ポンタックのブログ「安土城の復元」に、PDFの形で「小説・安土城物語」「論考 『小説・安土城物語』のネタばらし」を入れました。A4版横使いにタテ書きしたものです。それぞれ13枚と38枚の印刷物を合本して、仲間内に、近江八幡市、小牧市、岐阜市に、配布するための体裁でした。2026年、PDFからブログ形式にし、ここに置きます。
ブログ「安土城の復元」2023年を書くきっかけとなるPDF2021年制作でした。
ブログ「安土城の復元」は「安土城天主:静嘉堂文庫『天守指図』と内藤昌復元案」「安土城の石垣:天守台東西面だけに『反り』がある、なぜか。驚愕の天守の造形を支える構造・軸組を解きほぐす。」「幻の安土城、復元。と滋賀県は言う。2023年」と4本に広がり、2026年前川氏には、そのnote「安土考」において、私のブログ「安土城の復元」の紹介をしていただいています。ブログは、内容を改変したり、内容を増やすことが容易ですので、前川氏のブログから触発を受けて私も逐次改変をしています。
「安土城の復元」へのクリック数は4000に及ぶので、AIにブログへの評価を聞いてみたのですが、PDF「小説・安土城物語」「論考 『小説・安土城物語』のネタばらし」には、探索ロボットも立ち寄らないようです。そこで、ブログとして、ここにヨコ書きにして写します。スマホでも読めますので、検索ロボットも来ましょう。
ブログ「安土城の復元」は、高橋私案を訴え、他者の案の評価していますので、重くなっています。一方、「小説・安土城物語」は、皆さんおなじみの信長の戦いの間に築城される様子を挟み込み、信長と大工のセリフを使って築城の問題点を描いていますので、軽く読み流せると思います。そのあとで、また、ブログ「安土城の復元」に戻ることを切に願います。長くて面倒ですが「安土城天主:静嘉堂文庫「天守指図」と内藤昌復元案」もドウゾ。
きっかけは、2021年NHK「麒麟がくる」に内藤案の安土城天主を知らしめる為に、内藤昌先生の弟子3名(満田氏、河田氏、私)がズーム会議をして、それぞれのテーマを決め、書くとした事でした。私は「安土城は信長でなく大工が作った。」をテーマとしました。オリジナルをそのまま写します。変えたいところもありますが、そのままとします。
- 小説 安土城物語 2021年作成
- 論考 「小説・安土城物語」のネタばらし 2021年作成
小説 安土城物語 2021年作成
虎御前山の段(構想)

天正元年(1573年)8月28日 虎御前山の信長の館
信長は茶を飲みながら、座敷から思案気に眼下の琵琶湖を見ています。自身も小谷城京極丸に登って浅井長政の最後を見届け、丹羽長秀、木下藤吉郎、大工・岡部又右衛門と共に虎御前山に戻ってきたところでした。
高さ200mの虎御前山は、高さ400mの小谷山の西にあり、前年8月に信長が浅井・朝倉勢に睨みを効かせるためにここに館城を築かせました。琵琶湖の向こうには元亀2年(1571年)9月に信長が焼きつくした比叡山が聳え、その南に石山寺の伽藍が見てとれます。湖岸にそって目を手前に移すと、明智光秀を置いた坂本(大津)、暴れ川の勢田、元亀元年3月に相撲を興行した常楽寺の湊、六角氏の観音寺山城、丹羽長秀が居城する佐和山(彦根)と続き、東にそびえる伊吹山の麓には不破の関があります。美濃の国を見ることは、京が見えないと同様にできません。
「サル、3年に及ぶ戦いご苦労であった。越前の朝倉は討ったがその奥には上杉がいる。琵琶湖を押さえるため、そこに見える長浜に小谷の城下町を移し、城を築け。北近江、三郡はサルに任せよう。城持ち大名になるのだ、名を改めるが良いぞ。」
「ありがたき幸せにございまず。丹羽様の羽と柴田様の柴を頂き、羽柴と名乗らせていただきたいと思いますが、丹羽様、よろしいでしょうか。」
「おぬしは、どうも柴田殿とそりが悪いように見える。それゆえに良い名ではないか。ところで上様、入京5年、ようやく近江の国を押さえたように見えても、まだ六角氏は我々に矢を放ってきましょう。岐阜と京とは3日の道のりです。畿内を静まらせるには、兵を美濃から送り続けないといけませんが、又右衛門に作らせた巨船は失敗でした。いかんせん足が遅い。やはり勢田には船橋でなく本格的な橋がいります。そして、近江の国の中心は長くあの観音寺山城でした。あそこに上様の城を築けば京に1日で行けます。近江の国人を新たに配下に加えるにも、上様の威容を示す城づくりをされてはいかがでしょうか。」
「丹羽には参る。ワシの思案をすっかり見通されている。義昭を放逐しワシが天下人となる以上、これからは京の天皇、公家の相手もせねばならぬ。さりとて、京に大軍は置けぬ。観音寺山の北に繋がる丘(100m)をなんというか。常楽寺湊の手前の山だ。内湖に囲まれており湖への守りも堅そうだ。」
「六角の弓衆が鍛錬する場から、アヅチ(射場)と地元では呼ばれています。」
「思い出すのう。叔父の信安、弟の信行との争いも終わらせ、尾張下4郡の守護代になったと、足利義輝様にご挨拶に京に上ったのは14年前、26歳の時だった。美濃を避けて千種街道から東山道に出たのだが、東山道を見下ろす観音寺山の石垣の威容にとてつもなく驚いたものだ。今回、朝倉の一乗谷、この小谷城と見たが、改めて近江の国衆の石垣への執着を感じた。小牧城、岐阜城でワシも石造りを試みたが、石種の違いがあるのだろう。サル、石垣に詳しい国人を探し、抱えよ。」
岡部又右衛門は、口を挟むことはなく、(次は橋か。隧道を堀り、高楼を建て、船まで作ってきたが、上様はどんな城を想い描いているのか。)と、控えていると、
「又右衛門、アヅチ山に石垣を組め、その上に100尺の高さの殿主を建てよ。京極丸で先ほど見た何倍もの規模でだ。あの丘でならできよう。山下には東山道を引き込み、一乗谷をしのぐ町を開け。3年だ。オヤジが死んだ42歳となれば、家督は信忠にゆずって、ワシはアヅチ山に移るぞ。」
アヅチ山頂の段(測量)

天正元年(1573年)9月1日 アヅチ山の山頂
岡部又右衛門は、画板に矢立を持って山頂に立っています。信長の指示を受けたあと、7月に佐和山で巨船を共に作った杣夫に鉈を持たせ、近在の百姓に鎌を持たせ、常楽寺湊からの尾根を、道を作りながら登ってきたのでした。又右衛門の視界を遮る木々を杣夫が叩き切り、息子の井俊が地縄をはってます。
「井俊よ、上様は100尺の殿主に住むと言われたが、山頂の地山を削るにしても、20間(40m)四方もないな。京で殿主となれば、1町(120m)四方の敷地が必要だが、切り盛りをして石垣を積んでも、左右にあと一か所ずつしか屋敷の敷地はとれない。そのさらに東となるとまた高くなるし、西は低くなる。上様はこれを見越して、塔のような背の高い殿主に住むと言われたのだろうか。信長様の殿主は山の如きものにならざるを得ないぞ。どのようにして作れば良いのか。100尺の高さだけなら、五重の塔も大仏殿も成しているが、何れも平屋建てだ。上様は、山頂に巨大な金閣を作れと言われたのだろうか。」
「父上、先ほど通った西の尾根ならわりと平です。20間×40間の敷地が取れましょう。まずは仮小屋を西ノ平に建て、頂上に城の主郭が出来たのちに、西ノ平に殿の御殿を作られたらどうでしょうか。」
「西ノ平か。上様はアヅチ山のテッペンに住むと言われた。上様が常々言われる天下布武の威容をアヅチ山で示したいのだ。配下の武家屋敷なら山麓でも許されるだろうが。佐和山の杣衆よ。こちらが終わったら、西ノ平の視野も開けるように諸所を打ち払ってくだされ。
井俊よ。山頂と西平との鞍部は谷となって南にまっすぐに落ちている。小牧山で行ったように、数百の人足にソリに繋いだ太綱を持たせ、一息に山頂に荷揚するのに良いが、はたして下の沼は船が入れようか。」
「沼を掘らなくては、船を常楽寺湊からアヅチ山の南に回すことはできますまい。観音寺山からこちらアヅチ山までは、水田に沼です。荷車も渡ってこれません。沼の開削と合わせて、新道を作る事から行わないと、大工の出番はいつになる事か。父上、上様に言上しないといけません。」
この後、9月24日から10月26日まで、信長は北伊勢、長島の一向一揆の征伐に向かうも叶いませんでした。又右衛門は常に信長の傍にいて、城攻めの為の隧道堀り、高楼建ての指揮をしていました。アヅチ山の測量の報告もその間にしていました。
「そうであるか。先日、蒲生賢秀が岐阜まで訪ねてきたが、未だ近江国人とは会えていない。蒲生に伝えよう。ところで、殿主は3層50尺の高さにならざるを得ない狭い山頂だと言う事だが、おぬしの高楼建ての巧みさをもってすれば、100尺はできよう。11月には京に行く。日本国王、足利義満の金閣を共に見ようぞ。」
「松永久秀様が6年前に焼かれた東大寺金堂の高さは、100尺を優に超えていましたが、柱の胴回りは12尺(直径120センチ)であったと聞いております。高楼は城攻めの仮設ですので細い材で作っていますが、そのような大材を手に入れるのは難しくなっており、架構の工夫が要りましょう。」
「なに、3年後にアヅチ山へ移れればよい。松永弾正か。嫡男に家督を譲り、婆沙羅ぶって茶道具を集めているようだが、松永は多門城を作り、天主を載せたという、奈良も行かねばならぬな。」
天正2年暮れになって、信長は領国に道路を作れと朱印状を出します。道路幅は3間半。
金閣、吉田社太元宮の段(企画設計)

天正元年(1573年)11月15日 金閣
信長は、京都奉行・村井貞勝、大工・岡部又右衛門を引き連れ、入明2回の天竜寺の策彦周長(1501年~1579年)を訪ね、夢窓疎石のなした天竜寺十境の結構を見たあと、策彦の弟子の南化玄興(1538年~1604年)の案内で金閣を拝見します。一層目はは池に浮かぶ寝殿造りであり、二層目の潮音堂は観音像を四天王が囲み、天井には飛天が舞い、まさに舎利殿の様相です。しかし、三層目の究階頂に登ると、黒漆の床に黄金の壁・天井が写りこんでいますが、なにも像は置かれていません。170年を経て内部と違い外部の金貼りは傷んでいます。信長は三層目の金の勾欄に出て庭を見渡しながら、南化に聞きます。
「日本国王と名乗った足利義満の住まい、世を睥睨する三層の黄金の館なのだが、どうして最上階に何も置かれてないのだ。ワシはアヅチ山に天下布武を示す殿主を作ろうと思っている。教示願いたい。」
「上様、三層目は義満様が座禅を組む座禅堂です。明国では、儒仏不二、三教一致と言われ、天下を治めるものは、道教、儒教、仏教を自家のものとし、自らの悟りでもって事にあたれとされています。
アヅチとならば、安土とするのがよろしいでしょう。平安楽土より平安の都が作られたように、二文字をとって安土です。湖(うみ)と伊賀・甲賀の山河を望む安土山こそ蓬莱三万里の仙境です。そこに須弥山上の善見城金殿玉楼に比するものをお建てなさい。されば、おのずと天下も治まりましょう。」
「又右衛門、聞いたか。おぬしの言う小山の如きワシの殿主の上には、金殿玉楼を頂くぞ。丹羽は近江の国を治める為に城造りが必要と言ったが、天下を正す天主を作るのだ。だが、屋根が杮葺きでは公家の住宅のようだ。弱いな。黒瓦を載せ、金で飾ろう。」

天正元年(1573年)11月16日 吉田社太元宮
信長は、昨日に続き、大工・岡部を引きつれて、京都奉行・村井貞勝とその配下の大工・池上五郎上衛門が待つ吉田社を訪ねます。神主の吉田兼和(1535~1610)が信長を出迎えます。
「この太元宮は、「唯一神道」を唱えた我が祖、吉田兼倶が創始したものです。伊勢の神霊が吉田社に移った証として建てられました。兼倶は、宋の儒学をはじめとして道教・仏教の理論を加え、「国常立尊」と言い、創造主である伊勢の神霊こそ宇宙の中核をなすものだと、ここに祀ったのです。」
「池上五郎右衛門か、武者小路のわが邸では世話になったな。この姿をどう思う。」
「八角円堂は、広隆寺、興福寺にもございますが、形の源流は聖徳太子を祀った飛鳥時代の法隆寺東院八角円堂だと伝えられています。宇宙の中核は円の形であると。暦応の火災(1342年)で燃えたのですが、白川天皇は高さ27丈(80m)の八角の塔を作られました。伊勢の大神ならば切り妻の茅葺ですので、太元宮は萱を八角円堂の上に入母屋風に葺いたのでしょう。」
「27丈とな。100尺など取るに足らんな。安土山に殿主を作ると決めた。池上も京の大工を集めて欲しい。それから、武者小路のわが邸は、そちがばらして安土に送ってくれ。安土山の仮住まいに使う。」
「かしこまりました。昨日、村井様から安土山の話を聞き、殿主の材の調達についてのお願いがございます。是非とも、上様のお力を材の調達にも頂きたいのです。
京には、材木屋がおり既に製材されたものがあります。義昭様の二条御殿の折もそれゆえ14ヶ月で作れました。御殿の柱は8寸(24センチ)以下です。梁材は野物を使い製材されていません。
しかしながら、安土山の小山の如き殿主、3層ともなると柱の太さは、胴回り6尺(直径60センチ)ほどは要りましょうか。狂いを嫌って芯去り材とすると、胴回り18尺(直径180センチ)の大材となります。梁も床を張るために野物というわけにはいかず、形を整えなければなりません。
殿主の形を決め(設計)材の数量を出し(見積もり)、新たな大材を探し求めなければなりません。大仏殿では、大材を求めて重源和尚は周防国まで行かれました。3年で作れとの事ですが、作事(建築)は、大工をかき集めれば2年で造れましょうが、大材を探して乾燥させ、大鋸で製材するに1年半はかかります。安土山の普請(土木)は別にしてでございます。」
「馬鹿者!岡部から「100尺の殿主は出来ない。」と言って欲しいと言われたのか。」
「上様、滅相もない。矢倉を建てた大船を2ヶ月半で作った岡部又右衛門です。何をおいても上様の命に従ってきました。池上様は我が父がお世話になった幕府御大工です。岡部の事を心配されてのことです。」 「わかった。やはり、安土山の棟梁は岡部としよう。工夫もせずに、出来ない言い訳をするばかりの池上ではダメだ。しかし、聞くほどによく建築を知っているのは間違いがない。岡部を助けてやってくれ。大材を毛利の国に求める事などできはしない。近江で手に入る材で作る事を岡部は考えてくれ。」
湖上の段(造成の手配)

天正元年(1573年)12月1日 常楽寺湊
信長は坂本から早船を使い常楽寺湊に着く。御座船が用意されており、船の前では、蒲生賢秀、山岡景隆、木村高重、西尾義次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某と、近江の国人がそろって控えています。
「蒲生賢秀、ごくろうであった。寒いから御座船に入ろう。丹羽長秀から聞いておろうが、この安土山に高さ100尺の殿主を作ると決めた。ついては、この地に昔より住む皆の衆に普請奉行を務めてもらいたい。これから御座船は安土山を回る。ゆるりと見ようぞ。
見えるか。まずは、この西からの尾根筋の上り道と、南から谷を登る荷揚の道を作り、木を切って山肌を明らかにし、ワシの指示で大工・岡部に敷地の地縄を張らせる。ここまでは人足仕事であるので蒲生は一人でできるというのだが、大工が、材木、石垣の石の調達は近江の国衆が分担しないとできないと言うので皆に集まってもらった。また、安土山への新道も必要だ。その際、勢田川には本格的な橋もかけたい。」
「私、蒲生が湖南を、山岡が湖西の山を見、材を運び出す川の算段をし、杣をいれます。石の切り出しと安土への運び込みは、西尾、小沢、吉田、大西の4人が分担して行います。木村高重殿は、この地の旧家であるだけでなく、明から渡来した最新の算盤術も使われます。刀槍の戦働きなら賢秀は負けませんが、数字を操つるのは苦手でして、木村殿には、我々近江の国人の勘定奉行を務めていただきたく所存です。」 「あい、わかった。」信長はめずらしく上機嫌で、「いつまでにできるか。」との詰問はされませんでした。
多門城の段(先例を見る)
天正2年(1574年)3月27日 多門城
天正元年12月26日、松永久秀、松永久道が多門城を信長に明け渡し降参した。あくる正月8日には久秀自身が岐阜に来て名刀を信長に送る。今回は、朝廷に願い出て「蘭奢待」を東大寺に切らせることを認めさせたので、奈良に信長自らの威光を示すために、塙直政、菅谷長頼、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、蜂谷頼隆、荒木村重、武井夕庵、松井有閑、織田信澄の武将を引きつれて多門城に入った。南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和支配の拠点として城は作られていた。
河原の丸い石で石垣を作り、塁上には後に多門櫓と名がつけられた長屋の櫓が築かれていた。殿主、会所、庫裏などが庭園を囲んであった。久秀は2階建ての御殿に住み「楊貴妃の間」があった。西には家臣団の屋敷があった。狩野派の絵に飾られた座敷と共に、水屋のついた茶室もあった。(島津家久の日記)
「又右衛門よ。天主があるというので期待して来たが、あれは物見矢倉ではないか。ワシが二条の義昭邸で門の横に2層の天主を作らせたので、それをさらに2層積み上げ4層にしただけだ。それより、座敷飾りが良いぞ。金工細工、畳、棚飾り、とりわけ襖絵が良い。さすが、婆沙羅大名と言われるだけの事がある。京に戻ったら、狩野なる者の工房を訪ねよう。ワシは大仏殿の焼け跡を見て帰るが、岡部は奈良大工を訪ね、これはという者がいたら安土城の為に抱えよ。これだけの大寺があるのだから、大工もいよう。」 信長は狩野永徳の工房を訪ね、将軍義輝が永徳に描かせてそのままになっていた洛中洛外図屏風を見て、大胆な水墨画だけでなく大和絵の細やかさもわが物としている永徳の技量に驚きました。上杉謙信に贈られるものだったと聞き、金5枚で買い上げ、信長が上杉に贈る事としました

法隆寺の段(基本設計)

天正2年(1574年)4月1日 法隆寺夢殿
大工・岡部は、東大寺の転害門、南大門、二月堂、三月堂を見てまわり、隣の興福寺を見て、薬師寺の東塔、唐招提寺の伽藍を見て回るのに、3日を要してしまいました。法隆寺大工の中井正吉(1533~1609年)を訪ね、法隆寺大工の作務衣と法被を着て、西院の建物を順に回り、今は東院の夢殿の中にいます。正吉の息子、正清(1565~1619)9歳も、父親について回りました。
「正吉殿、誠にかたじけない。天平時代の夢殿の架構は吉田社の太元宮とは全く違いました。これで、安土山天主の5階八角、6階四角の形が決まりました。
飛鳥時代の金堂、五重の塔から、平安時代の大講堂、鎌倉時代の西円堂、聖霊院と見させていただきましたが、木割が細くなることが、木造建築の歴史だとはっきりわかりました。西院伽藍の南方、境内入口にたつ入母屋造の一重 南大門、あの小ささでもって、あの木割の太さ。地震に耐えるなんという事は考えていません。門構え以外のなにものでもないです。しかし、今の時代、このような太い材が手に入らない中で、上様は100尺の殿主を作れと私に命じたのです。3階建ての殿主、その上の小屋裏と石垣内の穴倉を含めて、この5層をいかに組むか悩んでいます。」
「白蟻にやられたので柱を替えたのですが、古材は再利用しています。ヤリ鉋で研ぐと、プーンと檜の香りが立つのです。口伝では千年かけて育ったヒノキは千年もつと言われており、頂いた命は大切にしています。このような太い材であることにこしたことはありませんが、近江の国で手に入るもでしか作れないなら、大材はないものとして、柱は芯去り材を集めて鉄輪で巻くとか、東大寺南大門のように貫きで細い柱を繋ぐ大仏様とし、全体でもつようにするとか。だれも、殿主を3層も積みかさねて作った事はないのですから、10分の1の大きな雛形を丁寧に作り、ゆすってみて、確かめるしか手はないでしょう。」
「正吉殿、是非、安土山に来て、私を助けていただきたい。」
「承知しました。是非、お願いします。安土山天主がどのように形になるのか。天下無双の話を岡部殿から伺い、大工の血が騒ぎます。息子の正清もつれて行きます。こいつには、大工・中井家の未来を見てもらわないといけません。」
中井正吉は、後に豊臣秀吉の大坂城、方広寺を作り、息子の中井正清は徳川家康の六本槍となり、大坂城攻めで働き、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城を作りました。大工・中井家の未来をまさに作った大工(建築家)になったのでした。大工(建築家)はパトロンを捕まえないと、なにも作れません。
安土山頂の段(敷地の確定)

天正3年3月1日 安土山山頂
信長は昨夜泊まった佐和山の丹羽長秀を引きつれ山頂を目指しています。木村高重、岡部又右衛門親子はそれに気づくことなく、近在の百姓をつかって杣夫の残した根を堀りださせ、造成を指揮しています。
天正二年3月以降の信長は相変わらず忙しい。4月3日に石山寺が蜂起、5月5日賀茂祭~京都5月28日、6月14日~6月21日柴田勝頼が高天神城を落としたので吉田まで出陣、7月13日~9月29日長島攻撃。
6月から9月の信長の出陣では、近江の国衆も出陣し、天正二年から分担して安土山の準備工事をするはずが、止まっていたのでした。岡部又右エ門も長島攻撃に参加しており、安土山に入れたのは10月の末でした。杣夫を使って木を伐り、安土山を裸にはしていたのですが、木杭を打って、斜面の切り盛りをし、砂利を敷いて敷地の造成となると、岡部又右衛門が指揮しない事には出来ません。
「又右衛門、敷地ができているのではないか。丹羽、見よ。山下の3間半幅の道路も完成したぞ。」
「あっ、これは上様、それに丹羽様まで。ご苦労様でございます。西平と頂上の敷地の形にメドをつけようと木村様と励んでおります。あと半年で、虎御前山で上様が話されてから丸3年たちます。」
「42歳になってしもうたが、ワシの歳のことなど、武田も坊主も気にしてくれんからな。おぬしにももうひと働きしてもらい、武田勝頼を潰さんことには、信忠に家督も譲れんわ。今、その為に堺に鉄砲を頼んでいる。ところで、この一番高いところだな、殿主は。固そうな地山でないか。20間×20間か。」
「穴太衆(石垣積の専門集団)と打ちあわせ出来るように、杭を打ち、水引(水平を取る事)をこれからするところですが、南の段からここまで31尺あります。この地山の上さらに穴倉階分の13尺を足して44尺の石垣を積みますと、17間×17間と減ります。ただし、地山の形に合わせて穴太衆は積みますので、彼らが地山を掘って根石を置くまでは石垣の形は見えません。私は六角形になるのではないかと思っています。」
「そりゃ、大工として難儀なことだな。池上ではできんぞ。」
そこに、井俊が大きな箱を抱えて現れる。
「上様、雛形を井俊が作りましたで、見てやってください。天主です。最上階の6階は金閣、5階は太元宮です。上様と共に京、奈良をまわり、形を決めました。いかがですか。」


「ウン、ワシが設計したのだからな。いいぞ。しかし、雛形は、天主を載せる大屋根までしか作ってないのはなぜだ。おぬしは、殿主は3階建て高さ50尺になると言っていたではないか。」
「はい、上様がお住まいになる3階の上、4階はこの大屋根の中になります。この4階以上の雛形の高さは55尺あります。従って、石垣の上から105尺の高さになります。上様ご指示の高さ100尺となる5階6階を検討するための雛形でした。」
「すると、石垣の形も決まらないので、1階~3階の雛形が作れないと言う事か。なんだ、木村。何か言いたそうなだな。」
「上様から、木材は近江で探せとのことでした。岡部殿は、胴回り15尺(直径150センチ)を求められているのですが、湖西、湖南は、石山寺、比叡山が大木を既に採っておりありませんでした。岡部殿は芯去り材でないと狂うからダメだといわれるので、湖北の朽木、若狭の神宮寺山に入って探しています。」
「そうか、石垣だけでなく、材木の質と量を見ないと、1階~3階の雛形は出来ないという事か。木村高重、おぬしの働きぶりは丹羽からも聞いているぞ。めでたい事だ。」
「勢田の橋ですが、今年の7月には立柱ができそうなので、10月には完成させるつもりです。こちらは芯あり材ですので、調達は既にすんでいます。」
「いや、重ねてご苦労であった。今晩、報償をとらすぞ。そちの城は永原であったな。今晩は高木の館に泊まろう。丹羽、岡部も付き合え。」
佐久間邸の段(プリゼンテーション)
天正3年⒓月1日 佐久間信盛の館
広間中央には、白絹を被せた高さ3mの安土山天主の雛形が置かれています。その脇に座すのは大工・岡部又右衛門。その下手には、御大工・池上五郎右衛門、奈良大工・中井正吉が控えています。3人とも緊張した面立ちで信長を待っています。
信長は5月に長篠の戦いで武田勝頼を破り、8月には加賀・越前を平定し、10月には一旦ではありますが石山寺との和議が整い、11月には権大納言になりました。嫡男信忠も秋田城介に任じられたので、頃合いよしと、かねてから考えていたように、オヤジ信秀が亡くなった歳42歳であるうちに家督を信忠に譲りました。当時は正月が来ると歳が増えました。11月28日、信長は、茶道具だけを持って佐久間信盛の館に移ったのでした。
大工たちは、⒓月1日に岐阜城で皆にお披露目せよと信長から指示があり、準備をしてきたのですが、突然の家督の移譲に何があったのか、これから何かあるのか、不安を抱えて信長を待っています。信長は、丹羽長秀だけを引きつれて登場します。
「ご苦労であった。家督を譲ったものが、天下布武を示す天主を安土山に築き、三国一の桃源郷にするなどと言おうものなら、美濃、尾張の武将たちを束ねる信忠の立ち位置を悪くすると考えて、こうしてまずは内々にした。今日の来る日をワシは楽しみにしていたぞ。城造りは、丹羽を総奉行にし、ワシが馬廻り、弓衆、小姓を使い、直接指揮をする。信忠の手は借りない。信忠には、現地で安土山の全容が見えた時に、岡部からまた説明をして欲しい。まず、日程である。いつ、安土山にワシは移れるか。」
「武者小路の館は、ばらされて常楽寺にあります。3ヶ月もあれば、2月末には西平にできましょう。」
「いつ天守は完成するか。石垣に1年、建築で2年、3年後、天正7年の正月にはできようか。」
「金工、濃絵もございますが、天主だけなら1年半、再来年天正5年6月に立柱できれば天正7年正月にできます。問題は石垣です。石奉行がそれぞれの地で石の山を作って貯めていますが、それを山頂にあげ、積み上げるのは、全くの人足仕事です。馬廻り、小姓だけでは到底できません。人足を集めないといけません。」
「あいわかった。ワシが安土山におれば、武将たちの足軽も呼べよう。いや、武将にも石揚げの指揮をさせよう。滝川一益、羽柴秀吉など、張り切るぞ。丹羽、来年の3月に、人足1万人を集めよ。よし、早く、白絹をとって見せてくれ。高さ10尺の雛形だから、十分の一か。」

池上と中井とで、白絹を丁寧に取る。雛形は二つに割れるように作られていた。まっ二つに割った断面が見えるように置きなおされた。信長は立ち上がり、雛形の周囲をゆっくりと回る。
「善見城金殿玉楼とは、まさにこれだ。中央が大きく割れており、下に宝塔があるのか。岡部の自信作、荒子観音の多宝塔をワシは覚えておるぞ。」
「天下、宇宙の中心となれば、法華経の言う大地から湧き上がる力です。殿主の中心に置きました。」
「ウム、それで、このカラッポのところはなんだ。2階に舞台、3階に橋がある。禅林十境か。」
「ここが、岡部の苦心したところです。
第一に、上様がお住まいになるに、3階は良いですが、2階、1階となると中央部には光は届きません。従って要らないところだと、カラッポにしました。風は通ります。
第二に、カラッポを、4間×6間×高さ8間の吹き抜け架構としました。幸い、長さ8間、1尺5寸の柱材がそろいました。当初はより大きな大材をもとめたのですが、芯去りの均一な材を活用して、高櫓を先に組み、大仏様で固め、架構全体を心柱とします。
第三に、中央にこれを組めば、四方それぞれに大工を配し、競わせて組むことができ、工事が早くなります。
第四に、カラッポにしたので、殿主中央部が軽く、地震の力を流します。上様、押してみてください。
第五に、吹き抜け架構の中に、足場、ろくろと滑車、を据えて、資材の搬入に使います。これも工事が早くなる工夫です。
第六に、3階では上様の専用の通路として中央に橋、周囲に勾欄をまわしました。2階では吹き抜け架構を殿主の中庭に見立てて客座敷に向かう舞台を置きました。吹き抜け架構を活用する道具立てです。」
「なんということだ。岡部又右衛門は日本一の大工だ。」


池上と中井は、雛形を元にもどした。こんどは外観の説明である。
「穴太衆との打ち合わせにより、石垣は変則的な八角形となります。前に上様に見ていただいた天主6階と5階は、8間×10間の長方形の母屋の中央に乗せます。
1階は、石垣に合わせて八角形ですので、そこをどうつなぐかですが、南を正面として、1階から2階で一間壁を下げ、2階から3階でまた一間壁を下げ、屋根が上に乗るごとに、上の屋根を小さくしていきます。このような屋根の低減は、御堂、5重の塔に見られるように、安定した美しさをもたらせるものと、古来行われていることです。
湖上からの見栄えも大切と上様からありましたが、石垣が地山によって伸びざるを得ないと穴太衆が言うので、縋破風をその石垣を中心にして北に流し、千鳥破風を置きました。古来「真、行、草」とございますが、天主と千鳥とは芯がずれる「行」です。1階は現場合わせで、軒先が斜めになりますが、山下からは見えないので、仕事がしやすく、雨漏りがしない形を優先しました。」
「めでたい、めでたい。池上、中井、そちたちの助けがあっての岡部だ。今後も頼むぞ。」
妙覚寺の段(設計変更)

天正4年5月3日、信長は京の宿、妙覚寺にいる。大工・岡部からの手紙に返事を書くところ。
天正4年2月23日に信長は安土山の御殿に移ります。供は馬まわり衆、弓衆、小姓と信長の親衛隊だけでした。4月1日から石垣を積み始めます。まずは、天主の石垣です。尾張、美濃、伊勢、三河、越前、若狭、畿内の諸侍、京、奈良、堺の職人を安土山に集めよと信長は指示を出します。瓦は唐一観が、奈良の瓦職人を安土に呼んで焼かせることになりました。石材の山への引き上げは、人足1万人を集め、昼夜、山も谷も動くかと思われるほどの大騒ぎでした。
信長は、天主・主郭の石垣の根石を自らの眼で確認した後、4月29日に京に上り、二条の関白義春廃邸の庭を気に入り、ここに信長の二条新邸を作れと村井貞勝に命じました。安土山は「「天下布武」の殿主ですが、京では、天皇・公家と付き合う為に、「権大納言」という貴族を装おわないといけません。日本庭園など安土山では望めませんので、こちらはこちらで信長は作事を楽しんだ事でしょう。
4月14日に石山寺が挙兵をし、荒木村重、細川藤孝、明智光秀、原田直政が既に動いていたのですが、信長は京のままです。手紙を書いた後、信長軍が負けた事を知り、5月5日、わずか百騎を率いて大阪に向かいます。相もかわらず忙しい中での安土築城でありました。

「上様、岡部又右衛門です。根石は上様確認のように、変則八角形で積み始めたのですが、現在天主の地山まで組み上げたところで、穴太衆から「母屋の8間×10間を石垣の内部に入れることはできない。8間×9間にならざるを得ない。」と申し出されました。上様も問題だと把握されていた南側の石垣ですが、地山の傾きに合わせ、石垣の内側にゴロタ石を入れながら石積を44尺登らせてきたのですが、傾きが緩くなり、石垣の天端が北によってきたのでした。結果、北東と北西の石垣が危険となり、一間分、北の石垣が南に寄るとの事で、穴倉階は8間×9間にならざるを得ないとの事。この理屈は岡部も納得しました。解決策は石垣の高さを2間=14尺減らせば簡単ですが、それでは上様に怒られます。私は南に1間寄せようかと思います。説明させていただいた、南側の屋根の低減ができませんが、高さは保持できます。」
信長は雛形と、現地を思い出し書いた。
「岡部 高さを減ずるのは問題外だが、おぬしのいう南の屋根の低減をヤメルのもダメだ。8間×9間と、穴太衆に言われるがまま、母屋を減らすのでなく、工夫せよ。岡部は日本一の大工だ。しばらく、ワシは安土山には戻れないが工夫がつかないならワシが安土山に戻るまで工事を止めておけ。」
再び安土山山頂の段(実施設計の承認)
天正4年6月8日、信長と大工・岡部又右衛門は安土山山頂で対峙しています。
信長は5月5日から大坂の合戦に参加するも、6月5日に戦線を離れる。6日に宇治により、この地を井戸良広に与え、二条の妙覚寺に帰郷し、翌々日8日安土山に戻ります。早速、安土山の天守台に向かい、一ケ月止めていた石垣の出来高を見ます。
「岡部、おぬしの考えは?」
「上様、8間×10間でなく、8間×11間と母屋を延ばし、南北共に母屋の一柱列を石垣の上に載せたらどうかと考えました。母屋は地山に乗せたかったのですが、やむを得ません。1~2階の架構を先に固めて石垣上での安定を図ってから、上階に架構を延ばします。天主の5階、6階は、母屋の中央に乗りませんが、南北から見る姿ではそのズレはわからないと考えました。」

「あいわかった。建物がさらに大きくなるのは良い。戦場でそちがいつも作る高櫓を天守台に組み、縄を張り、布をたらせ、ワシが湖上の船から、街道から見て確める。」
6月12日に現地での原寸での試験がなされ、信長の承認を得て、岡部は改めて雛形をなおし、7月1日に信長の実施設計変更の承認を得たのでした。
安土山天守台の段(立柱)
天正5年8月24日 安土山天守台
大工・岡部又右衛門は、組み上げた4間×6間×高さ8間の吹き抜け架構の上に立ち、、湖上からの風を体全体で受け、信長に向かって「やりますぞ!」と拳をあげ、叫んだのでした。
天正5年11月3日 信長は、屋根ふき合わせ(天主の骨組みの完成)を確認して、14日に上洛し、二条の信長の新邸に入りました。
つづく

論考 「小説・安土城物語」のネタばらし 2021年作成
はじめに
NHK大河ドラマ「麒麟が来る。」の建築考証を三浦正幸氏が平井先生に替わって行うと聞き、内藤昌先生の弟子三人は、「彼が新たに復元したという例の吹き抜けの無い安土城天守をテレビに出すのだろうな。こりゃ、早めに大河ドラマ関係者に手を打たないといけないぞ。内藤先生がセビリア万博の為に5階6階の原寸模型を創り、先生がマスコミに追われたのはもう30年前だ。内藤先生の復元は忘れられているのでないか。(注1)先生は自分の復元案を城マニア向けの雑誌に載せるの嫌がったので、今はイラストレータ―が先生の復元案を元にして、好き勝手に「復元した。」がまかり通っている。」と話し、それぞれが、自分の志向で何か書いてNHKに働きがけしてみようということになりました。
2006年に講談社学術文庫から「復元 安土城」が再版(注2)されているのですが読みやすい一般書ではありません。私は、名古屋城天守木造化問題で天守の解説にこの本を使い、「買って読んでよ。」とやるのですが、「読んだけど、難しくて頭に入らん。」です。
「あんな吹き抜けなどありえない。」は、内藤先生が1976年、朝日新聞社の国華に「安土城の研究」を発表してすぐに、宮上茂隆氏からありました。「大工が残した天守指図を元に復元したというが、その指図は、信長公記から大工が推定復元した物」と決めつけ、宮上案を信長公記と遺跡の測量図から作成し「火天の城」という映画に結実しました。
宮上氏が亡くなった後も三浦氏が同じ立ち位置で「新たに復元した。」と三浦案を発表しており、2020年にも、三浦氏が広島大学を退職したあとをついだ中村秦朗氏が日本建築学会に「天守指図は大工の推定復元」を発表しています。内藤先生は、信長公記と測量図と「天守指図」と照らし合わせ、「天守指図」の信ぴょう性を証明したのですが、「信長公記には、吹き抜の記述がない。」事がその論拠です。
私のテーマは「吹き抜け」と「大工さんが作った。」です。
信長は注文主ですが、建築の設計はできません。
建築学会への論文提出は研究者、学者である二人に任せて、私は「大工さんが作った。」というトンチの世界に飛び込みました。築城の記録が信長公記の対象の外にあるのは、当然の事であり、しかも天正4年の工事開始からしか書かれていません。内藤先生も大工・岡部又右衛門の設計作業について具体的に書きようがありません。天主デザインについては、その根底に「天道思想」があったと宗教論を展開しました。

ところが、2011年の「城の日本史」では本の扉に「キリスト教会堂の吹き抜け空間の構成手法に発想を得た、いわゆる南蛮風のデザインとみることができる。」と先生の推定がさらに強調されています。
「復元 安土城」の本文では「道教・儒教、神道、仏教、カトリック教のないまぜの上に、信長を「生き神」として拝ませ、信長の威容「天の主」を形にして示す天主。」とあり、「教会建築として、日本ではバジリカ様式の教会を建設したと思われる。」と具体例を古文書から引き出していました。しかしながら、「教会堂の吹き抜け空間の構成手法に発想を得た。」となると、一般の方には十字架プランのクロス部に積み上げた頂塔(ランタン)をイメージさせてしまいます。先生がお亡くなりなる1年前の出版でした。今となっては先生の心はわかりません。
私は建築家として幾つもの作品を設計してきました。もちろん、お金を払う注文主の要望に応じて設計するのですが、要望を形にして注文主に提案するのは建築家の私です。すなわち「デザインは大工(建築家)の行為であって信長ではない。」です。建築は絵と違い形を作る技術がないと狙いのデザインに到達できません。素人の注文主に「うん、これだ。俺がデザインしたのだ。」と言わせるのが私の最高の仕事です。容易に理解できない内藤先生の「天道思想」を大工が取得して、それから吹き抜けの形に結実することなどありえません。また、私の建築家としての独創性も、いくつかの先例からの奪取があってこそのものです。
信長、大工が見た事もない、煉瓦造の光に満ちた教会堂頂塔の吹き抜けから天主の吹き抜けの発想を得たと捉えられるこの本の扉の文言は間違いです。大工は、どんなに異様で巨大な天主を求められても、持っている木造技術の中でしか作る事はできません。戦国時代ですので、建設スピードも要求された事でしょう。内藤先生の半世紀前のお言葉「石垣技術が未熟であった。」を手がかりとして、私は大工のなした「架構の工夫」から天守の造形を追っていきます。
内藤先生は、国華の附論「天主起源論」では、高く積み上げる天守の架構の事から「せいろう(城楼・井櫓)」案を9案の内の2番目にあげていたのですが、「復元 安土城」では、「天守起源論」を消してしまいました。(ビジュアル版「城の日本史」に所収)「天道思想」も「キリスト教会堂」も内藤先生の推定ですので、私も「架構の工夫」から天主の造形を推定するのもアリではないかと思った次第です。
さらに、欲張って信長公記の行間から、大工の働きを推定しました。大工は私と違い設計だけでなく施工もします。着工の前には安土山の樹木を切り、敷地の造成をし、木材、石材を集めて山に持ち上げないといけません。着工前の準備工事と言います。材料の量を算出するには設計図が要りますし、その設計の前には測量が要ります。大工は信長の了承をいつ?どうやって?得たのか。設計の手順はどうだったのか?私は岡部又右衛門になったつもりで考えました。また、安土の城下町も信長は同時に作っています。大工(建築家)は都市計画にも関わったのでしょうか。
信長公記から安土城の記録と京都の信長の動きをわけて拾い出し、「信長が大工に天主建設を指示した日は、天主が竣工した天正6年正月の5年前までさかのぼる。」が推定した結論です。
安土城物語の主役を張ったのは信長でなく大工だった。と、書いていったのですが、他の二人からは「内藤先生の推定だからキリスト教会堂も信じられる。お前の推定など誰も聞かない。」と言われ、研究室の先輩からは「証明できないのだから小説にしたらどうだ。」と言われ「小説 安土城物語」が生れました。「天主デザインの特徴」「学生時代から持つ素朴な疑問」「石垣技術は未熟」「架構の異様さ」「大工の知恵」のネタは整理整頓することなく小説にしていったので、ここで章立てをして「ネタばらし」の記録を残しておこうとしたものが以下の論考です。
(注1)
名古屋城天守木造化事業に反対する私の仲間から「教科書の副読本では内藤先生の復元案しかない。三浦案はないので気にするな。」と送られてきたのですが、見てビックリです「吹き抜けはキリスト教の教会の様式が取り入れられた。」とあります。「南蛮風とは、レンガ造の西洋建築でなく中国から新たに入った明様式の木造建築である。」と、内藤先生は本に書いているのですが、この副読本の執筆者は読むことなく、本の扉の文だけで書いたのでしょう。

(注2)
内藤昌先生の本「復元 安土城」と「城の日本史」は、内容と出版社を変えて、どちらも版を3回重ねています。本の大きさが著しく違うので並べてみました。図録が多いので大判の方が見やすいです。

私の出典は、1994年の講談社選書メチエの「復元 安土城」からです。特にどこから抜き出ししたかは書いていません。そして、先生が扱わなかった事を中心に書いていますので、安土城の全体を知るためには、講談社学術文庫の文庫本なら今も手に入りますので、購入されることを是非お願いします。朝日新聞社発行の「国華」から「復元 安土城」では、起の第一章と結の第六章は大幅に変わっています。
ビジュアル版「城の日本史」角川書店は、「シロとは都市である。」と始まり、「城とは天守である。」と信じる城マニアの「目を洗う」論考が展開されています。古本が見つかれば良いのですが、こちらも是非どうぞ。
第一章 キリスト教会堂の吹き抜けには光があるが。安土城天主にはない。
天主の吹き抜けを教会堂の吹き抜けに触発されたと思ってしまう単純な間違いは、サン・ピエトロ大聖堂にあります。

十字架プランのクロス部に頂塔(ランタン)を載せている教会は他にも多くあります。頂塔(ランタン)は教会堂全般のシンボルになっています。私にも、館に望楼を載せた望楼型天守と相似して見えます。また、「復元安土城」でも、安土山のシャトー(郊外の館城)と信長のパラダイスとフランス語で書かれた絵を内藤先生は載せています。信長がローマ教皇に贈った「安土山屏風」を見て書いたのかと思われる方もいましょうが、虫眼鏡で見ますと頂部はドームの形です。


ルイス・フロイスが日本に来た1563年の頃の現サン・ピエトロ大聖堂は、ミケランジェロの案で壁を立ち上げたところで工事が止まっており、頂塔(ランタン)は1593年に外観をようやく完成させ、ドームの内側のモザイク装飾の完成は1612年です。ルイス・フロイスにとってのサン・ピエトロ大聖堂は、16世紀に作られたバジリカ様式のものであり、建っている場所も違いました。
フィレンツェでは15世紀に大聖堂ドゥオーモを建ててはいますが、パードレが日本で建てようとしたと記録に残っているのは三廊式のバジリカです。フランス人が「巨大な安土山のシャトー」の伝承から、屋根はドームだと思って描いたのと同様に、「教会堂にはドームがあった。」と単純に間違えておられる方がおり、教科書の副読本の記述もそのたぐいではないかと思います。
三廊式とは、身廊の両側に側廊があるので三廊と呼びます。日本の母屋と庇に相当します。教会堂も木造から生まれた様式です。柱は煉瓦になりましたが、ノートルダム寺院が燃えた事でわかるように、屋根架構は木造です。


インテリアをみると、教会の身廊には、側廊上部にもうけたステンドグラスからの荘厳な光がありますが、安土城の吹き抜けには、トップライトもハイサイドライトもなく、三階の吹き抜けに入る光は、二間幅の座敷を介してとなっており、座敷の建具を開けないと光は入りません。しかも、外壁にうがった窓は小さく10個しかありません。昼なお暗い吹き抜け空間です。
教会の身廊は、多くの信者が奥行きの深い空間に臨み、光に導かれ最奥部の祭壇に向かって「水平」に伸びる祈りの形です。
東大寺大仏殿の吹き抜けはこれより格段に大きいですが、教会と同様に「水平」に伸びる祈りの空間です。多層を繋いで視線を「上に向かわせる」アトリウムではありません。

「天守指図」では、四階階段の明り取りの為にだけの小さな千鳥破風を付けてますが、このように、吹き抜けの全般へ光の照射する工夫は、破風を増やすなど大工なら出来たと思いますが、大工は光を入れませんでした。
夢窓疎石の禅林境地は、高低差を利用した堂塔、楼閣、亭橋の構成により、今も、日本庭園においてその血脈が伝えられています。

内藤先生は安土城天守の内部にも、それらを模すことができると推定を広げました。地下の宝塔は天竜寺十境の亀頂塔や北山大塔に、三階の吹き抜け中央に架せられた橋を東福寺の通天橋や北山殿の二階楼に、5階は将軍館の持仏堂・観音堂に、6階は将軍の座禅修行の場=禅堂です。
宝塔は法華経のとなえる大地から湧き上がる宇宙の造形であり、この吹き抜けの方向性は宝塔によって「上に向かう」のですが、そこには光はなく、二階に遊びの舞台があり、三階には、信長が廊下として毎日使っていた橋が架けられています。そこで、内藤先生もこの宗教性を損なう配置に、禅林境地十景のあてはめをためらい、「天道思想」に行きつかざるを得なかったのだと思います。
カトリック教会の身廊にならって「吹き抜け」を内部に信長が造ったとするのは間違いです。
宝塔の前に祭壇の二畳があるので、訪問者は吹き抜けの下には行くことはできません。祭壇から吹き抜けを見上げると、2階の舞台が正面右にありますが、3階の橋は吹き抜け内部に入らないと見上げられません。橋は闇の中で天井に同化しています。3階は信長の住まいですので、橋の往来できる者は極めて限られます。穴倉階の宝塔は穴倉階だけの主役でしかありません。

私は、吹き抜け・アトリウムを商業施設・研究所において多く設計していますが、「光」を取り入れるべく、必ずトップライトを吹き抜けの上に設けています。
商業施設では、吹き抜けにエスカレータの位置をずらして並べました。各フロアが、お客様同士の見る見られる関係を作りだし、吹き抜けが商業施設の舞台装置となることを狙いました。注文主から「サンフランシスコのノードストロームの吹き抜けが面白い。」と言われて見に行き、更に工夫を加えています。


研究所の地階は、周りの部屋がアトリウムに面して閉じています。井戸の底状態です。そこで、私は「上に向かう」デザインを表すオブジェが欲しく、背の高いアレカヤシを置きました。大工が吹き抜けの底に宝塔が欲しかったというのは、同じ建築家として良くわかります。
各階に展開する研究者のコラボレーション装置としてのアトリウムの提案でした。


光がなければモノは見えず、その空間は存在しないのです。
真っ暗な井戸の底から「上に向かう」視線の先が、なお暗ければ、「恐怖」しか生まれません。
信長も大工も、単に面白いデザインにしようとして、吹き抜を設け、そこに舞台・橋を設えたのでしょうか?違います。
この吹き抜けは、未曽有の大建築を作る為に、4間×6間の吹き抜け空間を構成する架構(柱、梁、貫き)を先に3階までに一気に建て、母屋(8間×11間)の重さを受けとめようと大工が工夫したものでした。心柱という言葉がありますが、この吹き抜けの架構全体が心柱なのです。この証明は第三章以後の章で順に示します。
舞台も橋も、架構の工夫によって出来てしまった吹き抜け空間を、信長が住むためにどう活用するかと考えて、その道具立てとして生まれたものです。この証明は第二章で示します。大工の1階~3階のプランつくりと架構の工夫によって生まれた吹き抜けです。「吹き抜けを作った。」の主語は信長ではありません、大工です。
2016年に原陽子氏が「安土城の吹き抜け」を論じたのを読みました。
内藤先生が復元した断面をみて私は嬉しかったです。内藤先生と同様に、キリスト教会から発想した吹き抜けとも書かれていますが、信長時代の天守についての新証拠はありませんでした。論文では、禅僧の活躍の様相が書かれていますが、学問を積んでも空間を形作る事は出来ません。
原氏はアトリウムとして、三層の修道院の中庭の写真を事例として挙げています。アトリウムの語源は中庭ですので、その通りです。しかし、屋根のない中庭と安土城の閉じられた吹き抜けとは「光」の質が違います。安土城天守の吹き抜けはアトリウムではありません。 平屋建ての日本でも、寝殿作りから、主殿つくり、書院造りと覇者の住居は進化しますが、通風と採光のために中庭を設けていました。 もちろん大工は住居における中庭(アトリウム)の効用として「光」だけでなく「風」があることを知っていました。安土山のテッペンにある天主ですので、風は、小さな窓でもあっても、吹き抜けがあるために、良く通ったと思います

第二章 信長は自身が住むことを要求した。そこに吹き抜けが生まれた。
王が住まう所を自らの権威づけに飾り立てるのは、古今東西の王の常道です。天主の前に「殿主=住まい」(注1)でなければなりません。他国との戦争の戦略を考え、民のもめごとの采配をするのですから、王の住まいは、今でなら「行政府、国会、裁判所」を兼ねたものとなります。
信長は清洲から岐阜に移り、天下布武によって天主たらん(注2)と欲したのでしたが、入京9年を経てよやく天下一統が見えた時に、安土城天主(殿主=シャトー)の構想を抱きました。
シャトー・シャンボールChâteau de Chambord 1545年竣工

ロワール渓谷に点在する館城の内最大の広さを持ちます。シャトー・ブロアの東15km、細いコソン川を堰き止めて、フランス王フランソワ1世の狩場のために当初は計画されました。 夏場の短期訪問を目的に建設されたので、フランス・ルネサンスの王と呼ばれる王らしくイタリア・ルネサンス様式の大きな部屋、大きく開いた窓、高い天井としたので、冬の暖房が行き届きません。また、シャトーの周りには村や集落がないので、狩りの獲物のほかにはすぐに食べ物も手に入らなかったでした。シャトー・アンボワーズを王は離れられませんでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチもシャトー・シャンボールの設計に関与していたと考えられています。彼は当時ミラノから離れて王の元で擁護されており、城のスケッチも残しているからです。シャトーの完成が近づくと、フランソワ1世は宿敵カール5世をシャンボールに招いて見せびらかしました。彼の富と権力の象徴として作られたのです。

シャトー・シャンボールは中央の館と四つの巨大な塔から成り、敵からの防御を意図した構造物は何もありません。低い郭が周囲を回っていますが、大砲には何の役目も果たしません。128mものファサード、彫刻された800以上もの柱、精巧に飾られた屋根のデザインに、ビザンチンの臭いを私は感じます。
ルイ14世は館を改修し調度品を備え付け、モリエールなどの名士を毎年数週間滞在させたりできるようにしました。しかし、彼はベルサイユ宮を建て、1685年にはこの宮を放棄しました。
私には、シャトー・シャンボールは安土城天主に、フランソワ1世は信長に、ルイ14世は安土城完成のあとわずか6年後に大坂城(注3)を作った秀吉に、ダ・ヴィンチは大工・岡部又右エ門に重なって見えます。はるかに離れていても、ほぼ同時代に「国を統一する為の館城」が建てられていたのでした。「名古屋城は守り堅固、日本一の城だ。」と城を合戦としか結び付けられない方に、私は憐憫の情さえ抱きます。
大工は、信長が住む1階から3階をどのようなプランに組み上げたのか。
内藤先生は「信長公記」の元となっている太田牛一の「安土日記」を考察し、京都奉行・村井長門守による「天正7年正月25日、拝見記」を引き写したものだと考定しました。村井は二条の信長の新邸を誠仁親王の御殿に改造する命を受けて、安土城を拝見しに来たのでした。
大工の池上某がついていないと柱の数など素人にわかるはずはないですが、1階の納戸、2階南の四畳、3階千鳥破風の内部にある座敷など、村井が拝見しなかったところは拝見記としては飛ばさざるを得ないでしょうし、村井が背負う平屋建ての御殿にはない穴倉階、吹き抜けは目には見えているのですが、記録する必要がなかったのでした。御殿に改造するのに、狩野永徳率いる画家たちが、障壁画、襖絵をどのようなテーマで描いたか、その部屋のつながりに関心があったのでしょう。そこを中心に書いています。内藤先生は、「国華」では平面図に部屋名に符号をつけ、村井が拝見した順に解説しています。1階でA~X22室、2階でA~L12室、3階でA~N14室ですが、「復元 安土城」の平面図にはその符号がなく、読んでもよくわかりません。そこで私なりに平面図を読み取り、48室の信長の天主の住まいを書いていきます。
!階から3階を並べ、まず、縦に繋がる階段を追いましょう。メイン階段からです。

穴蔵階には東南にある登閣御門から二折れして入ります。宝塔を正面にみて右手の階段から1階に登り、通路を南に行くと右手に迎賓空間の「対面所」(注3)がありますが、そこで、折り返して2階に登ります。登ってすぐ左手に2階の迎賓空間の「対面所」がまたあります。「対面所」のプランは1階と同じです。1階では吹き抜けの周りは納戸ですが、2階は次の間がない代わりに廊下が回り、吹き抜けに向かって東から北に座敷が取りついています。舞台が良く見えます。2階は1階より格上の迎賓空間なのは、外壁にとりつく窓でもわかります。1階では、「対面所」以外は光が入りません。
2階に登って来た階段のその先に幅が半分になった階段があり、それを登ると階段室になります。信長が住む階です。私的空間ですので廊下はなく、部屋から部屋へと移動しますが、吹き抜け内側を回る縁と中央の橋がショートカット通路になります。
次に裏階段を追います。
台所・水棚と座敷の間の東向きの階段は、門の上の座敷に繋がり、クドと炉があります。この上下の座敷は、後世「色台」と呼ばれる家来の控えの間であり、食事の提供も彼らがしたようです。暖く提供したい料理は炉で温め、盛り付けはここで行ったのでしょう。料理は台所丸で作り天主に運びこみました。伝台所丸からは、竈、食器の遺物が発掘されています。
メイン階段の北にも穴倉階とつなぐ裏階段があります。穴倉階にあるトイレに繋がります。天主でトイレはここだけです。3階の信長、奥方、妃、小姓は15m降りないとトイレがありません。2階座敷の客人も同じトイレを使います。
村井の拝見記は、1,2階は南の「対面所」から始まりますが、3階は西にある岩の間から南に龍虎の間、竹の間、松の間、鳳凰の間と左周りに回ります。従って、岩の間12畳が信長の居室です。トコを持ち、西の尾根筋に登ってくる人々の姿が見える西向きの窓があります。北東に、水棚、押し込みをもつ6畳があります。窓も大きく東を向いています。信長専用の茶室でしょう。北西に御鷹の間8畳があります。トコと棚を持ち、画題が「雛の鷹を育てる。」であり、信長の隣の部屋ですので、奥方の部屋だと思われます。
3階から降りる裏階段として、3階の北から中3階の千鳥破風の小屋裏の蔵の上座敷に降り、そこから2階の駒の牧絵の間に降りるのがあります。この二つの座敷は窓が小さく、遠く、客人でなく配下の武将たちと会合の場でしょうか。
2階の御座は、信長が「対面所」に出る時の控えの間です。納戸から着物を取り出して対面の姿を整える間です。西の二段の縁から1階の「対面所」に降りる階段は、信長専用の裏階段でしょう。1階西に座敷がならんでいますが、窓がなく信長の家来たちの座敷でしょう。
3階の信長の階のプランを今の生活と比べると、押入れがありません。平面の四隅に物置があり、ここに寝具、火鉢などを置いたのでしょう。トイレとの15mの上り下りは面倒なのでベルサイユ宮殿と同様に、ここにオマルもあった事でしょう。風呂はありません。
以上、大工が、信長が住むプランを1階から3階にどのように設計したかを見てきました。大工は「天主を高く組みあげる為には、低層ではどうしても大きな平面形となってしまうゾ。住める部屋を並べるのは外壁沿いだけとなり、結果、中央はカラッポvoidとなってしまう。平面の中央のカラッポには光が入らないが、ただ風は通る。なら、カラッポであることを他に生かせないか。」と、架構の姿を同時に思い浮かべたと思います。平面図で部屋割りを考えながら、同時に断面計画が一瞬に浮かぶのが大工(建築家)です。建築家である私は、「吹き抜けの工夫は信長がここに住むと決めた事から生まれた。」と言い切ります。
寝殿づくり、書院造りも、水回りは同じようなものですが、天主の外壁は土壁ですので、住まいとしては、内法高さで外部に開放された御殿の方が居心地良いように思います。(注4)天主の下の段にも御殿があったのは礎石があるので間違いなく、子供の世話をしながら生活する妃はそちらに住んでいた事でしょう。本能寺の変のあと、蒲生氏郷が安土城に来て、奥の女・子供を逃げさせているので、主郭内に信長の家族は住んでいたと思います。
(注1)
殿主は、殿守、とも書き、音はテンシュと天主、天守と重なります。(兼見卿記、津田宗久茶湯日記、安土日記、多門院日記、毛利家文書、大友資料、中井家文書)ひっくり返した主殿も古文書に多く残ります。今も内裏に残る「寝殿造り」と、二条城御殿の「書院造り」の間に、「主殿造り」が室町時代に発生したと太田博太郎氏が主張されましたが、管領細川邸の指図しか根拠はなく、洛中洛外図を見て寝殿造りを簡明に崩した事は類推できますが、「主殿造り」と様式名を付けられるほどには事例がなく、今はあまり言わないようです。
(注2)
当時、美濃大宝寺の禅僧・儒僧である沢彦宗恩(不明~1587年)が、「井ノ口」を周の故事にならって「岐阜」と改名させ、信長のサイン「天下布武」も彼の推薦だと伝わります。彼はその後妙心寺第39世住持となります。信長の京の宿には法華宗の妙覚寺が21回中18回使われていますが、信長には、二度入明した天竜寺の策彦周長(1501年~1579年)、その弟子の妙心寺の住持・南化玄興(1538年~1604年)等、禅僧・儒僧との交流がありました。
(注3)
秀吉は大坂城を安土城完成の6年後に作るのですが、平屋建ての御殿に住みました。ルイス・フロイス「日本史」、大友宗麟「大坂城内見聞録」、大工・中井家所蔵「豊臣大坂城本丸 配置図兼一階平面図」
(注4)
この平面形を「対面所」と言います。「書院造り」は、障壁画が描かれたトコ(押板)、棚、書院の3点セットを上段に置き、脇に華やかな帳台構(武者隠し)を持って殿様の威容を示し、南面する構えであり、南側の次の間は庭に面し、更にその次の間は東に折れて、舞台を持つ庭に面して座敷を連ね広間とします。供の控える色台、遠侍、門と繋がっていきます。

第三章 昭和50年2月の私の思い出「安土城天主のデザインは無茶苦茶だ。」
私は、四階の製図室で、寝袋を持ち込んで卒業設計の作業をしていました。そこに内藤先生が呼んでいると言われ三階の研究室に降りると、内藤先生から「キミ、締め切りが迫っていて作図が追いおつかないんだ。卒業設計中で悪いんだけど、写真をみて石垣の姿を入れるのと、13枚の図面全てに通り芯と縮尺を入れて欲しいんだ。やってくれないか。」と言われました。私には断るという選択肢はありません。当時は100分の1で平面図、立面図、断面図を美濃紙に鉛筆で描いており、「国華」掲載の為には、地図屋さんが、インクでトレースをし、150分の1に縮小し、そこに文字を活字で入れる必要があり、その締め切りが迫っていたのでした。
私は、研究室で復元の作図しているのを横で見ていたので、復元の流れは「復元 安土城」にあるようにボンヤリとは掴んでいたのですが、製図版に向かい、X,Yの通り芯を入れ始めると、石垣に対して建物が随分ずれている事に気づきました。
「なんでぇ?無茶苦茶だ。」素直に内藤先生に聞くと、「そりゃ、石垣積の技術が未熟であり、大工の思うように積めなかったからだよ。根石を八角において、地山なりに積むことで、テッペンに大きな天主を置こうとしたのだが、石垣天端が予定どおりにそろわず、大工は無理をせざるを得なかったのだろう。」 さらに私は「5階、6階が母屋の芯になく南にずれているし、北面の2階、3階の出っ張りも西にずれている。名古屋城天守の均整の取れた上層への積み上げを見慣れている私には無茶苦茶に見えます。五重の塔の屋根が上層程小さく逓減していくのを大工は知らないはずはないでしょうに。」それには、先生は「ずれているのも日本の美だよ。四天王寺の伽藍配置では塔と金堂が一直線に並んでいたのを、法隆寺では金堂と五重の塔を並べて、シンメトリーをわざと崩している。」と、「石垣技術の未熟」を私の芯のずれの疑問の答えとしたのでした。

私は、内心〈北面の2階、3階の出っ張りは、建物の芯を外してはいるが、石垣の中心にある。これは大工が石垣の強度を心配して、建築の芯をずらしても石垣の中心にこの出っ張りの重さをかけたのでないか〉と思ったのですが言葉を飲み込みました。
しかし、5階、6階が母屋の芯になく南にずれているは、どうにもおかしいと、思い続けて40年たちました。
北の琵琶湖に向かって千鳥派風がずれているのは、内藤先生のいうようにカッコ良いと思ったからです。
この時の先生の言葉は「復元 安土城」に書かれていなく、私は40年来の疑問「石垣の未熟さ」が具体的にどこに、どう表れているのかを考えて、「吹き抜けは架構の工夫から生まれた。」に行きつきました。吹き抜けの生まれた理由の二つ目「架構の工夫」です。 第 五章、第六章に書きます。

●母屋と付属屋
一間の母屋の両側に庇が一間取り付く。これが、木造建物の基本です。ローマ時代のバジリカも、タイのお寺もそうです。
これから、私は庇でなく「付属屋」と言う単語を使います。覇者は木造建物を大きくするために、庇の先に孫庇をつけ、母屋は二間、三間とスパンspanの数を増やして行きました。天主となっても、その母屋はあります。しかし、庇は母屋の柱から、架け延ばすだけでなく、別の小屋組みもしていますので、ここでは「付属屋」と呼びます。
これから私の「架構の工夫」を読む前に、あと三つ日本木造建築の知識が要ります。
●屋根の大きさの低減
中国から直輸入した法隆寺の時から、既に上層を小さく低減していくデザインはありました。五重の塔だけでなく金堂も低減しています。皆さん金堂を2階建てだと間違えますが、平屋建てです。荘厳さを出すために、外観を二層にしたのでした。その組み方は、1層目を組んだ上に土台を回し、2層目の柱位置は1層目と通っていません。そして、五重の塔も平屋建てです

●木造の重層は箱の積み上げ
箱を作ってその上に箱を乗せる工法は、五重の塔も同じです。中央に心柱がありますが、テッペンの相輪を受けているもので、地震や風で揺れる心柱を周囲の箱が支えています。
大昔、塔を木で作ろうとしたときは、諏訪の御柱のように穴を掘って根元を埋め、掘っ立て柱としてその周りに飾りを付けたと思います。しかし、掘っ立て柱は根元が直ぐに腐ります。中国において進化した木造建築の架構の技術がそのまま日本に入ってきました。
●通し柱
大仏殿のように平屋建てで大きな空間を作ることはあっても、吹き抜けを中心に層を重ねることは、安土城天主の前にも後にも日本にはありません。木造の重層は各階の箱の積み上げであり、上の階と下の階を「通し柱」でつなぐようになるのは、多層に積む天守からですが、天守は50年で消えました。地震国の日本では、木造での多層建築は無理だったのでした。
古代の建物は、柱・梁が太く、木を組み上げる組積造のような感じの物であり、重い箱の積み上げで倒れなかったのですが、江戸時代になると細い柱を使ったままで、二階建ての町屋が増えてきます。そこで、大黒柱、通し柱が一般的になりました。
●安土城天守と名古屋城天守を比べる。
安土城天守を「望楼型」と呼び、名古屋城天守は「層塔型」と呼んでいます。「望楼型」とは、長篠の戦い図屏風に描かれた長篠城のように、天守の発生は大きな館の上に楼閣をチョコンと乗せて、遠くを望む為のものと考えて名前を付けたのでした。「層塔型」とは、五重の天守を、五重の塔のように低減させて積み重ねることを目指したと考えて名前がつきました。
日本で多層の木造建築が作られたのは、安土城から寛永の江戸城まで、わずかに50年です。その間に石垣、高層建築の技術が進化しているのですが、隣り合って建てるわけでなく、今に残る各地の天守はそれぞれ個性的です。
名古屋城天守は、150年を経て石垣が崩れ、天守が傾いたので大工事をしています。石垣を「立派だ。丈夫だ。」と言うのは城マニアであり、建築家(大工)は石垣を信じていません。熊本地震により熊本城飯田丸五階櫓も、石垣が崩れて壊れました。 大工ならば、盛り土の石垣の上でなく、地山の上に重い母屋を乗せるのが当然です。しかし、安土城天守の母屋の南北は、石垣の上に乗っています。

なぜ?こんなことになったのか。
石垣技術が未熟であり、大工の希望通りに石垣が組めなかった。
それに大工はどう対応したか。
私がわかったその一瞬の絵を清書しました。続きは次の四章を飛ばして、五章、六章になります。
第四章 信長が承認した天主の姿を、第五章、第六章から推定
私の考察の順ではなく、大工の考えた設計を先に示します。
信長が安土山を選び、そこに天主を作れ、と大工・岡部又右エ門に命じたのは、間違いなく信長に注文主としての意思がありました。大工(建築家)にそんな無茶な発想はありえません。
「天主」が文献上はじめて現れるのは、元亀2年7月「上京町衆舞踊遊行」を「二条天主の前」で行った、です。この二条天主とは永禄12年2月から元亀元年四月にかけて、信長が足利義昭の御殿を自ら先頭に立ってわずか14ヶ月で作った御殿の一部です。形はわかりませんが、安土城天主から思うに、足利幕府最強の足利義満が造営した北山第の中の舎利殿・金閣(1399年)を模した楼閣建築だったと思います。義昭が「天の主」として威容を示すために殿主の一部に櫓を組んだのでしょうが、一方、後三年合戦絵巻、一遍上人絵伝にあるように、武家の館城を守るための門構えとしても櫓は必要とされていました。ですので、「二条天主の前」すなわち御殿の入り口の前で踊りを踊ったのだと思います。踊る効果を想えば入り口です。

信長が、義昭を追いやり、自らが天を正すぞと「天正」と年号を改めた時こそ、自らが義昭に替わって「天の主」となった事を示す、その建築「殿主テンシュ」を安土山に作ろうと発意した時だと思います。
「天主」は太田牛一の「安土山御天主の次第」によって、私たちが普通天守と書くところを安土天主とされていますが、安土山全体を「信長のパラダイス」と西欧に伝わっていることから、桃源郷を安土山に表す事を信長は狙い、大工には「安土山の山頂に殿主をつくれ。」と命じたのだと思います。南化玄興の「安土山ノ記」の七言詩を読むほどに、そう思います。信長は政治を行う住まい=殿主を求め、そこに具体的な造形として「義昭の天主テンシュを乗せよ。」と命じたのだと思いました。
政治の為には、京に信長の館を作る方が室町幕府の姿を継承して都合がよいです。実際に信長は二条の信長の新邸建設を安土城と同時に進めています。フランスの絶対君主がパリに館城を作らずルーブル宮の改修をしてパリの短い滞在を過ごしたように、ウザイ京を離れたところに信長の町を作ろうとしたのだと考えます。平清盛は福原に天皇を移してしまい、天皇のいる所が「都」との古代の考えを復活させましたが、清盛は公家化した武士であり、信長は戦国時代の覇王です。信長は、天下布武がなった姿を安土山に形として表現したかったのだと思います。
その後の秀吉などの手紙(第二章注1)を読むと、テンシュの漢字は殿主、天主、天守が混在しています。

注文者と建築家は、早期に建築の意図と、その具体的な形を先例から探し出し、共有することが必要です。「天主」などという巨大な殿主の先例はありませんが、信長の威容を示す背の高い華麗な殿主を100mの山の上に作る事が信長から大工への指示でした。金閣の1階の初期書院造りを拡大し、殿主として3層、4層と高く組み上げ、義昭の天主の造形である金閣の2階、3
階を乗せて飾るまで、この注文者と建築家の間の共有は早期に決まっていたと考えます。安土城天主の5階と6階の構造はセットです。金閣の屋根は杮葺きの寄棟であり鳳凰が乗っています。安土城天守の頂部屋根は瓦葺きの入母屋です。両端には鴟尾でなく、鯱を乗せています。
石垣の上に乗る5層の天主デザインを整えるには、頂部は瓦葺きの入母屋でないといけません。
すると、問題は金閣と大屋根との間をつなぐデザインですが、大工は、見事に一体化した5階、6階の構造と造形を、同時に考え出したのでした。大工が先例を探しに京、奈良を巡る姿を想像しています。まとめるのに時間を要した事でしょう。



岡部又右衛門は、吉田社の太元宮をみて、「これだ!これなら、三間四面の金閣の下で、大屋根に馴染ませることができる。雨仕舞も良い。」と手を打ったに違いありません。法隆寺の夢殿の入側を回した構造を思い出したのでした。四角に内接する八角形から、外にスカートをはかせたように庇を広げるのです。

前代未聞の建築も、建築家には先例からの奪取がなくてはそのアイデアは浮かばず、既存技術の組み合わせでしか、新たな形もつくれません。
内藤先生は「天道思想」をデザインの根源だと論を展開していますが、吉田社も紹介しています。吉田兼和(1535~1610)は信長と交流がありました。大工にとっては、高邁な思想より奪取できる形が欲しいところですが、内藤先生の推定する信長の思想があるとすれば、この内藤先生の文にあらわれていると思い以下に抜き出します。道教、儒教、仏教、キリスト教のゴチャマゼの上に信長はルイス・フロイスが書いたように「生き神」として立つ、です。
「直接には、鎌倉時代以来神道理論の研鑽と改革で実績を持つ吉田家、特に吉田兼倶の「唯一神道」によっていたと考えられる。当時神道界に君臨していた神祇伯の白川家に対抗して兼倶は「神霊管領長上」を自称し、伊勢の神霊が吉田社に移ったとして、京都東山に八角円堂の「太元宮」と言う新様式の建築を創始する。そこには宋儒学をはじめとして道教・仏教の理論を加え、さらにキリスト教のデウス=天主にちかい「国常立尊」の創造主宰神を祀り、唯一神道における宇宙の中核をさだめていることが、小山直子氏のキリスタン研究によってあきらかにされている。五階に八角円堂をもつ安土城天主は、そうした「太元宮」をさらに高層化したものだと言えよう。」
内藤先生の文章だと、「天主は高層化した八角円堂」となりますが、5階の外観は四角の金閣を乗せる台であって、内部の絵は仏の世界です。6階の絵が道教、儒教ですので、道教、儒教の世界観が仏教より上なのでしょう。当時の禅僧、儒僧の世界観を二層分セットで作って、そこにゼウスたる信長が君臨するのだと思う次第です。吹き抜け架構の工夫には、材が細い(1尺5寸角、長さ8間の柱)ままでも強い「吹き抜け4間×6間」を、心柱とする架構(柱、梁、貫き)により、8間×10間の母屋の重さを受け止めとめるとしたのでした。天守指図は8間×11間ですが、当初の設計では、5階、6階は母屋8間×10間の芯に、当然、乗せるのです。そして母屋は、当然、地山の上にあるのです。
吹き抜け架構は、早く作る工夫でもありました。
「信長公記」の神吉城攻撃に、「堀を埋め、城樓を作り大砲を打ちこんだ。」とあります。城樓セイロウとは、井楼組(井の文字の形に楼を組む)の事であり、大工は戦場では工兵隊ですので、城攻めの高櫓を作っていました。大工が信長に説明するに苦労はありません。「井楼を先に組み、その周りの架構は、大工を4班に分けて東西南北を同時に作らせ、競わせます。」
研究室の先輩の水野耕嗣氏の書かれた「安土城天守の吹き抜け構造と熱田大山車楽」の論文から井楼組の写真を拝借しました。仮設ですので井楼組で良いですが、安土城天主は大仏様で固めないといけません。「井楼を先に組み」とは、建て方の考えの説明手段です。

八角の石垣に乗せる付属屋の外壁は、不正形にならざるを得ないし、当然、現場合わせも覚悟していたので、母屋を上層にあげる前に、1~2階の架構を石垣の上に組み、石垣内部にある母屋の安定を図ります。
現代でも、鉄骨造の建物では、鉄骨をどのように組み上げるかの検討を重ねます。建て方中は危険です。設計では最後に溶接で剛接合するのであっても、鉄骨の立柱はボルトの仮止めで行い、水平垂直の調整をします。エレベーター、階段、機械室があるコアと呼ばれる短い鉄骨を組み立てる工数のかかる所を先に組み上げて、危険な仮設状態である工事中の心柱とします。
同じように大工は竣工を急ぐ信長の命に従い、木造の建て方を考えないといけません。立柱から屋根下地材を貼り終えるまで2カ月半でした。製材、加工を事前に行い、一種のプレハブ化もしていたのです。柱材を1尺5寸と1尺3寸と細く統一したのは、プレハブ化の為にも効果的です。名古屋城天守の柱材も1尺3寸からです。その後の天守は、7尺の柱割りに従い柱だらけになっていきます。寛永の江戸城など、とても住めたものではありません。名古屋城天守となると、通し柱が工夫されて来ており、濃尾震災の5強の地震にも耐えました。
2階床高さから、石垣の外周に建てた1階柱に向かって一層目の屋根をかけます。西北の棟が一番長くなるので、ここで屋根勾配を決め、四周同一の勾配とします。よって、石垣外周が2階母屋に近くなると庇の先端は登りますが、現場合わせが容易な合理的な1階の架構でした。1階の石垣の上、先端の柱の建て方は、手前まで2階床を組んだあとで行います。

斜めの軒先瓦は唐一観が現場にあわせ奈良の瓦工に焼かせました。唐一観の新技術によって、瓦の脱型が容易となり寸法精度があがり、黒の発色が均一になりました。今に残るいぶし瓦です。 私が学生の時に疑問に思ったことの一つですが、この軒先の切りあがりは「復元 安土城」にも復元の過程が書かれており、その証拠として軒先がナナメの瓦も後にみつかっています。
同時に、「吹き抜け」を「大材の荷揚げの場所」として活用し、3階、小屋裏4階を載せます。工事が早くなります。

4階の床組みは、吹き抜けの天井となるのですが、周囲に3階があるので穴倉からの足場は要りません。外壁が土壁ですので、外部足場も段々に組まないといけないですが、吹き抜け内部の足場と階段は、狩野永徳グループが襖絵を書いているときも、宝塔のまわりにあったと思います。東大寺1190年の再建時の絵に、ろくろと滑車を使っているのあります。大材を多く引き上げるのに吹き抜けは便利です。
柱を建て始めてから、わずか2カ月半で屋根の葺合わせ(野地板で雨仕舞)が出来たというのは、変形な地形に、17間×17間の方眼紙を合わせて、4間×6間の吹き抜け架構の位置を決め、大工・岡部又右エ門は一気に各階の平面と断面を描いたからでした

第五章 石垣技術の未熟さから設計変更があった、の推定

大工は、地山に沿って、外形を八角形にする根石(地山を掘って水平に構える一段目の石)の線引きを行い、設計をしたのですが、穴太衆から「危険だから、石垣内部の穴倉を1間狭くしたい。」と、言われ頭を抱えます。
石垣の高さを2間、14尺下げればよいですが、それでは信長の怒りをかい、到底大工は言い出すことはできません。天主全体を南に寄せれば母屋を穴倉に納める事は可能ですが、南側を正面として塔のように各階を低減していったデザインができなくなります。
天正4年5月3日に信長は京から安土に普請の指示をしたと「信長公記」にありますが、大工から信長に相談をかけたことでしょう。

第六章 大工は架構の変更をどのようにしたのか、の推定


7月1日に信長が安土に戻った時、大工は雛形を修正して信長の了解を得たのですが、そのアイデアは、母屋を8間×11間と大きくする事でした。5階、6階が大屋根の芯に乗りませんが、信長は天主がさらに大きく成る事であり、信長を喜ばせる案でした。
南北の母屋を一間増やす事によって、南北両方の母屋の端を盛り土の石垣に乗せて南北のバランスを取りつつ、1~2階の小屋組みを急ぎ、石垣上部全体に母屋の重さを分散する方法を図ってから、その後、2階、3階、4階と箱を母屋として載せていく建て方です。大工を4班に分け、既に立ち上がっている「吹き抜け4間×6間」の周りで競わせるのは、1~2階の小屋組みが完成してからに、延ばされました。

●「信長公記」からの抜き書き
安土城の工事を京都の工事と分けたことによって、工事の進捗がわかりやすくなりました。
京都の信長屋敷を安土山に移築し、信長が移り住んだところからしか「信長公記」には書かれていませんが、その2年半前に信長の安土城建設の命は出されていました。

信長は、元亀4年7月18日に足利義昭を京より放逐して「天下」を取り、上京を焼き「天皇」をも支配下に置き、7月28日に年号を「天正」即ち天を正すとします。
信長は、上京が焼けるのを見つつ、信長の都(城)をウザイ京都を離れて作ることを考えました。パリを離れてベルサイユ宮殿が作られたのと同じです。
朝倉、浅井を滅ぼし、彼らの城と城下町の先進性(平山城、城を囲む武家地、街道に町人地、寺社配置)を信長は見ます。
「信長公記」記述の2年半前の建設の命でないと、道を作り、山を造成し、大木を調達・製材することはかないませんが、なにより「天正」という新たな時代が安土城を求めたのでした。
第七章 なぜ?アヅチ山が信長の城として選ばれたのか。
天正3年(1575年11月、信長42歳。父・信秀の亡くなった同じ歳に、権大納言、右近衛大将を朝廷よりいただき天下人(注1)となると、嫡子・信忠に大名としての家督(美濃、尾張)を譲り、翌年天正4年2月23日に安土山に移ってしまいます。「山」とあり、平地ではありません。「山下に馬周りの屋敷を作れ。」ですので、山の上に信長の住まいが既に用意されています。石積みが4月から始まるともあり、山地の切り盛りする工事を直接見て、信長は指示をしたかったのでしょう。天正4年正月中旬、丹羽長秀に安土山普請を命ずるとありますが、その前に、測量、樹木の伐採、荷揚の道整備、設計、積算、石材集め、木材の手配など、設計と準備工事が必要です。佐和山では二カ月余で巨船をつくっていますが、建築の大材は乾燥させないと製材できません。伐採から一年半はかかります。
天正3年11月、木村高重を奉行として瀬田川にかかる橋の柱を立てています。木村は長秀の下で安土城の建設奉行を実質的に担い、信長から狩野永徳、岡部又右エ門等の職人と同列に小袖を木村治郎座衛の名で拝領しています。蒲生賢秀と同様に新たに信長の旗下に入った近江の国人なのですが、この時は既に安土城の材木も近江の近在から用意していたと考えています。
いつ、どこで、信長はアヅチ山(注2)に城を作れと大工に命じたのか。 天正元年(1573年)8月28日 虎御前山の山頂にある信長の館だと推定します。天主が竣工する5年前です

浅井長政の最後を信長は小谷城の京極丸まで秀吉の先導で登って確認しています。小谷城は今も400mの山頂に石垣が残っていますので、その姿を想像できます。岐阜城の金華山は頂部が狭くいわゆる山城ですが、京極丸には千畳敷と呼ばれる館跡があり、井戸もありました。郭が尾根伝いに連なり、信長がアヅチ山に望んだ平山城の手本となりました。
設計を始める前には企画が要りますが、注文主が建築家に設計を依頼するには、「あんなの作ってよ。」が早く、的確に意図が伝わります。大工もこの朝倉、浅井攻めには。桶狭間以来の工兵隊を率いて参戦していました。 朝倉、浅井攻めで、岐阜と比べて信長をおどろかせたもう一つが、朝倉氏の城下町、一乗谷です

朝倉孝景は戦国大名の第一号であり、その繁栄は「小京都」と呼ばれていました。これも「あんなの作ってよ。」です。
信長が一乗谷を焼きつくしてくれたおかげで、田んぼの下から一乗谷の全容が発掘されています。洛中洛外図を参考に、現地には建築が復元されています。
谷あいの城下町に、北陸街道を呼び込み、町の両端に巨石を用いた虎口があります。町全体が要塞の構えでした。街道沿いに町人地が並び、朝倉の館城の周りには、配下の武将たちの館が並んでいます。大きな寺もありました。敷地造成の為の野面積みの石垣、庭園の石組が今も残っています。


信長は自身が岐阜に移っても、尾張の配下を岐阜に集めることは出来ませんでした。山村亜紀氏の研究によって岐阜の城下町の景観が復元されていますが、武家地は一乗谷に比べてとても少ないです。地侍は自身の領地から離れず、戦闘に応じて集まるのが今までの武士の姿でした。信長は朝倉氏の軍団の強さの秘訣が城下町造りにある事を見たのです。なお、朝倉氏も山城を持っていますが、これは逃げ城であり、岐阜の金華山と変わりません。
この時期の信長は、まだ天下統一ははたしていません。比叡山を焼き、将軍義昭を追い京都と岐阜とをつなぐ近江を押さえただけで、六角氏は甲賀に逃げ込み、石山寺との戦闘が続いています。摂津、河内、奈良も、新たに国人を配下に加え制圧したかに見えますが、いつ謀反を起こされるかわからない配下でした。実際に松永、荒木に謀反をされます。
将軍を追いやった以上、京の天皇・公家と直にヤリトリをしないといけません。岐阜と京都は2泊3日かかりました。そこで、京都により近く、天下布武を成し遂げたい信長の新しい城をどこに築くかです。
信長は金華山300mを上り下りするのを全く気にしていませんでした。山頂から眺める濃尾平野の雄大な景色は、信長に「天下」を意識させました。押しなべて、覇王は高い所が好きです。今なら「自社ビルは超高層ビルにするゾ。」です。 明治26年の地図を見ると、高さ100mのアヅチ山は「射場内湖」に囲われており、六角氏の観音寺山城から流れるなだらかな小山です。地図を反対にして、虎御前山から見ると、琵琶湖の全容が見えます


観音寺山の北に、古代からの東山道があり、六角氏が「楽市楽座」を布した城下町「石寺」があります。2年前に坂本に明智光秀を佐和山に丹羽長秀を置いていますが、信長の上洛にはアヅチ山の右に見える常楽寺湊から坂本まで船を使っていました。京、大阪での戦いに大軍を寄せるには瀬田川を渡るのが難しいので、信長は佐和山で巨船を作ったのでした。
「琵琶湖を船力で抑え、旧勢力の六角氏のど真ん中に、信長の威容を誇示する、小谷城の10倍規模の殿主を建て、平山城とし、その山下には東山道を引き込み一条谷のような城下町を作る。」この信長の企画にかなう適地はアヅチ山しかありません。そして、全てに先例があったのです。
この時に、信長は秀吉に「長浜」の建設を命じます。秀吉は小谷城の城下町をそっくり移し、湊の整備をしました。そして、巨船を分解すると共に瀬田川に橋を架ける命も出しています。
石田三成が長浜で秀吉に抱えられた事が有名ですが、城奉行で有名な小堀遠州の父、小堀正次も抱えられ豊臣秀長の家老となります。新たに国を制すれば、その国人を配下にしていきます。家康は武田を滅ぼし、その国人を配下にしています。秀吉は中国の宇喜多を旗下に入れ重用しました。信長が京を支配すれば幕臣であった細川氏だけでなく、室町幕府の配下、職人も得ます。信長は室町文化を継承し破天荒な安土城をアヅチ山に築きますが、その影響は秀吉、家康の多くの配下を通じて、近世の技術・芸術の系譜に繋がり近世文化の源となりました。
信長の思い「安土山を俺のパラダイスにする。」を実現した大工・岡部又右衛門の凄さを改めて思います。又右エ門の父は、幕府御大工・池上五郎右衛門の番匠をして技術と名声を得たのですが、信長は新たな城を京の御大工に頼まず、戦場を共にし、堀をほって土塁をつくり、柵を立て、橋を架け、井楼を立て、巨船を作らせた岡部又右衛門に、自分の夢を託したのでした。
夢枕獏の小説「シナン」には、スレイマン1世に従軍し、最後には世界一のドーム、エディルネのセリミーエ・ジャーミイを作った建築家シナンの生涯が描かれていますが、建築家は注文主の夢の大きさによって、その仕事ぶりが決まるものだとつくづく思っています。
(注1)
信長の天下とは、日本全体を指すのでなく、畿内を中心とした天下であり、越後の上杉、甲府の武田、関東の北条、四国の長曾我部、中国の毛利は信長には他国と認識されていたとの論考が定説になりつつあります。秀吉が東北、九州に大軍を率いて戦わずして制圧していますが、信長が「ぼんさんを私だと思い、毎月お参りしなさい。」とした事は、戦わずして日本全国を従わせることを、秀吉と同様に考えていたと思います。明国に日本国王として使節を送る時の信長の城は大坂にあった事でしょう。アヅチ山は近江から畿内を押さえ、滝川を関東に、柴田を加賀に、明智を丹後に、秀吉を播磨にと、他国を侵略する拠点なのでした。信長は東北から鷹、馬の贈り物を何度も得ていますので、遠国が関東の向こうにある事は知っていたでしょう。当時の足利幕府の勢力圏を重ねると、信長の天下とは、畿内から三河までの範囲がぐるりと京都を中心に広がったぐらいだと、私も思います。
(注2)
アヅチ山と書いたのは、一つは「山」にこだわりたかったからです。信長公記、南下の七言詩、ローマ教皇に送った屏風、全てに「山」がアヅチに付いています。近世になると、領主の城下町が領国を治める起点となりますが、信長には城下町より、自ら住む館城を中心としたアヅチ山を蓬莱山に仮託する事、その夢の実現が必要だったので、記録者はそれをなぞったのだと思います。
カタカナのアヅチとは、なにかプロジェクトを起こすときにプロジェクト名が必ず必要だからです。南下が天正7年に、「平安楽土」から「平安京」が命名されたように、「平安楽土」から「安土」が命名された、とするのでは遅すぎます。南下の漢字の後付けが今に残りましたが、「アヅチ」とこの辺り地域を地元では呼んでいた、という事実が先にあった事を内藤先生以上に私は強調したくカタカナにしました。
場所が特定できないのでは、プロジェクトの進行などできません。射場内湖と書きましたが、明治の地図では「伊庭内湖」です。アヅチとは、内藤先生の説明ですと「弓道の練習場」だそうですが、その由来はともかく、アヅチという地名はあったのでした。
第八章 敷地づくり、準備工事。まずは天主だ。
天正元年(1573年)8月28日 虎御前山で「又右衛門、てっぺんに100尺の高さの殿主を建てよ。3年だ。オヤジが死んだ42歳には、信忠に家督をゆずり、アヅチ山に移る。」と言ったかどうか、わかりません。近江支配の城とすれば急がないといけないですが、信長が各所で勝ち続けるうちに、殿主が未曽有の天主と変質していったという事も考えられます。企画というのはえてして長く不確かなものです。敷地がわからないのでは基本設計にはいれませんので、まずは敷地づくりです。
この年7月28日に信長が希望した「天正」に元号が変わりますが、天を正すのは容易でなく、この朝倉、浅井攻めの後、すぐに北伊勢に攻め込むも一向一揆にてこずり、鎮圧には天正2年9月までかかります。この頃までには、山の樹木を切り倒し、下草を刈り、敷地の目星をつけていたでしょう。山岡景隆、蒲生賢秀、木村高重のような、この地の国人も信長の配下に入り、近在の百姓の動員も出来るようになっていたと思います。天正3年には、石垣の石を集め、材木の手配を始めないと天正4年の着工に間に合いません。高重は天主の最後も見ます。

信長はようやく天正元年11月4日に上洛し、12月2日に岐阜に戻っています。この前後でアヅチ山を船からジックリ眺める事ができました。テッペンの天守は決まっていますので、北、北西、北南、南、南東の5本の尾根をどう使うかですが、常楽寺湊から近い、北西の尾根、今の百々橋からの尾根筋がメインとするのはすぐに決まりました。
岐阜の金華山の登山道は何本もありますが、馬で登れる七曲がりが正統な道です。今の百々橋からの上りはすぐのところが急ですが、後に寺と神社が山道の上に建てたので山道が見えなくなったのであり、かっては、いったん北に折れ、現・会勝寺の境内から南に戻り、石部神社を通っての尾根に出たと思います。ここにクランクを一つ入れれば、馬でも登れる正統な道となります。
「伝大手道」が石段積みですので、そちらが正統な道と今は思われていますが、「信長公記」の記述は百々橋からしかありません。安土城下町も百々橋から繋がっています。


当時、安土山の南には内海がまわっていました。内海を埋め立てて造ったセミナリヨの史跡公園には、当時の湊が復元されています。現在「安土城お堀めぐり」という看板が建っていますが、これは掘った堀り割りでなく、埋め立てで残された水運の為の水路です。今の安土山の周りはこのような埋め立てられた水田で囲われ、当時の内湖に屹立した安土山の形が見えず、さらに、「伝大手道」という呼称が安土城の姿を惑わせています。小牧山の信長の城の「伝大手道」「小牧城下町」も史実ではありません。大手道とは、江戸時代の平城で使う言葉です。、城下に街道が引き込まれて町人地が作られます、その街道に向かう門を大手門と呼び、大手門から街道までを大手道と呼びました。大手道の両側は武家地です。この意味で言うと、百々橋に至る尾根筋が大手道となります。
伝大手道は荷揚げの為の道であった。

中世になると、一遍上人絵伝にあるように、山の上に寺社を建てます。寺社の施工の為の道が参拝の道になっています。金比羅さんの石段がわかりやすい例ですが、あの石段は前後の駕籠かきが調整して駕籠を担ぎ上げていますが、大材、大石を人が担いだり、牛馬に2輪を引かせて登るのは無理な勾配です。引きずりあげたのでしょう。清水寺は古代から造営が始まっていますが、五条からの尾根筋の道があり、牛馬でもって資材搬入ができました。。


百々橋からの尾根筋を使って資材を人手で担ぎ上げるより、船で伝大手門に資材を運び、谷間を削って作った頂上に近い直線ルートを、太綱を使って一気に持ち上げた方が大材、大石に効率的です。天正4年4月に石の担当奉行でなく、武将の織田信澄、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀が出てきて、人足1万人、三日三晩で石を引き上げたと「信長公記」にあります。一万人はともかく、大勢の人足が太綱を引っ張る場所は伝大手道しかありません。
砂利を斜面にまいて叩き、コロを敷いて、その上をソリに乗せた大石を何百人かで引いたのでした。
安土山の石垣の石は、一条谷、大和郡山城石垣の丸い河原の石と違い、尖った石が多いです。


「信長公記」には、観音寺山、長命寺山、長光寺山、伊庭山と石材の出所が書かれています。寺とつく山なので、人の入りやすい山だったのでしょう。それにしても、事前に石切りをして安土山の麓に石を持ち込まないといけないので、4人の石奉行がそれぞれ分担して、1年前から集めていた事でしょう。六角氏の観音寺山城に残る石垣は山の上の方にしか残っていないので、山麓の取りやすい石垣から多くの石を安土山に運んだ事でしょう。
天正4年4月の石積み開始から、まずは一番工期がかかる天守台を作り、翌年の天正5年8月24日の立柱に至ります。立柱には、材木の荷揚げ、切り込みもいりますので、天守台と主郭の石積みに14カ月程かかっています。平城の名古屋城は、大名普請で集めた人足の20万人を同時に使って石積みにとりかかることができましたので、8ヶ月で石積を終えています。
山の上での建築施工の前には、敷地造りの土木工事(山地の切り盛り、石垣積)あり、その前に石の荷揚げの道を作る事が肝心でした。


現在の伝大手道の石の階段の姿から、誠仁親王が天皇となって、安土城に御幸される事は十分に想定されますが、あの40度の急こう配を輿にのって登る事はできません。ひっくり返ってしまいます。安土山の南側に東山道を引き込んで作った脇街道に対して、信長の威容を示したのでした。私は観音寺山城の石垣を南の東山道から見上げて「信長が、また、真似たんだ。」と気づきました。
第九章 天守以外は、移築でスピードアップ
摠見寺の敷地を「西平」と私は名づけ、この地の仮設活用を考えます。山頂の主郭に平な土地が取れない中、この尾根の上は貴重な平地です。転用が何度もされたと考えます。
最後には摠見寺(第九章でまた書きます)の境内となるのですが、この平地には信長と大工の間で「西平」というようなこの地を示す名前がついていたと考えます。
全て移築により、摠見寺の伽藍を「西平」作ると決めたのは、天正6年正月に永徳の濃絵で飾られた行幸御殿が主郭内に出来た後だと考えています。その御殿は、内藤先生の言う足利義昭の御殿を移築したものであり、更に私は踏み込んで「南殿」とよばれるものであり、天主の南、伝二の丸に作られたと考えています。
安土山で相撲、二月力士300人、八月力士1500人と書かれていますが、安土山でそんなに多くの人が集められるところは「西平」しかありません。摠見寺の移築工事は、安土山での8月の相撲がおわってからでも、天正7年5月11日吉日の信長の正式な天主への移徙に間に合ったと思います。伽藍の全てがそろうのは、天正8年5月までかかったのでしょう。5月に信忠、、信雄に安土山に屋敷を作れと信長から命じられており、「西平」から主郭の間で、彼らの敷地が用意できた事は伽藍の配置がすべて整ったと考えるからです。
南殿、天主、御幸御殿、摠見寺、侍屋敷の順で、仮設が本設となっていったと考えるのは、施工手順からです。石垣用の石、材木、の置場に当初は「西平」が使われて、飯場小屋も建っていた事でしょう。主郭は、なにより天主の躯体建設のための仮設用地がいりますので、天正5年11月の屋上葺き合わせまでは、ごった返していたと考えます。主郭が整って初めて「西平」に摠見寺の伽藍が建てられます。天正8年5月に安土山で2回相撲が行われていますが、それぞれ織田一門と馬周り衆の見物であり、近江からだけの力士ですので、もう力士1500人と言う事はなく、摠見寺の本堂の前の広場で相撲はできたのでしょう。
そこで、天正4年2月23日に信長が移った安土山御座ですが、馬廻りは山下に住まわせおり、工事大好きの信長は、天主の建設現場をまじかに見られる「西平」に建てさせたと考えます。
石垣の積み上げ工事中の主郭にはとても御座を建てる場所はないですが、「西平」なら、石垣で周囲を固めなくても、仮設の御殿が作れます。この御殿は、元亀3年3月に武者小路に作った信長の館を移築したのでしょう。将軍義昭に言われて建てたのですから、将軍の館より小さく貧弱だった事でしょう。まだ、信長の本拠は岐阜であり、京の館の維持に人はさけなかったとも思います。信長はこの館を使わず京の宿は妙覚寺としています。
元亀4年四月に義昭を京から追い出したあと、朝倉、浅井を討ち、京との付き合い方も考えての、アヅチ山への築城ですので、早期にこの館は作った池上五郎上衛門によってばらされており、荷揚げの為の直線道路が出来たところで、真っ先に荷揚げしたと考えないと、信長の「御座普請が気に入り、丹羽長秀に茶碗を贈る。」出来栄えにはなりません。天正4年正月中旬の丹羽長秀への「安土山普請を命じる。」は、総奉行を命じられただけであり、石垣奉行を行った西尾義次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某も、木村重高と同じ近江の国人であり、大工・岡部又右衛門と共に、天正3年の夏ごろからは、準備工事に入っていたと考えます。
信長は、天正4年4月、石垣積み始めから、天守台の八角形の根石の確認までして、4月晦日に上洛し、関白二条義春の屋敷跡に「信長の新邸」を作れと命じています。「武者小路の信長の館を移築」と辻褄があいます。
摠見寺の伽藍
本堂 裳階付き三間仏殿 甲賀郡古刹移築 消失
方丈(書院) 安政元年11月消失
庫裏 安政元年11月消失
鐘楼 明治年間朽廃
熱田社・同拝殿 甲賀郡より移築その後不明
三重塔 享徳3年上棟・天文24年修理甲賀より移築
慶長9年修理 現存
楼門 元亀2年上棟 甲賀郡長寿寺より移築
現在は、塔と楼門の二棟しか残っていませんが、木曽路名所図会にあるように江戸末期までは、伽藍があったようです。


第十章 摠見寺こそ、信長の思想
はじめに
摠見寺は臨済宗妙心寺派の寺院であり、伝徳川家康邸の跡に仮本堂を建て、、今も安土山の持ち主として存続しています。寺伝では、開祖は信長の大伯父織田信安(犬山城主 ?~1591)の三男、正仲剛可となっていますが、それは信長の亡くなった後の事であり、信長がアヅチ山に寺を急ごしらえでつくり、招いたのは正仲の師である津島牛頭天王社の僧=堯照法師でした。今は津島神社と呼びますが、明治の宗教革命「廃仏毀釈」が、信長の思想をわかりにくくしています。社にいる僧なのでした。
妙心寺ですので禅僧と思うところですが、道教を探求する儒僧と内藤先生がご本で解説されると、禅宗も道教も儒教も神道(吉田兼倶)も理解できない私には「ああ、そうですか。」とうなずくしかありません。さらに、天主教と訳されたキリスト教も加わり、「信長は唯一絶対神デウスを憧憬し、生き神とあがめられる事を求めた。」となると、もう私の頭はゴチャゴチャです。
ルイス・フロイスが「日本史」で書いているのは、彼の眼から見ての信長像であり、信長が深く知りえないデウスになろうとは思うはずはないでしょう。古来日本では、生き神としてあがめられたのは天皇です。しかし、信長は天皇をどのように自らの権力に組み入れようかと腐心はしていますが、「ボンサンの石を我と思い毎月11日の我の誕生日に寺にまいれば、富・子孫繁栄・長寿・平和・安楽・病気治癒・希望・健康・平安の功徳が得られる。」のでは、当然天皇に替わろうというものでなく、道教、儒教、仏教、神道、キリスト教とは無縁の事であり、まさに現世を祈りと共に生き抜こうとする庶民の願望とピッタリあっています。幼いころから、津島牛頭牛頭天王に親しんでいたからでないでしょうか。
毎月の命日におまいりする月命日、月一回の弘法さんの縁日、菅原道真を祀ると、頭を巡らすと、日本では死者を祀る例には困りませんが、「生き神」となると、庶民に人気のある新興宗教しかありません。神道系が多い様に見えます。「誕生日」というのはキリスト教からのように感じますが、新興宗教の「生き神」様はどうなのでしょうか。
「大工に「天道思想」などわかりようがない。」と私は断言し、大工(建築家)は先例を探しもとめ、持てる技術の内から、架構の工夫をして「吹き抜け」が作られた、と私はここまで書いてきましたが、信長も尾張の田舎から遅れて現れた戦国大名です。「天道思想」なるものを果たして身に着けていたのでしょうか。
足利将軍に替わり自らを天下人だと意識せざるを得なかった時は、すでに40歳となっていました。ようやく岐阜を攻略したあくる年、義昭を奉じて京に入った時は35歳です。この5年の間に、二度入明した天竜寺の策彦周長(1501年~1579年)に教えを乞うのも、ルイス・フロイスの話を聞くのも、京の雅やかな文化、外国の先進文化に好奇心とあこがれは持つことからであって、それらを「信長の思想」にまでする必要は信長にはありません。
5階の仏教、6階道教・儒教の画題を高僧に求めれば、あとは狩野永徳が描いてくれます。信長と信長の客が共に「あこがれ」るものでありさえすれば良いのです。
この章のタイトル「摠見寺こそ、信長の思想」とは、信長が若くして自然に身につけていた「庶民信仰=牛頭天王まつり」を探るものです。
「木瓜紋 もっこうもん」は、信長の紋で有名ですが、この紋は、今も牛頭天王を祀る津島神社、八坂神社の紋でもある事をご存じでしょうか。

木瓜紋を津島神社から織田家が得たという記録はありませんので、織田家の由来を書きます。
織田一族は、室町幕府の重臣・斯波家が守護大名であった越前から応永7年(1400年)に尾張に主家と共に移ってきており、尾張守護代を世襲したのですが、応仁の乱(1467年)では織田一族も割れ、文明11年(1479年)尾張上四郡を織田伊勢守家、尾張下四郡を織田大和守家が清州を新たな守護所として治めることで和睦が成立したのでした。 織田信長の曾祖父・良信は、織田大和家の分家から出て清洲の三奉行と言われ、織田弾正忠家をおこし、信長の祖父・信定(?~1538年)が、中島郡・海西郡に勢力を広げ、津島の川湊を押さえ津島に居館を構えています。永世年間(1504~1521年)に津島の北東の勝幡に城を構え、信長の父・信秀(1511~1552年)が城を継ぎ、この城で信長(1534年~1582年)は天文3年5月に生まれました。
元禄15年の津島祭りの記録「大祭り勘例帳」には、大永2年(1522年)から元和4年(1618年)までの津島5村が出す車楽と置物が記されているので、信長も現在とほぼ同じ祭りを見ていた事でしょう。子供時代に祭りを見たという記録が残っています。

当時の木曽川は佐屋川、日光川、大江川、五条川と上流で幾つも分流しており、津島は満潮に乗って川を上ってくる桑名(畿内・西国)からの川湊として、応仁の乱で焼けた京に祇園祭りが復活した明応9年(1500年)以降には、尾張(国府宮、一宮、萱津、下津、岩倉)への湊として栄えていた事でしょう。
熱田の湊の繁栄は名古屋城・堀川が出来てからです。

以上の織田家の由来から、信秀が中島郡・海西郡の国人から戦国武将として尾張をまとめ、今川・斎藤に戦いを挑むのには、当然、津島の財力があっての事であり、津島牛頭天王社から紋をもらいうけ、織田弾正忠家の旗印に使ったとするのは間違いがないでしょう。津島神社の伝承では、信長の氏神かも?とありますが、現代の氏神・氏子の関係とは違い、領主とその在地の神社でかつ寺であり、津島の牛頭天王信仰は、国人が寄生する領地の財力の象徴なのでした。
津島神社 天王まつり
津島神社の縁起「津島牛頭天王祭文」では、「欽明天皇元年(540)に、対馬より・・・」とありますが、延喜式神明帳(927年)にはありません。文献上の初出は1175年に、伊勢、熊野、多度などと15カ所の権現大明神の中に入っています。牛頭天王は、残る鉄灯籠に「天王御宝前奉灯籠 延□二年六月十五日」とあり、延応とすれば1239年、延慶ならば1308年と、いずれも鎌倉時代には天王がいたことになります。
室町時代も応仁の乱以降には、津島御師による東日本への天王信仰が広められたのでしょうか。御師の活躍は伊勢神宮が有名ですが、疫病は都市民の最も恐れるものであり、江戸時代の津島御師によるお札と祈祷の記録は多数残っています。農村では、人だけでなく稲の疫病「虫よけ」も含まれていました。津島の友人は「西は八坂神社で、東は津島神社とわけたのよ。」と言っています。
楼門は秀吉の寄進と伝えられ、本殿は尾張藩主松平忠吉の病気平癒祈願のために、彼の妻女が寄進したと棟札にあります。

都市化が先に進んだ九州には、八坂神社の祇園まつりが早くから伝わり、福岡、佐賀、長崎、大分とあり、博多の櫛田神社の博多祇園山笠は特に有名です。津島神社天王まつりは八坂神社と分け合ったのでなく、中世において八坂神社から伝わったのであり、紋も同時に伝えられたのでしょう。江戸時代には、天王まつりは川越、秩父、奥州市日高まで北に広がっています。
八坂神社 祇園まつり
八坂神社とは、「廃仏毀釈」による改名であり、江戸時代までは祇園神社でした。同時に比叡山延暦寺の感神院と号し、中世においては、祇園社は延暦寺の末寺とされ、山門の洛中支配の拠点となっていました。祇園社まつりは神輿渡御を中心としたものでしたが、これに現在見られるような山鉾がともなうようになった時期は明確には分かないです。私は足利義満が明と貿易を行い、その商いに参加した町衆が力をつけたころ、15世紀ごろからだと思います。

夏に流行る疫病は、都市民の恐怖の的でしたが、牛頭天王にお出まし願って、賑やかに疫病に退散してもらおうという祈りの夏まつりです。洛中洛外図に鮮やかに描かれています。
社伝では、貞観18年(876年)に、播磨国広峯から仏教の聖地である祇園精舎の守護神である牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られた。とあるのですが、一方、都の禍を招く悪霊を鎮める官立の神社が京都には六柱あります。
桓武天皇の弟の早良親王をまつる御霊神社、平安時代に比叡山延暦寺を立て直した元三大師をまつる廬山寺、菅原道真をまつる菅原院天満宮、明治天皇が崇徳天皇の呪いを鎮めようと1868年に創設した白峰神宮、陰陽師安倍晴明を祀った清明神社、昼間は天皇に仕え、夜は閻魔大王に仕えた小野篁をまつる六道珍皇寺です。祇園まつりとの関連はあるようでないような、私にはわかりません。
信長の言った「まいれば、功徳が得られるゾ。」と繋がるのは「蘇民将来」のお話です。一応、ウイキペデイアから入れておきます。
〇旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
〇茅の輪潜りともに、「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される民間信仰である。
那古野城の牛頭天王 熱田社
信長は12歳(1545年)から22歳(1555年)の10年間、那古野(なごや)城の城主となります。清州の8年、小牧の4年、岐阜の9年、安土の6年と比べ一番長く、若い信長の人格形成に那古野での生活は影響を及ぼしたのでしょうが、町の姿はわかりません。 現在のニの丸に信長の館城があったであろうと推定されています。
那古野の牛頭天王は、家康が名古屋城を作る時に「亀尾天王社」として二の丸の地にあったのですが、家康によって二の丸から出され、東照宮とならべて今の金シャチ横丁のところに明治9年までありました。その後、明倫堂の跡に移座し、明治36年に那古野神社と名を変えました。

信長公記によると、信長が18歳の時、病で亡くなった父・信秀の葬式で「太刀を藁縄で巻き、髪は茶筅曲げに巻き上げ、袴もはかず、抹香をかっとつかんで仏前に投げた。」とあり、24歳で弟を殺します。27歳の時、桶狭間の戦いで勝ち、勇躍、戦国大名としてデビューするのですが、「人間五〇年、下天の内にくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と謡い舞って、熱田社に駆け、戦勝祈願をします。
ルイス・フロイスの言うように、「信長は無神論者」なのでしょうか。
38歳の時、比叡山を焼きつくし、41歳正月には、朝倉、浅井のシャレコウベで酒宴をします。
信長の牛頭天王信仰とは、病も、肉親の裏切りも、首を取るのも、取られるのも、生きている限り、自分にとって悪いこと全てがあるものであると、まず不条理を受容することを前提としてあり、そんな世界であるからこそ、信長は現世での勝利、国の平安を牛頭天王にただ祈り、49年の生涯をしゃにむに走り切ったのだと思いました。
信長と共に走り続けた大工・岡部親子も、本能寺の変で信長と共に討ち死にします。
第十一章 城下町の形成
「信長公記」では安土山と安土を使い分けている。山下の状況を示すところを抜き書きする。
天正4年2月、信長が安土山に移ると共に山下に馬まわりの屋敷地を与える。馬まわり衆の住居も善美をつくし、まさに花の都をそっくり移したようである。天正5年9月信忠は安土の丹羽長秀のもとに宿泊。翌日は駐留。12月信忠は丹羽長秀の邸を宿舎とした。天正6年正月畿内、若狭、越前、尾張、美濃、近江、伊勢など、大名・武将たちが安土に滞在して出仕。正月4日万見重元(小姓から馬まわり)の邸で茶会。正月11日信長は近衛前久が町屋に宿をとっているのを知り松井有閑の邸を宿舎にせよと命ずる。1月29日お弓衆から出火、お弓衆、馬まわり衆120名が妻子を安土に引き移らせていない事が判明、罰として、城下の南の入り江にそって新道を築かせ、完成したところで赦免した。8月5日南部正直は万見重元の邸に招かれ万見が接待。この時信長に挨拶した。8月15日安土に力士1500人を集め安土山で相撲をとらせる。14人の力士を召し抱える。私邸を与える。5月13日の大雨の被害を京にいた信長は小姓だけで見に行く。瀬田の橋が流れたのだろう、信長は上洛に船を使う。9月23日瀬田の山岡景隆に泊まる。天正7年正月8日小姓衆に馬淵から切石350個余りを運ばせた。25日京都から村井貞勝が来て、織田家の家宰である林秀貞と共に殿主(天主)を拝見する。普請担当奉行は木村高重とあるが、安土日記には山下の様子は書かれていない。5月27日信長が町はずれに招聘した浄土宗浄願寺にて法華宗と宗論。信長は午の刻に山を下りて浄願寺に行く。長老の宿を引き受けた、岐阜から来た塩売り町人・大脇伝助の首を刎ねる。6月4日安土慈恩寺の町はずれで三人を磔。7月19日常には安土にいない井戸将元を信忠に命じて殺す。26日鷹を陸奥から持参した石田、出羽から持参した前田を堀秀正の邸に招き堀が接待。津軽の南部政直も同席し天主を拝見。天正8年3月長命寺、沖ノ島で鷹狩。8日間。閏3月16日菅谷長頼、堀秀政、長谷川秀一を奉行として安土山の南の新道の北に堀割を掘らせ、その土で田んぼを埋めて伴天連の屋敷地として与えた。布施を馬まわりに加え、入り江を埋め立てさせ屋敷地とした。馬まわり衆・小姓衆にも鳥打の入り江を埋め立てて町を作り、西北の湖に船着き場を掘らせ、木や竹を植えさせた。さらに入り江を埋め立て高山右近ら13人の屋敷地とした。信長は弓衆を勢子にして鷹狩。4月伊庭山から大石をおろす。5月3日織田信忠、信雄が安土に来る。信長は自身の屋敷を作れと命ずる。5月7日掘割、船着き場、道路が完成し、丹羽長秀、織田信澄は長期にわたり工事に尽力したので国に返した。天正9年正月元旦より町の北、湖岸寄りに馬場を設ける工事を始める。奉行は菅谷長頼、堀秀政、長谷川秀一。正月2日安土各町は信長からの贈り物を沙々貴神社で受け取る。能を舞う。15日左義長を馬場で行う、爆竹をもって、頭巾装束に趣向を凝らした織田家一門(信雄、信包、信孝、長益、信澄)はそのまま町に。見物人が集まり、皆が趣向に感嘆した。4月10日竹生島への参詣、往復30里を日帰りした。信長は長浜に泊まるだろうと女は桑実寺に薬師まいり。女と寺の長老は成敗される。7月11日勝家が切り石数百箇を献上。7月15日盂蘭盆会 安土山天主、摠見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、馬まわり衆は新道に立たせ、入り江には船を浮かべそれぞれに松明を灯させた。灯は水に映って面白く見物が群れ集まる。8月1日畿内、近隣諸国の大名・武将を安土に集め馬ぞろえ。(2月28日京で馬ぞろえ済)9月8日狩野永徳・岡部又右エ門たち職人の頭に小袖を贈る。木村高重、木村重章ももらう。重章は安土山の相撲に配下を出している。10月7日愛知川辺の鷹狩の帰り桑実寺から新町通りを見聞し、伴天連の教会により土木工事を指示。10月20日北と南の2カ所、新町と鳥打に伴天連の住居を建てる工事の開始。小姓衆、馬まわり衆に沼を埋め町屋を建設させた。天正十年正月 100文を取って天主の中をみせる。正月15日左義長。5月15日家康が安土にくる。宿舎は大宝坊。17日まで光秀が接待。19日摠見寺で、幸若舞と能舞。20日丹羽長秀、菅谷長頼、堀秀政、長谷川秀一に家康の接待を命じる。座敷は江雲寺御殿。家康、穴山梅雪、石川数正、酒井忠次は、信長と膳を並べる。食事後供も含めて全員が天主へ。6月2日本能寺の変。14日天主は灰燼にきす。

読まれましたか?
読まれた方、ご苦労様です。私は読んでいただく事は期待していませんでした。以後の私の論考の証拠として、「信長公記」中川太古氏の現代語訳2013年発行(株)KADOKAWAから抜き出しました。
城マニアには大好評の本ですが、木村治郎座衛門が木村重高に、木村源五が木村重章に現代語訳されている理由はわかりません。そういうものだとして、安土の城下町がどのようにしてできたか、それを書いていきます。
天正3年からアヅチ山には多くの人足が入りますが、天正4年正月から天正5年十一月三日 屋上葺き合わせまで、信長はアヅチ山の御座にいるのですが、山下には信長の親衛隊の馬まわりの住まいと、普請総奉行の丹羽長秀の屋敷しかないようです。天主の工事が最優先であり、とても城下町にまでは信長は気配りできません。
信長はアヅチ山に城を作るのが目的であり、城下町はあとまわしでした。名古屋など近世都市150が、1602年の家康の城割りで全国一斉に領地の首都として築かれますが、信長には都市建設よりアヅチ山を桃源郷として示し、天下を制することが第一なのでした。秀吉は隣の近江八幡に甥の豊臣秀次を置いて安土城下町を消します。東西に沼地、北に湖では町の発展はありません。信長の安土の城下町は都市計画としては失敗でした。
天正6年正月に、ようやく信長の御殿が移築され、配下の武将を集めます。武将たちは馬まわりの屋敷に分宿したのでしょう。万見重元、松井有閑の名があります。町屋は出来ています。馬まわりの120人が罰を受けているので、屋敷は120以上、300ぐらいはあったのですから、塩売りの大脇伝助が岐阜から安土に来て商いをしていたように、武家地と工事人の為に町はありました。安土山の南に堀を掘っているので、荷揚の道を使っての大材の荷揚げは減ってきたのでしょう。この新道は後に朝鮮街道と呼ばれる東山道の脇街道です。都市を作る前に、まず道を作らなくてはなりまん。
堀割りを堀り、入り江を埋め立てる土木作業に、馬廻りと小姓が使われます。大工・岡部又右衛門の技術力は要りません。安土山の相撲に力自慢が出てきますが、木村重章配下の力士は普請の人足かもしれません。
戦いに勝つとその奪った領地の検地をします。堀秀政の名が何度もでも出てきますが、戦場と信長を繋ぐ、監視係・連絡係だけでなく、実際に検地をしていました。土地の傾きを見ながら検地の縄を張るのです。普請は土木工事の事であり、作事が建築工事なのですが、太田牛一はその区別をせずに「普請」と書いています。
普請と作事では使う単位からして違いました。寛永になり畳割が出て来て、一間6尺五寸から6尺に替わって、土木と建築が同じ単位となります。

残念ながら、大工(建築家)は都市計画に参加していません。では、だれが?ですが、天正8年から、信長が山下を鷹狩と称して、城下町を山の上から、湖上から見ています。信長自身が都市計画をたてており、菅谷長頼、堀秀政、長谷川秀一の三人を繰り返し奉行に命じています。アヅチ山の摠見寺の移築のメドもたって信長の視点が山下に降りたのでした。
信長公記に書かれた順ですと、浄願寺、慈恩寺、伴天連の屋敷地、沙々貴神社、桑実寺、伴天連の教会、伴天連の住居と、信長は新たな寺社・教会を城下に招聘していますが、天正7年以降のようです。町の骨格を、新道と共に大きな建物を先に作る事で決めたのでしょう。
江戸時代には寺社地として都市の一角に集めれるのですが、そのようにはなっていません。
鳥打の入り江を埋め立て、アヅチ山西北の湖に船着き場を掘らせ、高山右近ら13人の屋敷地にします。馬廻りが増えるとその屋敷地は埋め立てないとありません。湖岸寄りに馬場を設けます。百々橋から北は全て埋め立てられた新地なのでした。
安土の城下町としての完成は、左義長、馬ぞろえ、盂蘭盆会と、信長が城下町の住民にサービスできる天正9年までかかったと見ています。都市は成長し続けるものであり、都市の完成とは都市がなくなる直前なのかもしれません。100文の銭を取って天主をみせる天正10年正月から半年後に天主は燃えてなくなりました。その後、三法師と織田信雄が安土に住みますので武家屋敷と町はのこっていたのでしょう。 坂田孝彦氏の安土城下町の復元図を載せます。山村亜紀氏の歴史地理学と違い、坂田氏は考古学とうたっているので、どうかな?ですが、山村亜季氏の岐阜の城下町の景観復元と照らして、安土城下町の復元と言えると思います。

信長は岐阜を離れて、安土に岐阜の10倍規模の城下町を作りました。これが信長の夢の桃源郷、パラダイスを10年かけて実現した姿です。
内藤先生は想像できる目いっぱいを城下町として、総面積を5.5平方キロメートルと算出しています。
当時の京は上京、下京に分かれていて、そこだけですと合計3平方キロメートルですので、都市規模を外形だけで比較すれは、信長は都を新たに作ったと言えましょう。しかしながら、なんともヒドイ都市の形です。



私は正保の絵図を中心に江戸時代の100の町の復元図を見ていますが、安土の城下町は全くの中世の町です。時代が少し下がりますが1597年の村上要害図があります。東北の辺境故に後進的であり、安土とよく似ています。
四神相応から始まる日本の都市史をここで展開するのはやめますが、というか今2021年の私には書ききれません。 安土城下町の人口は5万人もいたでしょうか。
第十二章 天正10年正月に完成
脇街道からの見栄えもよく、伝大手門、伝大手道も石積され、武家屋敷も整った想像図を近江八幡市は作りました。建物の形を逐一取り上げなどできようもない絵ですが、安土山のイメージとしては良いかと思います。ただ、石積はこんなに高くなかったでしょう。一乗谷のように土壁が低い石垣に乗っていたのではないでしょうか。

慶長期になって作られる城は、姫路城、彦根城、名古屋城と豊臣秀頼を囲む戦いの城の姿に少し変わりますが、安土城は攻められることを全く気にしていない城でした。琵琶湖を押さえていれば安全です。 伝二の丸、伝三の丸と名付けられていますが、とても郭とは「兵学」上言えません。郭は1つであり、地山に応じて敷地に段があるだけです。最後にその主郭を見てみましょう。天正10年正月年頭の出仕を読み込み、南殿、江雲寺御殿、御幸御殿の位置を推定しました。「天守指図」を大工・池上がスケッチしたあと、伝二の丸に天主が接続する懸崖作りが作られたようです。近年の発掘により柱の燃え跡が見つかりました。

| 図と写真は、滋賀県教育委員会編 発掘調査20年の記録 信長の城と城下町 2009年サンライズ出版より |
謝辞
最後までお読み下さりありがとうございます。なんとか読めるものにしようと妻に無理やり読ませ、指摘をうけました。妻・朋子に感謝です。そして何より、今も私を「フィジカルたれ。」と天より叱咤する内藤昌先生に、改めて感謝いたします。

