●はじめに
一泊二日で、福知山城→丹波篠山城→亀山城を見て回りました。西宮に4年住んでいましたので、高速道路が中国地方の山の中を通っているのは体感していましたが、このあたりは全く土地勘がありません。カーナビを信じて走りました。のっけに、名古屋から福知山に行くには、京都からでなく、北陸自動車道で若狭湾経由が早いとカーナビに知らされ、改めて古代・継体天皇の日本海の道筋を思い浮かべました。


福地山から京都には、古道・山陰道ですと、亀岡盆地を抜け、丹波の国から「老ノ坂峠」を超えて山城の国に入ります。現在も国道9号線が山陰道をなぞり、峠の道を通っています。
カーナビは、2015年に完通した「京都縦貫道」を案内しますが、私は名古屋から京都に行くルートでは、大津から「逢瀬の関」を国道一号線で登り、山科盆地を経て京都に入る古道(東海道、中山道、北陸道)になじんでおり、今回は京都の西側はどうなのかを見るのが目的ですので、カーナビを無視して、午前中に丹波篠山城を見てから亀山城に入りました。もっとも、京都の西の守り神「松尾神社」を日暮れ前にみたくて、峠越えだけは「京都縦貫道」のトンネル800mを使ってしまいました。

丹波とは、京都府のようで兵庫県でもあり、その正体は明治政府によって曖昧にされてしまいました。京が明治革命に乗じて、領地を日本海に出したく、馴染みの丹後国を手元に引き入れる為に、日本海・丹後国への道筋の丹波国は分割されてしまいました。よって、丹波福知山城は京都府福知山市にあり、丹波亀山城は京都府亀岡市にあります。

この南の摂津国も、神戸、芦屋、三宮、尼崎は兵庫県になり、淀川の向こうは大阪府となる。

第一章 地勢、京都盆地から周りを眺めます。
いつものように、縄文海進まで遡ると、瀬戸内海と日本海との分水嶺として丹波高原があり、篠山盆地は太古の昔、湖水であり、島状の丘陵地と盆地周辺の丘陵部には、1億年以上昔の地層である篠山層群が分布しています。市街地や集落が集中する篠山盆地には、盆地の中央部を篠山川が西流して加古川から瀬戸内海へ至るとともに、武庫川や、北の日本海へ注ぐ由良川の源流も山地にはあります。


山背の国を山城の国と名を変えて、都を京都盆地に置き、800年間、日本で都市と言えば京都しかなく、全国の道が首都の京都に集まっていました。


秀吉が京都を土居で囲み、聚楽第を中心とする城下町化を図りました。家康も新たに二条城を作り、お土居を京都の境界として、明治を迎えます。京都への入口は、「七つ口」と呼ばれましたが、実際は九つあります。

亀山城があるのが亀岡市と、スッキリしないですが、江戸時代は丹波亀山、伊勢亀山がそれぞれ藩としてあって城を持ち、宿場町として栄えていたのでした。明治2年の版籍奉還の時に、亀岡藩と名を変え、明治四年の廃藩置県によって亀岡県になり、すぐに京都府に編入されます。
名護屋も二つありました。唐津藩名護屋は佐幕派でしたが、肥後藩と共に佐賀県になりましたので、薩長土肥の肥後の出身者(大隈重信、後藤新平)が唐津名護屋をそのままにし、尾張名護屋を名古屋に変えさせています。伊勢と丹波の間でも同じような事があったのでしょう。
第二章 築城、光秀が都市を作り高虎が城郭を固めた。
古代・山陰道の駅家は、老ノ坂を下りてすぐの大枝駅(亀岡市篠町王子)でした。言い方を変えれば、山登りする直前です。亀山盆地は、古くから丹波の政治・経済・文化の中心地で、亀岡市千代川町に国府があり、南丹市八木町屋賀に移ったとも言われていますが、戦国時代になると、丹波守護代などを務めた有力国人・内藤氏は、荒塚山(あらつかやま)という名の丘に館城を構えていました。

1575年(天正3)年6月、信長から丹波国・丹後国の平定を命じられます。これより先、1573年光秀も入った織田勢は槇島にいた義昭を攻撃し降伏させ、追放して室町幕府は事実上滅亡します。
この後、光秀は天主を持つ坂本城に(兼見卿記)入ります。信長が安土城築城を決意したころであり、安土城の天主への信長の移徒は1579年(天正7年)5月ですので、安土城より6年早く天主を作り、比叡山焼き打ち1571年の後に佐和山城から近江国滋賀郡5万石に封じられたので、2年もかからずに城が出来ていた事になります。ルイス・フロイスは「邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と「日本史」に書いています。1571年(元亀2年)信長が足利義昭の為に特急で作った二条城「天主」のデザインを光秀は取り入れたのでしょうか。
1575年(天正3)年7月に入ると、まず光秀は丹波国人小畠・川勝の協力を得て桑田郡宇津荘の宇津頼重攻めを始めるのですが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦します。
一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して、帰還した赤井直正の黒井城を包囲するのですが、天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走します。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが信長から離反したとみられます。
天正4年(1576年)4月、光秀は石山本願寺との天王寺の戦いに参戦。11月7日正室の煕子が坂本城で病死。余部城(応仁の乱からの城、亀山の西1km)を丹波攻略の本拠にしていたのですが、新たに亀山の荒塚山の館城を改造し、丹波の根城を築くことを決めて、天正5年(1577年)1月より準備を進めます。天正5年(1577年)の1月晦日付の光秀の書状に亀山に惣堀の普請を国衆の長沢又五郎らに命じたことが記されています。城の周辺に近隣の9カ村の人たちを移住させ、城下町を整備します。
天正7(1579)年10月24日に丹波を平定し信長に報告します。その翌年に丹波国を拝領した光秀は、信長から「丹波国、日向上働き、天下の面目をほどこし候」と讃えられました。さらに、商人を呼び寄せて本格的な城下町の形成や発展に着手しますが、平定の3年後、天正10(1582)年6月2日に「本能寺の変」が起こります。都合、5年間の都市建設で光秀はどこまでできたかですが、福知山城は、天正7年10月から天正10年6月までの3年で築城なしえた事からも、城郭は完成していたことでしょう。
亀山城は正保の絵図があります。どこまで光秀が行ったか?街区は細長く折れており、町の出入り口の整理できていない屈折状況からみて、1588年完成の松阪城と同様ですので、惣堀と合わせて光秀だと思われます。内堀、外堀の区別がなく堀の縁が曲線なのも、地山の形状に合わせた状態がみられ、土木の力がない古式を伺わせます。帯曲輪、三の丸、二の丸の石垣、屋敷は江戸時代に新たに追加、修築しているのが、城下町の通例です。



次に、明治4年の写真があります。これが光秀が作ったのがそのまま明治まで残ったとなると、寛永16年(1639年)からの加藤明成の改修による会津若松城のごとき、層塔式五層でかつ破風のない姿に、さらに最上階には回廊が回る姿に疑問が生じます。しかし、正保の絵図にも五層の天守は描かれていますので、その頃にはあったのでしょう。

層塔式のプロポーションは、寛永の城の特徴である。光秀、高虎の天守ではない。



古い天守は外壁が板で黒い。
大入母屋の影を残す千鳥破風。
派手な唐破風。逓減率が一定でない。
会津若松城となると、一定となるので、写真に残る亀山城天守は、秀忠の大坂城1629年以降の城と見える。
じゃぁ、だれがこの五層の天守を作ったかですが、まず、信長が安土城を作ったとほぼ同時に、配下の武将・光秀が五層の天守を作った事はありえません。
五層の天守で残っているのは、秀吉配下になった石川和正親子が1594年頃に作った松本城ですが、秀吉が五層の大阪城を作ったあとには、地方の大名がこぞって作っているのでありうります。
秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)の一族が入り、1595年には豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以が亀山城に入っています。1586年(天正14年)に浅野長政が、五層の大津城天守を豊臣秀吉の命により作っていますので、前田親子が五層の天守を作ったことは十分にあり得ます。
家康は、豊臣包囲網の一貫で、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年 – 1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じ、城を大修築しました。丹波篠山に続き、藤堂高虎が縄張りを勤め、「天下普請」により幕府が西国大名に命じ、慶長15年(1610年)夏ごろに完成しています。高虎は今治城を作るつもりの木材を亀山城に回したと『寛政重修諸家譜』にあります。
とにかく、正保絵図のように本丸には五層の天守が立ち上っていたのはそうなのでしょうが、高虎の姫路城、名古屋城のころに、この五層の層塔式デザインはありえません。
そうなると、江戸初期の以下の大名が候補になりますが、いずれも譜代大名ですので、五万石には不釣り合いな五層天守です。それ以前に高虎(もしくは豊臣)の五層の天守があったのですが、地震により石垣が崩れ、それによって天守も傾き(名古屋城天守も傾きました)、その修築をするに、江戸表をおもんばかってより簡素な姿とした、というのが私の想像するところです。
岡部(おかべ)家1609〜1621年譜代。岡部長盛。高虎の縄張り後に初代藩主となる。
松平(まつだいら)大給家 1621〜1634年譜代。松平成重、松平忠昭。家康のいとこ筋。
菅沼(すがぬま)家1634〜1647年譜代。菅沼定芳、菅沼定昭。徳川初期を支えた三河以来の重臣。 まででしょう。
江戸時代の殿様は21代変わっています。
松平(まつだいら)大給家 1648〜1685年譜代。老中を輩出する名門。
久世(くぜ)家1686〜1697年譜代。幕府の要職(老中)を多数出す家系。
井上(いのうえ)家1697〜1748年譜代。こちらも老中を出す有力家系。
青山(あおやま)家1748〜1749年譜代。わずか1年ほどで転封。
形原松平(かたはらまつだいら)家1748〜1871年親藩・譜代。家康の同族。最後の藩主まで定着。
第三章 破城、大本教が買い取り整備し、今も本部としている。
1877年(明治10年) 政府が廃城処分を決定し、天守、小天守は壊され民間に払い下げられる。
1919年(大正8年) 11月18日、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎(亀岡出身)が管理されず荒廃していた本城を購入、従来の根拠地綾部に並ぶ拠点にすべく整備を開始した。大本側の名称は“天恩郷。
1935年(昭和10年) 大日本帝国政府は王仁三郎に対する警戒を強め、治安維持法違反を理由に、第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えた。そして拘束されていた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させる。破壊は清水組により実施され、1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで続いた。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた。亀岡市は空襲されず、城はそれ以上の破壊を免れた。日本の敗北後、連合国軍占領期に本城の所有権は再び大本に渡った。そのまま大本の聖地として現在に至る。
以上、ウイキからの抜粋です。凄まじい弾圧がされたのですが、訪れると、庭として日々奇麗に整備されており、新たな宗教施設と合わせて過去の弾圧は見えません。ただし、城跡となると、南側の堀が埋められて本部の大きな建物となっており、残された北側の堀と天守台の石垣にしか想像できるものはありません。























第四章 城下町
お城の駐車場を探して、小山の周りを二周しました。城下町を歩くことはなく車の中からだけですが、なんとも曲がりくねった道から、城下町らしさを感じました。駐車場は大本教の駐車場を使い、300円の入場券を買うのでした。



おまけ 松尾神社は京都の西の神様としてある。
京都は、平安京を計画したのですが、早々に右京(西)は放棄され、左京中心となり中世では室町通りを中心として、左右でなく上下の京となり、鴨川を超えて東山に伸びて行きました。


松尾神社は、四条通りの祇園社の対面、西端あることで知られていますが、神様の対照的で、松尾神社は農業、酒の神様、大山咋神(おおやまぐいのかみ)であり、祇園社は疫病、悪霊退散の都会の神様、牛頭天王(ごずてんのう)です。
京都には、氏神マップというのがあります。神社が町内会を通じて封筒に奉賛金を入れさせるのです。ここに古代から現代までの京都の都市姿が重なって見えます。

・千本通(朱雀大路)が長年の境界線
歴史的には、千本通より西側(右京区・西京区・中京区の西側など)の広大なエリアに、松尾大社の集金用封筒が回ります。
・二条通・烏丸通・松原通で囲まれた四角形が祇園社
封筒が回る中心地は、田の字地区(中心街)の東側(烏丸通〜鴨川)と、祇園祭の山鉾が建つ中京・下京の特定の学区です。
・下鴨神社(および上賀茂神社)の賀茂社の縄張りは、「丸太町通」を南端としてそこから北へ向かって垂直にそびえ立つ巨大な縦長のエリアです。
平安京を作ったのは桓武天皇ですが、平安京の前に平城京から移ったのは長岡京でした。母親である高野新笠(たかの の にいがさ)は、百済の武寧王の後裔とされる渡来系(帰化人)の出身です。渡来人の秦氏が京都盆地に入って、湿地帯をその土木技術でもって開拓し、絹織物で富を得ていました。その中心は右京区太秦(うずまさ)嵯峨野を中心とし、嵐山、松尾まで広がっており、松尾に酒の神様を祀ったとされています。もう一つの拠点は、 京都盆地の南東部に位置する深草です。「伏見稲荷大社」は秦公伊呂具(はたのきみのいろぐ)が創建したとされています。


京都には、なんども行っていたのですが、西北の嵯峨野から天龍寺、嵐山と、西南の桂離宮から待庵、苔寺は行っても、四条通り西端の松尾神社はその前を通り過ぎていました。
















室町時代の社は重要文化財ですが檜皮葺きの屋根の先しか見られません。八坂神社、下賀茂神社、北野天満宮と比べると、集金範囲は広いですが、中世から酒では金額はあつまってないようです。近年の外人さんには伏見稲荷が大人気だそうですが、神社は寺と違い入場料を取らないので苦しいですわね。



おまけのおまけ 石清水八幡宮は京都の南に呼ばれた神様。
カーナビ付きの車ですので折角だからと、ロープウエイを使わずに住宅地の間を縫って登りました。京都盆地全体を南から眺められる男山に、九州から招致された石清水八幡宮寺です。鎌倉にも招致されている武家の信奉熱い神様です。


































