殿群を祝う本宮の御遷宮(遷座祭)が盛大に執り行われる。写真は拝殿であり、奥に本殿がある。

信長塀を従えていた、朱塗りの国宝「海上門」信長の寄進と言われていた。



1945年(昭和20年)3月12日の空襲で鎮皇門、東楽所、神楽殿、神札授与所、勅使館、斎館、宮庁などが焼失。
次いで同年6月9日に行われた熱田空襲により全て焼失した。


父は中川区昭和橋の独身寮の二階から燃え盛る熱田を見ていたそうです。
原料なく工場で作ることはできず、食料もなく、本巣郡の実家に戻って赤紙を待つ身に、「終戦の詔」があり、安堵するもこの先どうなるのか、と不安ばかりだったそうです。

1955年(昭和30年)10月に、社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、内務省神社局で伊東忠太の後輩にあたる角南隆(すなみたかし)が造営局長として指揮を執り、伊東らが築いた近代の配置計画を踏襲しつつ、伊勢神宮には無い、拝殿の翼廊などを加えて再建されました。

第二項 白鳥の貯木場

大正から昭和にかけて「大名古屋」の都市計画が行われます。名護屋+熱田で生まれた名古屋市の外周に区画整理事業によって市街地を造成し、そこに環状道路を巡らし、大工業都市を作ろうというものでした。堀川沿いの貯木場はドンドン広げられ、さらに中川運河も作られます。

運河だけでなく、名古屋港の整備が進められます。

総取扱貨物量は約1億5,000万トン以上であり、今も平成14年から連続で日本一を維持。自動車輸出台数や貿易黒字額なども国内トップ。工業都市には、港が要ります。2005年には、知多沖に中部国際空港も作りました。
熱田まつりでは、筏師の曲乗りがありました。
私が見た景色は、こんな感じで、材木は南洋からのラワン材でベニヤ板に加工していました。

①~⑦の民間の貯木場も次々と作られます。製材が陶器とならんで名古屋の特産品でした。

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で、材木が流れ、多くの被害をもたらしました。
1968年(昭和43年)名古屋市外に西部木材港が作られます。運河の命は、昭和50年頃まででした。

戦後も復活するのですが、昭和50年には激減します。
昭和48年に、名工大服部先生と貯木場内の鎮守の森の植生調査はしました。タブノキなどの潜在植生がそのまま残っていたのを記憶しています。

第三項 白鳥の都市計画

1981年(昭和56年)跡地の一部が「白鳥公園(地区公園)」として都市計画決定され、1989年(平成元年): 市制100周年記念「世界デザイン博覧会」の白鳥会場として活用されます。

現在、白鳥貯木場の跡地には
・農林水産庁林野庁中部森林管理局名古屋事務所
・「熱田白鳥の歴史館」、
・公団住宅、公営住宅、
・名古屋国際会議場、
・白鳥公園、白鳥庭園、
・名古屋学院大学しろとりキャンパス、
・ヴィー・クオレタワー白鳥庭園(マンション)
などが立地している。

白鳥庭園は、堀川と海に接しており、浜離宮恩賜庭園(東京都)のような海の水を引き入れた「潮入りの池」を中心にすることもできたのですが、木曽三川のミニュチュア化をコンセプトにして、茶室を中央に大きくおき、まがい物の日本庭園風にしてしまい、もったいないです。徳川園の日本庭園には多くの外人客が来るのですから、コンセプトを見直して現代庭園は廃棄し、きちんとした日本庭園にするべきだと思います。

堀川もこのあたりは綺麗です。水辺の散策には、名古屋市がやろうとしている中川運河より適しています。大阪市の中之島の景観づくりを参考にすべきでしょう。
カモメが飛来するのですから、それにあった景観の庭にすべきでした。
いうほど、モミジは多くないです。徳川園の方が圧倒的です。
中央の池が焦点とならないのでは、日本庭園とは言えません。
石立が、まったく効いていません。なら、大きな泉水と築山に洲浜をからませた六義園のようにする事もできたでしょうに。下手なので誰の設計家としらべたら3人の名前がありました。これでは、デザインがまとまる事はありません。
こういう細かい所を集めただけの庭園

第四項 神宮東公園の都市計画

日露戦争期の1904年に創設された熱田兵器製作所(名古屋陸軍造兵廠熱田製造所)は空襲で粉砕されます。愛知時計は、その地で復活しますが、終戦に伴い陸軍が解体されたため、全国の旧軍用地と同様に、広大な33万ヘクタールの地主は「国(大蔵省所管の国有地)」となりました。

瓦礫の山となりました。名古屋では、空襲によって、8千人がなくなっています。

戦後の焼け跡を幸いに、田淵は、石川が大正時代に作った道路計画以上の大胆な計画「大中京」をたて、実行します。名古屋の人口が急速に増え、200万人になるころ、昭和44年に都市計画の制度が代わり、国から名古屋市に都市計画の主体が移ります。

昭和40年代から50年代初頭にかけ、名古屋の経済界が主導して「東京の明治神宮外苑のような大緑地帯を熱田に作る」という目標のもと、公園にとどまらず、野球場やサッカー場、食堂街、さらには当時日本一の高さを目指したテレビ塔などを網羅する一大複合開発「熱田神宮外苑開発計画」が立案されます。工場移転跡地の中心は大緑地帯とする構想でした。
1968年(昭和43年)に設立された「熱田神宮外苑土地開発株式会社」は、中京テレビ、松坂屋、中日新聞、トヨタ自動車販売、中部電力などのトップが名を連ねる強力な民間組織でした。大緑地帯を作るにしても、国から土地を払い下げてもらい、企業活動に利用しようという考えですが、儲ける事だけを考える船頭が多すぎました。マスタービルダーは吝嗇な名古屋には生まれません。

同社が土地を所有できなかった(=計画が幻に終わった)のには以下の背景があります。
民間への一括払い下げの難しさ:約33万平方メートルに及ぶ広大な大蔵省所管の国有地を、特定の民間会社(第三セクター形式であっても)に丸ごと払い下げることに対し、公の利益の観点などから行政や議会、世論の調整が難航しました。
オイルショックによる経済環境の激変:構想中の1973年に第1次オイルショックが発生し、大規模な民間投資やリゾート開発が極めて困難になりました。
事業化見込みの頓挫:結局、国から土地を取得する(あるいは利用許可を得る)具体的な目処が立たないまま、会社は1975年(昭和50年)5月に解散へと追い込まれました。

民間会社が解散したため、土地は国(大蔵省)の所有のまま残されました。その後、このまま遊休地にしておくわけにはいかないため、

1979年(昭和54年)に建設省(現・国土交通省)や名古屋市、住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)といった「公的機関」が主導する都市計画(特定市街地総合整備促進事業)に切り替わりました。これにより国から公的用途として土地が引き継がれ、東側に神宮東公園、公団住宅が集められています。

住宅団地は駅から遠い所に置かれ不便です。金山駅でも高層ビルが建たないのに熱田駅に商業施設が成り立つわけもないので、駅との連関をはかるべきでした。イオンモールは車での来場であり駅に引っ張られる事はありません。

計画を作った株式会社は「土地が手に入ることを見込んで絵を描いたが、手に入らずに解散した」のですが、西側・北側では、単独の企業では払い下げをしてもらっています。現在のツマラナイ名古屋の都心となってしまった経緯を書いておきます。

2003年イオンモール熱田:終戦直後、大同特殊鋼(当時は大同製鋼)が旧名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所の建物を国から借り受け、「星崎工場高蔵製作所」として操業を開始しました。東海財務局から大同特殊鋼へ正式に土地が払い下げられ、「高蔵工場」として再発足しました。その後、工業炉の製造部門などが集約され、同社の重要な機械製造拠点として長年稼働しました。2001年に大同特殊鋼の高蔵製作所が閉鎖・移転されたことに伴い、その広大な跡地を利用して2003年にイオンモール熱田が開業しました。
中京倉庫への転用:旧熱田製造所の西側敷地は、民間物流会社である中京倉庫株式会社へ払い下げられました。大正時代に建てられた造兵廠時代の「煉瓦造りの建物(倉庫、水圧工場、鍛工場など)」が現在もそのまま残されています。
研究機関・公的機関への転用:中京倉庫の周辺(六野地区)には、先端技術の研究拠点として「一般財団法人 ファインセラミックスセンター(JFCC)」や、日本の物流の重要拠点である「名古屋神宮郵便局」などが整備されました。
公共スポーツ施設:「名古屋市体育館」や「熱田球場(熱田神宮公園内)」など、市民の憩いの場となる公的なスポーツ・レクリエーション施設にも敷地が充てられました。
日本碍子あらためNGKの本社ビル:新堀川高蔵橋の袂、神宮東公園の反対側にあります。鉄道をアンダーパスをする高田郡道を設けたのですが、道沿いにリンと建つ本社ビルはこれしかありません。1973年(昭和48年)名古屋工業大学建築学科の工藤国雄(1938~)助教授のもとに、「熱田神宮外苑開発計画」の依頼が日本碍子からありました。工藤先生は畳一帖の開発計画を行い、私は模型作りのアルバイトをしました。ニューヨークのセントラルパークの事例を元に、工藤先生からマスタービルダーと言われる人の仕事(西欧の都市計画)を教えてもらいました。建築のカタチは全く違いますが、土地の払い下げには役立ったのだと思います。あの模型がそのままできておれば、世界に都市・名古屋を売り込むことができたでしょう。名城公園にIGアリーナを作る名古屋にまともな都市計画はありません。

ボストンの公園のようです。

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