浜松といえば、世界に名を成す二輪のホンダ、スズキ、カワサキ、ヤマハ発動機があり、楽器のヤマハ、河合楽器も有名です。ものづくりの町、浜松ですが、工場は郊外にあり本社ビルも工場内にありますので、城下町を基に発展した浜松市は、静岡県西部(遠江国)の行政文化の中心としてあります。静岡県の県庁所在地である静岡市(大井川以東が駿河国)の人口67万人より多い77万人の人口を有しているのは、市内に工場に集まって来た人々の為の宅地開発を推進したからでした。税収が豊かなのでしょう、駅に降り立つと整備された都市計画に驚きます。
浜松城は、徳川家康(1543~1616)が1570年6月27歳から1586年12月43歳に駿府に移るまで、17年間居城としていました。その由緒から、浜松藩主は出世する譜代大名の指定席となります。江戸時代265年の間に藩主は22名もおり、約12年弱毎に藩主が変わった事になります。
現代の観光ネタに、浜松市は「家康の城」を唱えていますが、岐阜市・小牧市の「信長の城」と同様に、都市史の視点からは間違いです。
浜松は、堀尾 吉晴(1543~1611)が作った。秀吉は家康を関東にぼいやり、岡崎を田中吉政(1548~1609)に、吉田(豊橋)を池田輝政(1565~1613)に、掛川を山内一豊(1545~1605)に、駿府を中村一氏(~1600)に作らせたのと同様である。関ヶ原の戦いでは皆家康について、田中は柳川城、池田は姫路城、山内は高知城、中村は米子城と、東海道での城を教材に城を大きくし、工夫をした。堀尾は1611年に松江城を作った。
私の卒業研究「町人地町割り規模」のデータには、浜松城を入れていません。正保の絵図を基に、同時期の全国の城下町をデータ化しようとする試みに対し、浜松城絵図は宝暦年間(1751~64)の物であるので、研究室の先輩は絵図を明治の地図に復元はしたのですが、外したのだと思っていました。

今回初めて浜松に足を入れて、復元にも問題がある事がわかりました。城郭は土塁・空堀で作られていて、明治廃城時に破壊、埋められていました。石垣は本丸にしかなく、それも底面が見えない鉢巻石垣であり、本丸の東半分が削られて市役所、地下駐車場となっていたのでした。東海道は、時代が下がるにつれて、概して山沿いから河口に降りてくるのですが、今に繋がる宝暦の東海道は江戸初期の引間を通る東海道を付け替えたものであり、町人地・大手門の位置も東から南に大きく変化していたのでした。
引間の武家地が城郭から離れてあるのは、引間が今川時代の館城であり、町人地が引間に小さくあるのは、旧東海道・宿場の残影だったのでした。

浜松市の学芸員は、堀尾氏親子が平山城を石垣を組んで作ったとし、その後の譜代大名が東海道を付け替え、大手門を作り、その内側に三の丸を作り武家地を広げ、引間も武家地にしたと書いていますが、どの譜代大名が、いつ行ったのかはあいまいなままです。
歴代浜松城主を下に並べますが、豊臣を滅ぼした後、元和元年(1615年)一国一城の令が出されますので、松平忠順から、水野重仲、高力忠房までの間で町は作られたのでしょう。学芸員は高力の20年の治世と五社神社、諏訪神j社の造影から高力を推している風ですが、尾張でいうなら、2代目光友と重なる行政内容であるので、家康が1607年に駿府城を隠居城として作り、1609年(慶長9年)には、名古屋城を作ると決意したころに、東海道の浜松城も豊臣包囲網の一環として整備されたと私は考えます。

近世の城下町のテイピカルは、家康の駿府、名古屋です。町人地は約100m四方のグリッドで面で割り込み、そこに東海道、岡崎街道・美濃街道・下街道を取り込んでいます。桑名は中世の港町を城下町としており、港に東海道を引き寄せました。こうしてみると、浜松は、蒲生氏郷32歳が1588年に作った松坂、藤堂高虎(1556~1630)が1608年に作った津に似ています。桃山型のなんとなくの長方形の町割りが街道沿いにある姿です。
絵図が浜松と同様新しいので、私の卒論データにはしませんでしたが、1590年に秀吉は家康を関東に押しやり、田中に岡崎城10万石を、池田に吉田城7万石(豊橋市)を作らせます。どちらも東海道を城下町に取り込んでいますが、やがて、宿場町が大きくなり城下町の総構えの外に宿場は延びて行きます。浜松市の学芸員は、譜代大名が東海道を付け替えたという根拠は書いていませんので、私は堀尾が田中、池田にならい、東海道の付け替えと町人地の拡大を計画し、三の丸、町人地の割りの実施は松平忠順がおこなったのだと思います。
氏名 | よみ | 任期 | 役職 | 備考 |
徳川 家康 | とくがわ いえやす | 1570 – 1586 | 将軍 | 江戸幕府初代将軍 |
菅沼 定政 | すがぬま さだまさ | 1586 – 1590 | 城代 | |
堀尾 吉晴 | ほりお よしはる | 1590 – 1599 | ||
堀尾 忠氏 | ほりお ただうじ | 1599 – 1600 | 松江城城主 | |
松平 忠頼 | まつだいら ただより | 1601 – 1609 | 家康の異父妹を母とする | 桜井松平家 |
水野 重仲 | みずの しげなか | 1609 – 1619 | 家康の10男徳川頼宣の家老 | |
高力 忠房 | こうりき ただふさ | 1619 – 1638 | 城下町、宿場町、財政の整備を行なう | 浜松出身 |
松平 乗寿 | まつだいら のりなが | 1638 – 1644 | 老中 | 大給松平家 |
太田 資宗 | おおた すけむね | 1644 – 1671 | ||
太田 資次 | おおた すけつぐ | 1671 – 1678 | 大坂城代 | |
青山 宗俊 | あおやま むねとし | 1678 – 1679 | ||
青山 忠雄 | あおやま ただお | 1679 – 1685 | ||
青山 忠重 | あおやま ただしげ | 1685 – 1702 | ||
松平 資俊 | まつだいら すけとし | 1702 – 1723 | 本庄松平家 | |
松平 資訓 | まつだいら すけくに | 1723 – 1729 | 京都所司代 | 本庄松平家 |
松平 信祝 | まつだいら のぶとき | 1729 – 1744 | 老中 | 大河内松平家 |
松平 信復 | まつだいら のぶなお | 1744 – 1752 | 大河内松平家 | |
松平 資訓 | まつだいら すけくに | 1749 – 1752 | ||
松平 資昌 | まつだいら すけまさ | 1752 – 1758 | ||
井上 正経 | いのうえ まさつね | 1758 – 1766 | 老中 | |
井上 正定 | いのうえ まささだ | 1766 – 1786 | 奏者番、寺社奉行 | |
井上 正甫 | いのうえ まさもと | 1786 – 1817 | 奏者番 | |
水野 忠邦 | みずの ただくに | 1817 – 1845 | 老中 | |
水野 忠精 | みずの ただきよ | 1845 – 1845 | ||
井上 正春 | いのうえ まさはる | 1845 – 1847 | ||
井上 正直 | いのうえ まさなお | 1847 – 1868 | 老中 |
地勢を探る。家康が浜松と名付けて入るまでは、無名の地でした。
静岡県は、遠江と駿河と伊豆の三国を合わせてできています。箱根の南の伊豆は山しかなく、天竜川の浜松市と安部川の静岡市が大井川で国を分かち、遠江と駿河を古代より支配していました。清水建設は静岡県を全て東海地区とし、名古屋支店管轄でしたが、鹿島建設は大井川でわけ、名古屋支店と横浜支店とに管轄を分けていました。ハレー彗星の法則により、現代の静岡は東京を向いていますので、鹿島建設が正解だと思います。
まずは、江戸が現れる前の浜松の様子をみてみましょう。



遠江は駿河と出挙は変わらないが、郡、郷の数が多く、水田の数は少ないです。
天竜川の作った扇状地、沖積地が密度の濃い稲作をもたらしており、京の権力者は、美濃国と同様に遠江国を欲しがりました。
戦国時代は、斯波氏と今川氏が遠江の争奪戦を行っています。斯波氏が破れ、16世紀前半になると、今川氏の国人・飯尾氏がここに引間城を作ります。
この地図は、武田信玄が3万人を引き連れて行軍してきた道筋を示すものです。東海道の生活圏を示し、なぜ家康は浜松に29歳から45歳まで17年もいたのかがわかる絵です。今川を滅ぼしたのですが、駿河は武田との草刈り場となりました。

三方ヶ原の南端、天竜川の右岸に段々にある河岸段丘の端にある浜松は、弥生時代、古墳時代から人が住んでいました。明治の地形図を見ると、台地のエッジにある事が見えます。東海道線は他の町と同様に、浜松の町に沿って通され浜名湖に向かいます。浜松駅が浜松の新たな都心となりました。


国人・飯尾氏の館城はちょっと高台に、空堀と土塁で囲ってあったのでしょう。


家康がいた頃の浜松
家康は、さらに高台に「平山城」を築きます。信長軍として、朝倉、浅井攻めに参画し、浅井の小谷城を見、信長の安土城建設を聞き、平山城の郭を固めていきます。

国人・飯尾氏の時の東海道を消してしまっているが、台地のエッジであり、次の徳川譜代大名の城下町の町の端でもあるので、道路は残っていたのだと思います。


浜松市の家康の館城は漫画ですが、この漫画の根拠を3つ示します。遺跡からは瓦の出土はなく、板葺きであるのは、家康より力を格段に持っていた朝倉邸、管領の細川邸も板葺きであるので、安土城で瓦を葺き、堀越氏が石垣の上に瓦葺きの天守をここに築くまではそうだったのでしょう。



堀尾 吉晴と堀尾 忠氏の城郭に戻ります。
浜松城には昭和33年に1400万円で作られたコンクリート造の復興天守が建っています。城戸久先生の設計です。予算がなかったからと、天守台の半分しか天守に使っていません。妙なものですが、伊賀城も予算がなく小さく木造復元しました。












吉田城、岡崎城、岐阜城、小牧城、名古屋城と城戸久先生は連作をしていますが、実測されていたのは名古屋城天守だけで、吉田城と岡崎城は明治初期の古写真からの想像であり、岐阜城、小牧城は全く根拠はありません。浜松城は岐阜城、小牧城と違い石垣はあるのですが、江戸時代の初期に天守はなくなっており、根拠はまったくありません。織田信長の安土城天主、明智光秀の福知山城天守が古図から復元された今、この天守台のいびつぐあいに、「平山城」における穴太衆の技術進化が読み取れるところなのですが、石垣の裏にはコンクリートの地下室、杭があり、石垣を破壊しているので不可能です。




1958年復興 模擬天守

入場料200円ですが、70歳以上は無料でした。トイレがあり助かりました。コンクリート基礎を作る時、井戸が発掘されました。「この天守台からだと、松江城なみの大きな天守だった。」と、三浦広島大学名誉教授らしい絵がありましたが、光秀の福知山城のように、住むために平面が広がっていた、付け櫓ではなく、台所だったのだという考えもありましょう。



2014年復元 天守門(模擬櫓門)



明治の廃城まで岡の上に残っていて、早期に天守台の建物がなくなり、この櫓門が浜松藩のシンボルだったと記録されています。発掘で、瓦、礎石、排水溝が出ており、櫓門の復元がされました。なんとも気持ちが悪いのは、屋根の形がらしくないのでした。ボリューム感を出すには、妻の傾きがいるのですがありません。本瓦も違います。








ブラリ、城下町

多くの城下町を見てきた私は、浜松市の学芸員による「堀尾氏の城下町計画」は間違っていると思います。同時に秀吉から命じられ作った岡崎城、吉田城、掛川城、駿府城はいずれも東海道を取り込んでいますので、上右の17世紀前半以降の城下町図は17世紀初頭には計画されていたと思います。

地図を片手に城下町ブラリですが、古図がなくても、城下町の見当はつきます。
その1:町名の持つ香りから。伝馬町、大工町、本町、魚町、塩町、鍛冶町、紺屋町など、他の城下町でもよくある名前です。
その2:町の境界を際立たせて、間口6mの細長い町屋が道の両側で作った町の境界を追います。もはや、木造の町屋など残っていない事のほうが都市にとって良いに決まっていますが、町屋の痕跡は宅地割りに残されています。
その3:道路の幅と曲がりぐわいから。浜松の町は名古屋・駿河のようにピシッとしていません。なんとなく長方形にして、敷地の奥行きが深いなら一本「辻子」を入れて町を小さくするなど、秀吉の京都の城下町化をまねています。ですので、浜松市の学芸員は間違えていると私は書きました。1590年代の町割りです。
浜松駅前
駅前は北側しかありません。巨大なバスロータリーが人口77万都市を示しています。京都駅前なみのおおらかさですが、平日昼間の人出はありません。
駅の東側、JRの貨物駅の跡地に、1994年第一生命と三菱地所がアクトシティを作りました。高さ212m45階建ては、30年たってもシンボルです。オフィスの上にホテルが乗る形がわかりやすいです。楽器、工業の町から文化の町にと、大中ホール、展示場、楽器博物館が付属しています。
駅の西側には、遠鉄がひかれ、明治のころから浜松の駅前として栄えてきました。再開発ビルが建てられています。




駅前から東海道を使って浜松城公園に
駅の西、鍛冶町通りを使って城に向かうのでなく、いったん広小路通りを北に国道153号線、東海道に出て、江戸時代の旅人のように、河岸段丘を登ります。地図ではわからない高低差が結構きついです。城の東南北は10mの段差がガクンとあります。








領事館前で座り込むとは、中に椅子はないのか。












