私は、近くにある城は見つくしたつもりでしたが、女城主・岩村城をアップしていませんでしたので、あらためて2026年2月に見てきました。三河の田原城一万石と同様に小さく、2万石の山城であり、田原城と同様に私の半世紀前の城下町研究のデータ取集の対象ではありませんでした。

●はじめに の1
岩村城は岐阜県恵那市岩村町にあります。標高717mに位置する日本最高所の山城で、奈良の「高取城」、岡山の「備中松山城」と並ぶ日本三大山城の一つと言われています。霧のかかる事から別名「霧ケ城」とも呼ばれ、高低差300mの地形に今も残る石垣が特徴です。
城下町は山城から岩村川沿いに開かれ、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。恵那から南に明智・大正村に繋がる明智線25kmの途中にあり、あえての「鉄道による観光」でも人を集めています。
美濃の山の中を東西によぎる日本のメイン街道、古くは東山道そして江戸期時代になると中山道ですが、共に木曽川沿いの恵那・中津川を経由していましたが、ここ岩村はその10km南にありメイン街道に面していませんでした。国争いの戦闘がない限り、産業で際立つ盆地でもありませんでした。
私は「安土城の復元」の記述を進めるうちに、岩村城が「山城」の代表と言われている事に疑問を持ちました。確かに、中世岩村城は信長の金華山の「山城」と同様に、山頂に至る尾根の上に順に造成した「逃げ城」であったのですが、今に残る石垣を見ていて、江戸時代になり封建制度下の二万石の城下町として、「山城」から安土城と同様な「平山城」に変貌したのではないか、石垣にその結果が示されているのではないか、です。
備中松山城は小さくても天守と言われる建屋が残されていますが、石垣しか残されていない岩村城で、はたして「平山城」と「城下町」の姿がハッキリつかめるか。城下町はともかく、すくなくとも従来から言われている「山城」を「平山城」として見直せようか。その鍵は「石積み」にあろうかと、20年ぶりの石垣撮影を行いました。今まで私が撮り貯めた石垣の写真もならべますので、石垣を見比べながら、私の「岩村城は山城でなく平山城」論にお付き合い下さい。
●はじめに の2
内藤昌先生は、比肩110mの安土山(標高199m)のテッペンに高さ40mの天主が建つ安土城を復元され「平山城」として説明されていますが、もう一つ、内藤昌先生が復元した「平山城」に「飛騨高山城」があります。このブログでは岩村城に続けて高山城を取り上げ、「平山城」がどのようなものかを「山城」と比較して見てみます。
1585年の織豊期の岩村城本丸は、以下の高山城本丸のような姿ではなかったでしょうか。安土の平山城と城下町を頭の端に置きつつ、岩村城から高山城へ「山城」「平山城」を繋げます。
なお、城の分類の残りは「平城」です。大坂城、名古屋城のように、大きな城下町を抱いて平野に建つ城です。川に堀を繋げ、石垣を立てて「曲輪」を多重に組む事で城の防御をはかります。


しかし、ネットを徘徊しているとそれらしい高山城外観図が転がっているのですが、内藤昌復元とは言われていません。どうしてでしょうか?
滋賀県知事は「安土城の復元が行われてきたが、決定案はない。」と言い、内藤復元案を否定し、三浦・中村案で観光VRを作成しましたが、内藤復元案は著作権で縛られているので、客寄せに簡単に使えない事が内藤復元案を否定したのだと思っています。同じように、高山城の内藤復元案も内藤先生は著作権で縛ったので、「モドキ内藤復元案」が市場に出まわったのでしょうか。
私の敬愛する京大・山村亜紀先生が2021年「飛騨の町」をネット動画で発表していますが、内藤昌復元の高山城を中心に示しての「城下町:武士による都市計画」が示されていないのでした。山村先生の「飛騨の町の構造」も、突然消えた城・武家屋敷250戸余によって、100年続いた城下町が大混乱に陥り、その後、町人の工夫で在郷町として復活した高山の町の構造が語られておらず、私はしっくりしません。
金森長近の「城下町 高山」は、1586年の入国から亡くなる1609年の23年の間に作られたのであり、6代目金森頼旹の時、1692年に、城が破却(改易)されてから、現在観光客が集まる平地の陣屋が町の中心となったのでした。古地図を広げてみます。
岩村
街道と川の流れ
地勢は、川の流れから始め、弥生時代の水田跡、古墳群を追い、律令制度による「道」「国」「郡」の小さくなる領域を順に押さえ、国の「国府」から「守護所」「城下町」と、歴史的都市をピックアップするのが、このブログ「城下町」シリーズの定法でしたが、山間の岩村故に今回は飛ばします。
恵那の歴史を見ると、岩村から恵那、その北の木曽谷は、三河国加茂郡、美濃国加茂郡、美濃国恵那郡(遠山氏、織田信長)、信濃木曽郡(木曽の義仲、武田信玄)と、国名が変わっています。山間にある貴重な盆地を取り合う戦闘によって、支配者がかわり、国名もかわったのでした。
天正の大洪水の後、1592年から3年をかけて秀吉は堤防を作ります。(文禄の治水)木曽川の流れが確立し、「木曽川」「木曽桧」が都に知られます。東山道の伊那盆地から、中山道の木曽谷への街道の変化も山間の都市には大きなことでした。


中津川から中央アルプスの神坂峠を越えて飯田盆地に出るのが、古代からの東山道です。古墳も多くあります。
現代の中央高速道路は恵那山トンネルで一気に山を抜けて飯田盆地に出ます。
庄内川流域は、水上の夕立山で閉じています。その東の岩村を流れる岩村川は阿木川と合流し、阿木川ダム湖を経て、恵那で木曽川に入っていますので、岩村は木曽川の支流域になりますが、名護屋には花白温泉から山越えして庄内川沿いに瑞浪、多治見と繋がります。
岩村駅前で天丼を食べたのですが、ついてきた味噌汁は八丁味噌でした。信州の白味噌ではありません。八丁味噌に尾張国名護屋よりも山向こうの三河国加茂郡を強く感じました。江戸時代は、豊田市の大給を領した大給松平家が、ここ岩村もおさめたからでしょうか。


誰が城作ったのか?を、歴史からひもとく。
御多分にもれず、江戸時代に入ってからは「一国一城の令」もあり、幕府への修理届も残されているのですが、織豊期の城の記録は残されていなく、他の城と同様に遺跡から追うしか手はありません。
関ヶ原の戦いの後1601年に、山の上の館城から麓の屋敷に殿様の住まいと行政府は移されており、山上の館城は城郭としては使われていなく、城下町から見上げる飾り(三階櫓)でしかなかったのでした。織豊期の山城の記録、記憶は残されていません。
建屋は明治の廃城令により取り壊され、石垣が残るののみなのですが、有名な「六段石垣」が示すように何度も石垣は崩れ、積みなおされており、江戸中期以降の新しい石垣に代わっていて、織豊期の城郭の縄張りはわかりません。
私は今回岩村城の山上に立ち、「高山の館城」の像を想い浮かべました。
安土城が平山城なら、岩村城も高山城も平山城でしょう。それ故、内藤昌復元「高山城」をこのブログに繋げます。

女城主・おつやの方(~1575)
戦国時代から始めます。岩村城は、鎌倉幕府の御家人加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまで城主でした。『太平記』の1337年越前金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名があります。
・当初は平坦部に築かれた館城でしたが、美濃・織田氏と信州・武田氏間の抗争が激しくなった戦国時代末に、遠山氏が山城も築いたのでしょう。
・1570年 甲斐国の武田氏の家臣で、信濃伊那郡代であった秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻し、上村(恵那市)での戦いに勝利しさらに西進してきましたが、織田方の武将明智光廉(三宅長閑斎)が小田子村(恵那市)でこれを撃退しました(上村合戦)。
・1572年8月(1571年12月とも)、遠山氏最後の城主は遠山景任でしたが、景任が病没すると、信長は織田信広・河尻秀隆らを派遣して岩村城を占拠し、信長5男の御坊丸(勝長)を岩村遠山氏の養子とします。信長は、1568年北伊勢の神戸に勝って3男信孝を養子に送り込み、1569年伊勢との和睦条件に2男信雄を北畠具房の養子としていますので、遠山氏の力をそぎ領土拡大をもくろんだのでした。勝長の後見に、信長の叔母にあたる女性(通称おつやの方)が城に入り、幼少の養子に代わって女城主として差配を振るったと三河物語にあります。
・1572年10月 信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び伊那盆地の虎繁に岩村城の攻略を命じます。信長は諸戦で助けに来ることができず、おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏します。
・1573年2月末に虎繁はおつやの方を妻に迎えると、信長は1万人(ホントカナ?)の兵を連れて岩村城周辺に布陣します。信長は戦う(岩村城の戦い)も勝てず、岐阜に退却すると、信玄は岩村城内の土岐・織田派を仕置きします。
・1575年5月の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を狙います。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落します。開城の際、虎繁の助命が約されていたのですが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されます。
古い町並みの中にある造り酒屋「岩村酒造」では「女城主」という名の日本酒を築城800年祭の1985年に売り出し、町の観光地化に尽力します。江戸時代に建造の主屋から奥の酒蔵までは150mのトロッコレールが残り、中庭には400年前の天正疎水が流れています。1998年(平成10年)4月、国の「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に選定されました。
河尻秀隆(1527~1582)の天正疎水
織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行います。城下町形成のため岩村川から水を引いて天正疎水と呼ばれる4本の用水路を設置しました。この用水は400年以上たった現在でも城下の家々の下を流れ生活用水として大きな役割を果たしており、秀隆によって岩村町の基礎が築かれたとされます。
1576年正月、信長は42歳で家督を長男信忠に譲り、安土山に移り安土城を建設します。
1579年5月天主に移徒。1581年正月安土城下に馬場を築き城下町の恰好がつきました。
1582年織田氏による甲州征伐が行われました。武田氏が天目山の戦いで滅亡するまで 信長は信濃へ足を踏み入れることをせず岩村城に滞在して戦果の報告を受けていました。武田氏が滅亡後は、河尻秀隆が甲斐国に移封となり、団忠正の居城となります。3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収します。
各務 元正(1542~1600)
1585年小牧長久手の戦いで森長可は討たれ、後は弟・森忠政が美濃・金山城と共に引き継ぎます。この時、岩村城城代となっていたのが、森氏家老、各務元正でした。小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が攻め寄せるも、元正は退けます。
元正は岩村付近の支配を一任され岩村城の改修、岩村城下の整備、領内の検地奉行などを務め岩村の領国化に尽力しました。また、忠政不在時の留守居役や来客の際の饗応役などの仕事が増え、戦の際には林為忠や伴一族が出陣をし、元正は基本的に国元の抑えとして残り領国の政務を執るという場合が多く、晩年は内政官としての色合いが強くなっていきました。
秀吉は、蒲生氏郷32歳に1588年に松坂城をつくらせ、家康を関東に追いやると、1590年の城割りで、岡崎城(田中吉政)、吉田城(池田輝政)、浜松城(堀尾吉晴)、掛川城(山之内一豊)、駿府城(中村一氏)と、家康が支配していた東海道沿いに豊臣政権の与力大名を置き、松本城(石川和正)と合わせて、関東にいる家康をけん制します。石川貞清は、小田原攻めの後1590年に信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官を務め、1595年に尾張犬山城1万2千石を与えられました。
各務元正は信長の家臣の森家の家老でした。美濃金山城の森長可は、小牧長久手の戦いで、犬山城・大垣城の池田恒興・元助親子と共に秀吉方につき戦死します。よって、その後の各務元正は秀吉方として、秀吉の1590年城割方針に準じ、美濃にある森家の城固めに励むことになったのでしょう。
1599年(慶長4年)豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、岩村城は田丸主水が城代となっていたのですが、遠山利景・遠山友政・小里光親らに攻められて田丸主水は城を明け渡します。(東濃の戦い)
親藩 大給松平家の支配
1601年 家康の城割により松平家乗が岩村城主となり、1603年岩村藩が立藩しました。家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備します。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称しました。松平乗寿が藩主を継ぎましたが、大坂の陣で戦功を挙げたことを賞され、1638年4月に遠州浜松藩へ移封されます。
1645年大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が岩村に入城します。
1702年 お家騒動を起こし丹羽氏は越後国高柳藩に転封となり、同年に信濃小諸城よりまた大給松平家の松平乗紀が入城しました。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けます。以後、岩村城は明治維新まで大給松平氏の居城となりました。大給松平家は奏者番、寺社奉行、大坂城代など幕府の要職をしめ、ここ岩村以外に、館林藩、唐津藩、鳥羽藩、亀山藩、淀藩、佐倉藩、山形藩と転封し、最後に三河の西尾藩で明治を迎えます。
幕末に田原藩の家老・渡辺崋山が世に出、蟄居し、自刃しますが、その師匠は岩村藩家老の佐藤氏の次男、佐藤一斎(1771~1859) でした。親藩の家老は江戸で生まれ江戸で活躍します。参勤交代は1635年の武家諸法度で整備され、大名は江戸と国元で1年ごとに生活したのですが、領地には別に国家老がおかれ、江戸詰め家老には、領地に生活基盤はありませんでした。


彼は幕末を代表する儒学者で、渡辺崋山も門人のひとり。本図は、50歳の一斎を描いたもの。一斎の女婿、河田迪斎家に伝来した。後年、崋山の弟子椿椿山も、一斎70歳の誕生日に招かれて夫人とともに端座する夫妻像を描いている。
正保絵図 他の絵図



岩村の正保絵図は残されています。内藤研では、当然復元をしていますが、明らかにこの山城、城下町は他の正保絵図の様に実測されておらず、田原どうように復元に苦労しています。研究対象としてはRすなわちRefereceとして、データには含めていません。近世に突如現れた城下町の研究でしたので、外した方が良いとの積極的な選択でした。
享保絵図
この絵図は、享保3年(1718)12月17日城主松平能登守乗賢が、岩村城石垣修理の許可申請を幕府に提出したとき添付したものであり、石垣の破損箇所を一々朱引きして細かく書かれています。大きさは縦2.12m、横1.82m。親藩であるが故に、申請にはより几帳面だったのかもしれません。これ以外に、江戸時代を通じての石垣修復の記録は多く残されてあり、それから、織豊期の石垣は残されていない事がわかります。
使われていない城郭でしたが、大手門の三階櫓は城下から見上げる軸線にありました。正保絵図では書かれていない、門、櫓が描かれているので、この絵を元にして、観光案内のパンフが作れられ、案内がされていますが、これを基に「山城だ。」とは大間違いです。麓に屋敷を降ろしてしまいましたが、安土城、松阪城とおなじ「平山城」の縄張りになっています。

現地を歩くと、この絵図のような大きな石垣はありません。

明和絵図
この平面図は明和3年(1766)岩村藩士磯貝正貞が、門人と共に城内全部を測量して作ったものです。「以三分為一間、以一尺八寸為一町」の註書があります。大きさは横364cm、縦182cm。石垣の高さを平面図に絵にして示すので珍妙なものになっています。

城郭


山麓にあった藩主屋敷跡が観光駐車場になっていました。正面には、太鼓楼と全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)の模擬建築が置かれ、その奥に小さな岩村歴史資料館があります。その史料から「山城」「平山城」を探ってみます。

山城
この城の攻防戦は「上村合戦」1970年から、織田信長と武田信玄・勝頼との間で始まり、信長の叔母「女城主」の逸話が生まれました。1972年~75年「岩村城の戦い」が行われます。73年2月に信長自身が1万の兵で城を囲みますが、義昭が京で兵をあげるので戻らざるをえなく、この年は引き続き北陸を進軍し、8月に一条谷の朝倉を滅ぼし、秀吉が3年かけて落とせなかった浅井の小谷城が、朝倉の援軍がなくなりついに落ちました。75年3月に勝頼が三河足助に出てきたので、長男の織田信忠が岐阜城から出陣します。5月の長篠の戦いで勝頼が敗走したあと、6月信忠は岩村城を囲み5ヶ月兵糧攻めを行い、ようやく岩村城は落ちます。1576年正月、信長は42歳で家督を長男信忠に譲り、安土山に移り安土城を建設します。
以上の戦国話の中に、「山城」から「平山城」への進化があります。山城は、開けた土地にある「館城」を攻め取られた時、山頂に逃げ込み、援軍を待つ「要害」「逃げ城」でした。岐阜城と一条谷城です。配下が3百から多くても千程度の「女城主」が采配した岩村城もこのような「館城」と「逃げ城」だと思います。一条谷山城には千畳敷(1,000㎡)があり、金華山300m頂上には信長親子が宣教師を食事でもてなした館がありましたが、岩村城はどうなのでしょうか。岐阜金華山と一条谷の図を岩村城より先に以下に入れます。



城下町は川沿いの谷にあり、町の両端には巨石を積んだ虎口がつくられています。石垣で造成された高台に館城、寺が作られています。
ここから、山城には1時間かかります。山城への道は4本あり、正面から攻められても搦手から後ろに回れるようになっています。

岩村歴史資料館には、岩村城の模型があります。模型を見やすく、わかりやすくするために高さ方向の縮尺を変えており、石垣の高さもずいぶん強調されています。これでは登ろうという気が起きませんが、20年前の私は1時間で登って降りています。金華山、一条谷山城と比べ勾配が緩いので、「山城」から「平山城」に進化させられたのでしょう。



鳥観図が観光案内にありますが、この鳥瞰図ですとまた道が長すぎます。真上からの等高線図と並べます。「山城」ならば、金華山、一条谷山城と同様に、山麓の守りである一の門、追手門はなく、山頂にある本丸と二の丸の造成地だけだったかと思います。


一の門 造成され、今は実践女子学園を創立した下田歌子(1854~1936)の碑が置かれています。
追手門 三重櫓を先端に造成され、八幡曲輪が東に一段高くあります。
本丸、二の丸 それに東曲輪、南曲輪、出丸が一団となってあります。平山城の梯郭式ならば、本丸は二の丸の内にありますが、安土城と同様に、雛段造成をしただけであり、二の丸は閉じていません。
平山城
現在の岩村城跡は世に言われている「山城」ではありません。戦国大名では、今見る姿の石垣を積みあげる財力、知力を持っていません。1601年、徳川幕府の松平家になってからの城郭だと現地に立って思いました。石積みの姿(築石の形・大きさ、算木積の精度、打ち込みハギと間詰石、切り込みハギ)から、慶長以後の石垣であり、さらに記録にあるように江戸中期、後期に積みなおしが何度も行われており、間知ブロックによる昭和の積みなおしも見られます。
麓に藩主邸をつくり、藩の運営はそこでされたので、城郭は「親藩大給松平家の威厳」の為に維持されたのだと思います。
備中松山城の建屋と同様に、建屋は修繕される事なく捨て置かれており、明治6年(1873年)廃城令により、城は解体され石垣のみとなり、明治14年(1881年)残されていた藩主邸も全焼しました。

下図は、「平山城」信長の安土城に先行する「浅井の小谷城」の造成姿です。絵に建屋が描かれていますが、実際はわかりません。造成の為に、近くの観音寺山城と同様に石垣も組まれています。
秀吉が落とすのに3年かかっていますので、単なる短期の「逃げ城」でなく、長期の「要塞」として作らており浅井親子も住んでいました。信長はこれを参考にし、安土山に石垣を積んで、自らの権威を示す王宮を作ろうとしたのでした。「要害」に対して「根小屋」とも言った「館(屋形)」を、小高い山の上に持ち上げ「平山城」としたのです。


朝倉氏の小谷城は標高495mですが、比肩高さは300mです。ここ岩村城は標高770mですが、比肩高さは400mです。標高330mの金華山の比肩高さも280mですが、勾配がきつくて「平山城」にはなりません。





岩村城の石垣は修理を重ねてあり、新しい。

左曲輪にのぼり、斜路で本丸に入るので、これは閾になるでしょう。







4~5mの高さで回したのですが、この北側だけは10mになっています。6段にしたので、勾配も45度と下がりました。これでは守りの石垣にはなりません。







安土城の本丸です。
伝・二の丸、伝・三の丸と書かれていますが、枡形の黒鉄門の中に全て入っています。
伝・三の丸、伝・二の丸、本丸は郭として独立していません。よって梯郭式、連郭式城郭とは言えません。
「山城」を尾根伝いに造成した小谷城と造成の形は似ていますが、信長は高石垣と門・枡形で大きな曲輪を作り、高さ40mの「安土城天主」をその山のテッペンに載せました。
この姿は、秀吉・家康他の戦国大名を圧倒し、彼らに真似をさせる事になりました。
「お城の始まりは安土城から」は「お城」は「天主」からなのです。
天守台を最高レベルとして、伝二の丸、御幸御殿丸、伝三の丸が本丸の中にあり、北に低く台所丸に降りてからもう一つの枡形に出て、北の出丸に降りてます。
守り重視に閉じこもる「山城」から、城下町を従える権力者の魅せる館城「平山城」に変化したのでした。さらに「平城」へと都市化が進みます。

岩村 城下町
さてさて、城下町を歩くのですが、「伝統的建造物群保存地区」と指定された街並みは、東海道宿場町でもあった亀山城下町より、宿場町関宿に近いのでした。お城が城下町から遠く、その城下町はメインの街道を江戸時代より引き入れていません。という事は、城下町は今の自動車による国道からも離れています。




明智鉄道とセットで岩村町を売ろうとするパンフはいく種もありますが、ランチ店を探すにも「いっぱい。一時間後に来て。」でした。2月では人出がないのでしょう、店は開いていません。


下町枡形までが江戸時代からの城下町であり、そこから明智鉄道岩村駅までは、明治になって鉄道がひかれてから作られた町です。












武家地を回るも、寺があるだけで、通りは車の為に広く敷地は擁壁で段々になっており、江戸時代の残影は見えません。唯一、鉄砲鍛冶の家を見ました。




内藤昌が復元した「高山城」
先日、岐阜9時発の高山線特急ひだを使い富山に向かったのですが、11時に高山駅に着くと、ホームはリュックを担いだ白人であふれていたのでした。立って富山駅まで1時間半です。話を聞くと、その後北陸新幹線で東京に戻るか、古都金沢、京都と関西に向かうのだそうで、雪の白川郷も大人気でした。団体バスを使い、犬山城を訪ねてから白川に向かうのだそうです。


冬の豪雪に耐え、蚕を飼うための大屋根が日本海に流れる庄川の谷に沿ってある姿は確かに圧巻です。
開発に取り残された町の古い建物群が古色に整備され、観光ネタに復活させる、これは中山道の馬籠・妻籠から始まりました。
白川郷の合掌造り、伊勢の妻入り、農家の田の字プランなどの「民家」については、城戸久「城と民家」毎日新聞社昭和47年刊 をどうぞ。もちろん、名古屋城、犬山城も書かれています。私の師匠の師匠、城戸先生の退職前は、建築・街並みの保存運動が学会をあげて盛り上がっており、私も薫陶を受けました。内藤先生は下戸でしたが、城戸先生は大変お酒がお好きでした。

高山市三町伝統的建造物群保存地区 天保 3 年(1832)に起こった大火でほとんどが焼失した高山の町です。 1979年に、江戸末・明治期の町屋が色濃く残る「上三之町」「上一之町」「上二之町」を中心とした「高山市三町」が保存地区に指定され、大人気になりましたので、1997年には、その南側に続く「下二之町」エリアが追加指定されました。地区の面積は約4.4haで、南北通りは約420m、東西の幅は約150m。伝統的な建造物が172棟あります。
壊すしかないようなボロ屋が、床を剥いで土間にして商品を並べ、天井を払って曲がった梁を見せ、格子などの新しい材料も古色仕上げをして、蘇っていく様を私は間近でみてきていますので、多少のオーバーツーリズムには目をつぶって、犬山と同様に応援しています。


金森 長近(1524~1608)
長近は18歳になると近江国野洲郡金森を離れ、尾張国の織田信秀に仕官し、1551年跡を継いだ信長17歳にもそのまま仕えました。27歳になっています。永禄10年(1567年)信長33歳が美濃を平定します。この頃に長近43歳は、関吉田3000石を賜ったようです。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、家康配下の酒井忠次3000騎と共に織田軍5000騎の分遣隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦への強襲を敢行し、同砦を陥落させた金森は信長41歳が信頼する武将51歳でした。
このとき酒井忠次は、長篠城を救出した上に、勝頼の叔父の河窪信実等を討ち取り、さらに有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げたとされています。兵数では長近の率いた方が多いにもかかわらず、長近の軍功は後世にあまり評価されていないのは、後の世において徳川四天王に数えられた酒井と比較した場合、長近は無名のため、忠次の戦功として作られたものとも考えられます。しかし、この戦後、信長から「長」の字を賜り「長近」と名乗ったことからも、長近の功績は大きかった事でしょう。
天正3年(1575年)8月、当時越前一向一揆が起きていた越前国に対し、織田信長は多方面からの軍事力投入によりこれを鎮圧せんとします。その一翼として奥美濃根尾谷から温見峠越えをして越前大野入りした長近は、同地の本願寺坊官の杉浦玄任の軍を散らし、わずかな期間で同地を平定します。この越前一向一揆鎮圧戦で戦功があったことにより、越前国大野郡の内3分の2(越前大野・大野城と石徹白)を与えられます。
その後は越前を領し、織田家のいわゆる北方方面軍を任されていた柴田勝家(1522~83)の寄騎として、能登七尾城の前田利家と同様に織田家中での北陸方面軍に属していました。天正10年(1582年)の甲州征伐では、飛騨口の大将を58歳で務めるなど、信長直参としても高い地位にあったのでした。
この頃、長江氏支流とされる板取田口城主の長屋景重の子で、長近が面倒を見ていた長屋喜三(後の可重(1558~1615)を養子に取り、可重に郡上八幡城主・遠藤慶隆の娘の室町殿を嫁に迎えます。
天正10年(1582年)2月、従四位下兵部大輔となり、その後さらに正四位下兵部卿に叙任されます。同年、本能寺の変が起こり、信長48歳が明智光秀54歳に討たれ、嫡男の長則(1564~82)も、織田信忠(1557~82)と共に二条城で討死しました。長近は剃髪して兵部卿法印素玄と号しました。さらに、信長と長則を弔うため、臨済宗大徳寺の山内に金龍院という塔頭を建立します。
清洲会議を経て、勝家(1522~83)と羽柴秀吉が対立した時期、長近は寄騎で同じ越前を領する柴田側に組していました。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて、当初は勝家側として秀吉に対峙していたのですが、秀吉陣営に転じた前田利家(1538~99)45歳と長近59歳は行動を共にし、戦わずして撤退したのでした。柴田勝家61歳は滅び、長近と利家は秀吉の傘下に入ります。
その後は秀吉の幕下として、小牧・長久手の戦いなどに参加しました。
天正13年(1585年)、越中の佐々成政の討伐を決めた秀吉(富山の役)でした。秀吉は佐々討伐と同時に佐々と結ぶ姉小路氏飛騨討伐も行うこととし、その命を長近に与えます。長近61歳は羽柴勢の越中討伐軍に従軍し、8月に各所で小戦闘行為に参加し、そのまま同月中に越中から飛騨に侵入しました。
当時の飛騨国は、姉小路氏が信長の死後の混乱に乗じて勢力を拡大し、ほぼ一国を手中に収めていました。この姉小路氏の拡大により領土を奪われた勢力、牛丸氏や広瀬宗直、江馬氏の江馬時政が長近の下に逃れて来ていたので、彼らを先導に金森勢は越中からの長近の本隊と飛騨方面からの可重32歳の別働隊とが南北から飛騨に侵入挟撃しました。姉小路氏は同盟者の白川郷の内ヶ島氏理と共に金森軍に抵抗するも、大軍に攻められていた佐々成政からの援軍も期待できません。金森勢の前に姉小路氏の有力者が各所で討死あるいは自害する中、金森勢は最終的に姉小路氏の本拠の高堂城を攻め、姉小路氏は降伏しました。
当主の姉小路頼綱は助命され、京に護送されます。姉小路頼綱は公家でもあり、京での付き合いの範囲は長近以上でした。飛騨は山の国ですが、関東のような遠くの国だと都の人は思っておらず、木曽の義仲のように軍勢を引き連れて、直ちに都に入ってこられると思っていました。
天正14年(1586年)、長近は飛騨一国3万8700石を与えられました(『寛政重修諸家譜』)。内ヶ島氏も助命され、金森の寄騎とされます。江戸時代の初めから庄川の白川郷と宮川の高山は一体化していました。長近は禅宗と茶道に造詣が深く文禄3年(1594年)71歳の頃には秀吉の御伽衆を務めます。592~98年の朝鮮出兵の際は、可重と共に兵800を率いて名護屋に在陣しています。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与しました。養子の可重42歳とともに徳川家康の上杉征伐に参加し東征し、のち諸将と共に反転し西上しています。長近76歳は自らも1千1百人余を率いて、関ヶ原では石田三成との本戦に参加しています。戦功により、飛騨の本領安堵とともに、美濃国武儀郡2万石(上有知・関)と河内国金田3000石を加増され、計6万1700石の領主となります。
長近は高山を拠点と定め、同地に入った当初はしばらく鍋山城に居ましたが、天正18年(1590年)長近66歳より、天神山古城跡に新しい城を作る工事に着手し、1603年江戸幕藩体制の元、ここを飛騨藩の藩庁として初代高山藩主となります。慶長10年(1605年)長近81歳の頃に、城は城下町と共に完成したと伝わります。
可重47歳を高山に置き、自らは加増された上有知(美濃市)の鉈尾山城に入り、さらに小倉山城を築いて移ります。この時上有知に整備された城下町は「うだつの上がる町並み」として現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっています。この年80歳を超えて、次男(三男)の五郎八(長光)が産まれています。
長近は蹴鞠や茶の湯の才にも秀でており、秀吉が伏見在城の時は伏見城下の自宅に書院と茶亭を造り、しばしば秀吉を招いています。茶の湯の宗匠千利休(1522~91)とは同世代ですが、その弟子として茶会に招かれたり、宗匠古田織部(1544~1615)とも親交がありました。秀吉が千利休の切腹を命じた時、嫡男である千道安(1546~1607)を飛騨高山に隠棲させ、匿ったとされています。その時に、照蓮寺明了や金森重近(後の金森宗和、宗和流茶道の祖:可重の廃嫡長男)が、千道安から茶の手ほどきを受けたともあります。
家康・秀忠父子からは「気相の人」と言われ信任されており、慶長10年(1605年)には家康父子が長近の伏見邸を訪れ風流を楽しんでいます。関ヶ原の戦いの後に家康に教如(後の東本願寺)を引き合わせています。慶長13年(1608年)8月12日、京都伏見の別邸で死去。84歳。法名は、金竜院殿要仲素元。墓所は、大徳寺塔頭龍源院(京都紫野)。
以上、金森長近の一生(1524~1608)を養子の可重と共に長々と書いてきました。年齢をその都度入れたのは、長生きで、かつ現役であった事を示す為でした。信長(1534~82)、秀吉(1537~98)、家康(1543~1616)と長近は、信長の10歳年上ですが、この三英傑に槍で仕え、桃山文化を体現した安土城、大坂城、伏見城を実際に見、三英傑と茶の湯を楽しんだのでした。「ならばこその飛騨4万石の高山城だっただろう。」と思い浮かべる為に経歴を紹介しました。


6代目金森頼旹の時、綱吉の意に合わず、元禄5年(1692年)に出羽上山に改易され、以後明治まで代官が治める幕府の直轄地となります。城は金沢藩に預けられ、全て破却されてしまいますが、長近が可重と共に作った城下町は100年続いたのでした。300年も前に壊されたので、現代の高山観光に「城下町」の姿は見えませんが、ここに動画での本丸復元、内藤案が見られます。
高山 城下町絵図
高山市図書館/高山城下町・飛騨国絵図・高山市史街道編 に、絵図がまとまってあります。以下に、いくつか抜き出します。


金森氏の城郭各曲輪名称が他の絵図と異なり、本丸が本城、二之丸屋形が本丸、庭樹院殿屋敷が二之丸と記されている。二の丸に殿様が住んでおり、政治もそこで行われたので新たな「本丸」なのでしょう。
また城内の井戸が青丸で記され、家臣大塚権右衛門宅裏手の井戸から二之丸(この図では本丸)へ青線が引かれるが、これは湧水量の多い大洞地区から水を送った水路である。 金森左京の屋敷は江名子川の右岸に所在するほか、空町の島川原にも見え、さらに錦山方面江戸道沿いにも旧屋敷があった。また御下屋敷は2カ所あり、中橋西側の御下屋敷(現高山陣屋)附近に米蔵・材木蔵・桶小屋・御作事所・馬屋等の名が見える。この図は二木家旧蔵で、森・平田家にも同種の図が伝わる。

金森時代の城下町を中心に岡本町や三福寺町を含めた高山盆地全体が描かれている。高山城は「御城」と記され、輪郭のみである。武家屋敷には名を書き、町家では赤色、道は黄土色、寺は茶で彩色されている。 右上には各町の長さが記されている。壱ノ町長六丁弐拾九間壱尺・弐ノ町長六丁拾六間・三ノ町長六丁拾壱間四尺・欠ノ上町長五拾六間・上ノ向町ヨリ下向町マテ長四丁程など、南北の通りの長さが記される。欠ノ上町は長五拾六間とあるが、現在の馬場、吹屋南北通りと安川の一部東西通りの合計であろう。 一之新町・二之新町・下新町の名は、町並が北へ発展していったことを示している。 この図は高山の町年寄を勤めた屋貝家(註6)に伝わったものである。町年寄は領主と町人の間に立って、宗門人別帳の作成も行なった。町年寄は金森時代初期に矢嶋茂右衛門が町代となったのが始まりで、のちに一之町に矢嶋、二之町に川上、三之町に屋貝の三家が世襲で勤めるようになり、金森時代末期には各5人扶持(註7)を受けていたという。(註6) 高山城下町の町年寄は、一之町が矢嶋氏、二之町が川上氏、三之町が屋貝氏で、代々世襲した。(註7) 加越能文庫『金森在番雑記 単』金沢市立近世資料館蔵の中に「金森出雲守殿御家来附け帳」の項があり、その中に「一、五人扶持宛町代屋(矢)嶋茂エ門、川上善吉、屋貝権四郎」とある。
盆地全体、城郭に狩野派の雰囲気が写されており、武家地記名の細やかさから、正保の絵図の控えが町年寄りに伝わったものだと思います。
天神山のテッペンにあった古城跡に本丸を作り、その後に殿様が住むニの丸を城下町側に繋げた事が、城下町に面しない出丸側を「大手」と呼び、武家地から町人地に繋がる道を「搦手」と言っています。城の棄却に際し、石垣をも壊したので現地に立っても「高山城」の姿を想像できません。

元禄5年(1692年)に改易され、高山城は加賀藩に預けられ、城も石垣も武家屋敷も壊されます。下屋敷が代官の陣屋となりました。城下町の多くが、明治になって武家地が裸地になるのですが、高山はさらに150年前に裸地になりました。「上三之町」「上一之町」「上二之町」を中心とした「高山市三町」による在郷町として高山は残ります。
高山城

発行:財団法人金森公顕彰会
発行日:1988年9月
ページ数:28P+折り込み付図9枚
編集:文化環境計画研究所
[目次]
1.経緯
2.日本城郭史上の高山城
3.高山城の内郭の構成特性 -火性梯郭式
4.高山城天守の構成特性 -梯立式
5.天守の建築的特性 -初期望楼型
6.本丸御殿の建築的特性 -初期書院造と囲(数奇屋)
7.高山城本丸建築仕様
8.結
付.立面図・平面図
「財団法人金森公顕彰会は、昭和58年設立以来、金森長近公銅像の建立をはじめ、高山城に関する資料収集、調査報告書の発刊、『飛騨金森史』の刊行など多岐にわたる事業を推進してまいりました。このたび、名古屋工業大学・内藤昌博士のご努力により、今まで明らかにされていなかった高山城本丸部分の様相が解明され、復元模型も立派に完成されました。それによると、高山城は自然の地形に合わせた不整形な本丸を築き、御殿と天守を接合した梯立式の珍しい城であることが判明しました。」
私は1995年に名古屋に戻り、内藤先生に御挨拶をしに大学に行った時に、高山城の復元図を見た記憶があります。石垣の「天守台」がなく御殿建築(御座の間)の上に直接望楼が乗っており、とても城には見えず、それらが石垣の上にはみ出ていたのに驚いたのを覚えています。 天守の発展過程における初期の形態「初期望楼型」に、安土城天主と同様に分類されます。外から見ると2重ですが、内部は3階建ての構造になっていました。
書院造のように「表」と「奥」があり、大手道は二の丸側でなく、南出丸とし、東の玄関門に至り、上段を持つ式台に至り、使者の間を付属させています。北西に二間の大床をもつ広間と「表」を繋げています。城下町と繋がる二の丸側は搦手としています。
石垣によって形作られた小山の頂きにある「平山城」ですが、軍事拠点としての機能以上に、風呂など居住性が高められ、大広間に、長近・可重らしく茶室(囲)を備え、絵図に題された「本丸屋形(御殿)」としての性格が強く、内藤先生はここに安土城天主の姿を重ねていました。豪雪・寒冷地であるため、瓦ではなく木材の板を用いた「柿葺」が採用されおり、それも天守でなく御殿である事を表現しています。
天守に付櫓(つけやぐら)が添えられ、「梯立式」と呼ばれる配置形式を採っているのも、天守の初源を示しています。安土城天主、岡山城天守の天守台は多角形です。なぜなら、天守台の敷地を地山を削って石垣を積んで作るのですが、計画の「知」を示す、グリッド状に石垣普請はできなかったのでした。高山城本丸もできませんでした。
岡山城天守を見てください。穴太衆の作った敷地の凸部には、母屋に附属屋をつける形にして、大工は全体の調子でグリッドに乗るようにしたのでした。地山が細長くあれば、その方向にそって付櫓を加えたのです。

編集の文化環境計画研究所とは、内藤研究室第一期卒の卒業生の浅井さんが開く事務所であり、模型費、パース費、調査費など国立大学の研究費ではもてない物に対し、内藤研究室に代わりにそれらへの報酬金を受け取る事務所です。名古屋城、駿府城にも内藤先生は文化環境計画研究所を使いましたが、復元安土城では朝日新聞などの出版社がその費用を持ちました。




高山市としては、内藤復元案内容にはあえて触れておらず、その評価もしていないのですが、飛騨高山まちの博物館 の中に、100分の1の模型はガラスケースに入れてあります。高山城の模型1988年を使っての動画制作は、高山市が2019年に行っています。岩村城本丸跡地に立って、この模型を思い出した私です。
北面石垣が凸凹しているのは、地山に合わせたからであり、その石垣に合わせて建築はつくられています。南面の様に石垣をナナメに積む方が、普請工事は楽ですが、北面はグリッドに整えて城下町にこの威容を見せたかったのでしょう。


復元史料は、加賀藩は元禄期に破城する前に、城郭の測量をしていたのでした。幕府は正保に続き元禄にも国絵図、城下絵図、城郭絵図の提出を各藩に求めており、加賀藩はオランダ渡りの平板測量を高山城にも行ったのでしょう。絵図の元図は残されていませんが、大正時代に押上氏が写し取ったのが残されており、昭和60年に高山市は発掘調査を行って加賀藩の測量図が正しいと判断し、高山市が全体を印刷物にしています。

城下町図のアングルに合わせて、高山市が復元した高山城城郭図を入れておきます。

堀と石垣によって二の丸が作られ、そこに屋敷があるのは、慶長期のお城のようですが、山をさらに登って、石垣の上の天守は犬山城、彦根城のように見えます。天守丸を1590年頃に作ったのですが、それでは狭いと可重は、徳川義直の名古屋城二の丸御殿と同様に、20年後に二の丸御殿を作ったのでしょう。








