●はじめに
一泊二日で、福知山城、丹波篠山城、亀山城を見て回りましたので、街道と地勢は、3つの城下町をまとめて書いていきます。
西宮に4年住んでいましたので、高速道路が中国地方の山の中を通っているのは体感していましたが、このあたりは全く土地勘がありません。カーナビを信じて走りました。のっけに、名古屋から福知山に行くには、京都からでなく、北陸自動車道で若狭湾経由が早いとカーナビに知らされ、改めて古代・継体天皇の日本海の道筋を思い浮かべました。

この南の摂津国も、神戸、芦屋、三宮、尼崎は兵庫県になり、淀川の向こうは大阪府となる。

丹波とは、京都府のようで兵庫県でもあり、その正体は明治政府によって曖昧にされてしまいました。京が明治革命に乗じて、領地を日本海に出したく、馴染みの丹後国を手元に引き入れる為に、日本海・丹後国への道筋の丹波国は分割されてしまいました。よって、丹波福知山城は京都府福知山市にあります。
明智光秀が作った城故か、丹波の亀山(現・亀岡)とともに、福知山の城は歴史層から消されました。江戸時代の山陰道(現代の国道9号線)の宿場町を持ち、地方幹線道路の抑えとして、親藩が置かれました。
一方、丹波篠山城は兵庫県にされました。京都ー姫路の篠山街道(現在の372号線)が、古代の山陰道の丹波篠山から西に直線的に延ばされました。西国道(山陽道)は、瀬戸内海の海岸線をゆくので、より長くなります。丹波篠山城は江戸幕府の城下町として1609年に新たに作られました。


第一章 地勢
いつものように、縄文海進まで遡ると、瀬戸内海と日本海との分水嶺として丹波高原があり、篠山盆地は太古の昔、湖水であり、島状の丘陵地と盆地周辺の丘陵部には、1億年以上昔の地層である篠山層群が分布しています。市街地や集落が集中する篠山盆地には、盆地の中央部を篠山川が西流して加古川から瀬戸内海へ至るとともに、武庫川や、北の日本海へ注ぐ由良川の源流も山地にはあります。

丹波篠山は加古川の上流ですが、古代では、さらに上流で丹波高原の雨水は、福知山盆地に流れず、加古川にも流れていました。木曽川沿いの犬山城、五条川沿いの清洲城を見てきましたが、城は城下町経営とセットになると、川を中心に考え、城の位置を変えます。篠山盆地の古代の駅は小野、長柄であり、戦国時代の波多野氏の城は、山城である八上城でした。

明智光秀は一年ぶりに丹波攻めを再開し、天正5年(1577年)10月に波多野氏を攻め、籾井城を落とすのですが一時的なもので、以降は長期戦となります。八上城(丹波篠山市)を包囲し続け、丹波攻めと同時に各地への転戦を往復して繰り返しています。天正7年(1579年)2月に大攻勢をかけ、包囲を続けていた八上城がようやく落城します。八上城史跡は篠山の東3kmの山の上にあります。

第二章 篠山城の築城 ー城つくりは都市つくりー
1609年(慶長14年) – 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、次の亀山城とセットで山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名の山陰道のおさえとしたのでした。


正保の絵図に描かれた輪郭から平城だと思っていたのですが、行って見たら、固い岩盤の上に立つ平山城でした。
正保の絵図とは、江戸時代の正保元年(1644年)に、江戸幕府が諸大名に対して作成・提出を命じた全国的な国絵図、城絵図(正保城絵図)です。幕府が全国の領国支配や軍事情報の把握を目的として作成させましたので、城郭内の建造物が狩野派のタッチで描かれ、石垣の高さ、堀の幅や水深といった詳細な軍事情報に加え、城下町の町割や山川の位置が、オランダ渡りの平板測量により精密に描かれています。私の卒論は、この正保絵図による近世都市「城下町」の研究でした。
高虎は1600年の関ヶ原の戦いでは大谷吉継を相手に正面で戦闘を行い、近江時代の人脈から脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行って12万石の加増を得、伊予の今治20万石の大名となり、今治城を作ります。1608年に伊賀・伊勢に移されると、今治城を分解して丹波亀山城に運びます。伊賀上野城、津城を作りつつ、名古屋城の縄張りをし、1609年に丹波笹山城を完成させ、1610年に丹波亀山城を修築しおえます。
この間の家康築城の城、名古屋城以外に伏見城三期(1596年)膳所城(1601年)二条城(1603年)慶長の江戸城(1603年)伏見城4期(1606年)駿府城(1607年)の全ての縄張りに藤堂高虎は関わっていますので、家康から「城づくり名人」として高く技量を買われていたのでしょう。
普請総奉行は、播磨で姫路城(1601~1609建設)を作っていた池田輝政(1565~1613)が務め、15か国20の大名の助役による「天下普請」により6か月で完成させました。天守はなく、二の丸御殿を藩庁として使い、1944年まで残っていたのですが、焼けてしまい、2000年に復元しました。
家康は、外様の諸大名に「天下普請」を命じてその財力を使わせます。輝政も慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請などに駆り出されます。
名古屋城は、慶長15年(1610年)閏2月、前年の11月に征夷大将軍秀忠から指名された豊臣恩顧の大名が自ら、配下を引きつれて集まりました。石垣の担当は、加賀の前田利長、豊後の毛利高政、長門の毛利秀就、筑前の黒田長政、肥前の鍋島勝茂、肥後の加藤清正、豊前の細川忠興、安芸の福島正則、土佐の山内忠義、阿波の蜂須賀至鎮、紀伊の浅野幸長ら20余家でした。池田輝政は、沼地の本丸北側の石垣築造を担当しています。
家康は、藤堂高虎を津城(1608年)に置き、井伊直弼を彦根城(1606年)に置いて豊臣方の東側の抑えとしていたのですが、さらに、尾張清洲においた九男・義直のために名古屋城築城を思い付いたので、篠山城は半年で切り上げさせ、1610年池田等を名古屋に向かわせたのでしょう。
松平康重(1568~1640)は、家康の構想通りに大坂冬の陣では大坂まで出陣し、夏の陣では山陰道の守りについた。それらの功で1619年に摂津岸和田5万石に移封となった。
そこで城下町と領地の繁栄に力を注ぎ、1631年に幕府に願い出て石高を6万石にしてもらっている。



驚いた事に、400年まえの都市計画のままで残っていました。どこの城下町も鉄道を通して駅を作り、町の軸線は城と街道を結ぶ大手道から、駅前通りに変わってしまうのですが、福知山線は篠山盆地の西端を南北に走り、篠山には鉄道が来ていません。
篠山川も加古川の支流ですが、山間部の内陸盆地を流れる急流・浅瀬が多く、まとまった物資を運ぶ大型の川舟航路としては発達しませんでした。高虎は町の発展狙った川沿いの町でなく、平山城に適した岩山=篠山を選んで豊臣戦の為の城を作り、町の中に街道を入れ込んだのでした。

372号線・篠山街道を駄馬、大八車で運ぶのでした。河原町が街並み保存されていますが、城外に街道沿いに並んだ商家でした。江戸時代の帯状の町人地が建物を変えてそのまま町の中心地として残っています。町の中心の武家地は明治になると武士は出て行き、一度、畑・工場になり、それから宅地化し、商業地が生まれるという段階を踏むものですが、篠山は畑のままで止まっていました。

街区面積は0,4ha と、中世の大きさです。新しく作るにも、宅地の奥行きは短く、おしなべて秀吉の京都城下町化の影響が強い山陰です。
第三章 城郭
外濠、内堀の輪郭式の典型であり、すっかり平城と思ってきたら、内堀の内側は固い岩盤の上の平山城でした。3つの馬出しで入口を固めています。土塁で作られた馬出が一つそのまま残っています。この三の丸の広さは、5万石では大きすぎたのでしょう。明治の地図が残っていて宅地割りが読み取れます。


1953年(昭和28年) – 内堀が埋め立てられ、公園化が進む。1956年(昭和31年)12月28日 – 国の史跡に指定。1994年(平成6年)3月 – 篠山幼稚園と養護学校を城外へ移転させる。2000年(平成12年)4月には二の丸御殿の中心的建物だった玄関、大書院(おおしょいん)が江戸時代の平面図や昭和時代初期の実測図、外観の古写真を基に木造復元された。

三の丸に上級武士、外堀沿いに中級・下級武士、外堀南に足軽長屋、街道沿いに町や社寺が配置されている。典型的な城下町です。
天守の立たない天守台は北の大手に向いてでなく、大手からは奥、東の篠山街道、大坂に向いてあります。名古屋城天守も大手に向いてでなく、西の美濃街道、大坂に向いていましたので、豊臣包囲網として作られた高虎の縄張りを感じます。


枡形に大手門があった場所。
3の丸が広大な駐車場になっている。観光客は車でしか来れない。

地山が高くあることがわかる。藩の権威の象徴の大書院は、明治も壊されずに学校として生き残った。

堀の外に見える建物はホールと市役所。









枡形の石垣は野面積で積みなおしており、舗装もされていますが、ここの復元の思想は史跡公園なのでしょう。枡形を形成する3つの門は復元されていません。隅石は名古屋城なみの算木積みであるのに、築石が打ち込みハギでなく野面積みなのが気持ちがわるいですが、1609年竣工とあり、池田が姫路城を作った後なので、隅石の技術レベルはここまであがっていたのでしょうが、大名を20も集めての天下普請、半年で作ったので、築石はそこらから集めて来たままで野面積みとなったのでしょう。



























第四章 ブラリ、城下町
「名古屋はティピカルに忽然とできた町」というのが、内藤昌の名古屋の枕詞でした。この丹波篠山も1609年と名古屋城つくる前年であり、縄張りが同じ藤堂高虎だけに「丹波篠山はティピカルに忽然とできた町」です。街道を町の中をたすき掛けに通すのも大垣城などにある典型的な処理です。名古屋は60万石の都市として、大坂のように町人地を100m角の街区で広げたのが違うだけです。
早速、「伝統的建造物群保存地区」を目指します。まだ、城下町内ですが、妻を見せる町屋が並んでいます。










歩き疲れたので、城の駐車場に戻ろうと、西に武家地に入ると、黒岡川を渡ることに。この川は城の為に流路を変えられていますが、この川幅では荷は運べないですね。




武家地「御徒町」は、車の中から写真を撮りました。街区は200m続き、二街区、400mあります。藁ぶきの下級武家屋敷です。各屋敷の間口は八間と決められています。1830年の火災ですべて燃えた後、建てられたものでした。



西側が下級武士で、北側が中級、東側が上級、足軽は南側の黒岡川沿い。正保の絵図では、排水の背割り側溝が見える。


