日本庭園について何か書こうとすれば、森蘊(もりおさむ1905~1988)先生の100篇の論文、20本の著作に触れらずはおられません。マレス・エマニュエル(1978年仏生まれ)という 森先生の研究者が京都産業大学に現れ、先生の多大な業績をまとめていますので、まとまった先生の足跡はそちらで願います。
私が森先生にお目にかかったのは、1973年の名古屋工業大学「庭園文化研究所 森蘊先生特別講義」でした。建築史の内藤昌教授(1932~2012)が墨痕鮮やかに大書した立看に大学2年生の私はつられたのでした。1974年に私は内藤研究室に入り、内藤先生のご厚情を長く賜ることになるのですが、この時は全く日本の古建築には興味なく、さらに日本庭園となると、祖父が岐阜から石をわざわざ名古屋の娘一家の為に持って来て、カラ池の底を玉石で埋め周囲に立石をした事から、「門かぶりの松、クロガネモチ、椿、サツキなどの樹木より、水こそが庭の中心にあり、石が庭づくりに重要なのだ。」「日本庭園とは<庭いじり>の素人芸でするもの。」と思っていたのでした。建築に比べて、特別な技術も必要なく、芸術としての完成度も低いものだと思っていたのでした。

この写真は、私が30歳の時、数寄屋風住宅をコンクリートで設計したものです。茶室が2つあります。
庭は、施主が「俺の好きなようにやる。」と言われ、敷地の西半分が日本庭園です。しかし、図面どころか写真も残していません。アプローチと縁側で、もうプッツンしていました。なぜなら、転勤となったのです。
私は現場をしらなく、監理は若園君が行っています。庭の写真も撮っておくべきでした。もう、この住宅そのものがありません。
この写真は、「できたよ。おいで。」と奥様に言われ、東京から妻ともども訪ねて泊めていただいた時のものです。
いつも強面の内藤昌教授が平身低頭する森先生ですのに、建築学の学生を前にしての特別講義において、八条の宮家親子の素人の<庭いじり>が桂離宮を作ったと話始めたのには、驚きました。建築の「茶室」も確かに建築素人の<道楽三昧>であり、建築とは言えないレベルの物でしたが、数寄屋風書院造と大工の腕の見せ所となりました。
「庭園の鑑賞法は<庭いじり>から行うべし。芸術鑑賞には、すべからく活動から入るものであるが、特に庭のデザインでは、最初は素人であっても趣味教養が高く、感覚の秀でた人が、一度自作の楽しさを経験すると、建築はともかく、庭園だけは他人に任せられなくなる。幾度となく重ねると、専門家の及ばない着眼点から、時代の達人となる。
夢想国師によって固まった「枯山水」の抽象的な石組には、古代から伝わる「自然風景式庭園」として「縮景」されたものでない、仮託された何かを感じるし、八条宮智忠の桂離宮「回遊式庭園」から、茶会の庭「路地」が生まれた。」とあったような、ええ半世紀前の記憶ですので怪しいですが。
この講演で使われた専門用語をこれから順に書いて行きます。
※森先生と内藤先生の繋がりについて
森先生は、1932年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。在学中は、田村剛の造園学の講義を聴き、古代の庭の復元を卒論とし、庭園史の道に進むことを決める。「庭園とその建物」の為に、工学部建築学科で、藤島亥治郎(日本・西洋建築史)、伊東忠太(東洋建築史)、関野貞(朝鮮建築史)、塚本靖(工芸史)などの講義を聴き、建築史への素養を養い、卒業後は大学院に入る。1933年に内務省に入省して国立公園の調査にあたる。1938年に庭園史はないので建築史研究会に入会。1952年、奈良国立文化財研究所に入所、のちに建造物研究室長。1953年、「桂離宮の研究」で東京工業大学工学博士。 東京工業大学講師を務め、寝殿造りの100分の1の復元模型を作る。建築の復元は東工大藤岡教授(1908~1988)。1956年に内藤先生は藤岡研究室の院生として、熊本城の復元を行っており、森先生とはこの時期から面識がありました。1967年(昭和42年)に35歳の内藤先生は「新桂離宮論」を鹿島出版から出し「ブルーノタウトが誤解した前衛デザイン」を唱え、内藤先生が常に平身低頭しなければならない「復元的研究」庭園史の森先生となりました。

「復元的研究」とは、内藤昌が「復元 安土城」で使った書誌学研究の用語ですが、森先生の『修学院離宮の復原的研究』(奈良国立文化財研究所学報)養徳社 1954年をその範としています。
庭園史を語るには、今も庭園がそのまま残っているわけはなく、古文書を読み、現地に立って自然を見て、遺構の石組みを測量しないといけません。庭師の仕事は植栽の成長を止めることであり、捨てられた庭では植栽は勝手に繁茂し、庭を壊します。当時の一般的な庭園測量図と異なり、森先生の「地形測量図」には植物が省略されています。庭園の立地環境と水系をあきらかにするため、広範囲にレベル測量を行ない、厳密に等高線を描き、石と建造物とのを相互関係を立体的に表現しました。
現在の建築の文化財修理では当たり前のように実施されていますが、徹底的な文献資料の分析、精密な現地調査と測量図の作成、そして発掘調査の成果を照合した「復原的研究」という方法論は森先生が確立させたものでした。
森は日本の庭園の特徴として「自然風景式庭園」を唱える。ベルサイユ宮殿庭園の幾何学パターンに対して一義的に唱えたのではない。自然風景を「縮景」して庭にするのは、中国にもイギリスにもあった。日本の風景の特色から、建築と同様に、中国仕様が日本化して行き、「縮景」は「回遊式庭園」「枯山水」「借景」「山車の飾り」「盆山」と進化・縮小され、究極の庭「盆栽」に至る。
「縮景」にして都会の邸宅に包み持ち帰りたかった、中国やイギリスと違う日本独自の自然を、森先生の文章から以下に眺めてみます。
美しい日本国土の大半は火山活動、褶曲・断層によって山をなし、それを侵食した地形と言ってよい。重畳する山岳はおおむね急峻、河川は源流において急で、滝を持ち、中流において緩やかに流れ河原が発達し、平野部から海洋に注ぎ込むところでは砂浜を形成する。
夏は暑さが厳しく極めて湿度が高く、冬は寒さが激しいが乾燥し、夏冬の気候の差は著しく、降雪と降雨の量も多い。海洋と大陸の影響を受け「四季」を愛でる日本文化は、稲作によって太陽暦として定型化した。
雨が多く、花崗岩系、水成岩系の風化がひどく、岩塊となって、自然の風景の添景となっている。巨大な岩層となることはなく、岩をくりぬいた洞窟建築もそれらを重ね合わせた石造建築もない。多量に身近にある木材によって、建築された。南北に長い国土の特色として樹種も豊富で、針葉樹、常緑広葉樹、落葉広葉樹が交錯して、急速に変わる季節ごとに着葉の度に加減があり、色彩を改めてゆくのも日本風景の特色である。
森先生は、日本の自然から国民性まで論じ、日本の庭園芸術の手法を具体的に論じています。森先生の文章の引き写しを続けます。
このような気候や風景は、この土地に住む国民の気質の上にも大きな影響を与えずにはおかなかった。美しい国土愛に目覚めると同時に、いわゆる季節風に影響される地帯に特有な、どこか情にもろく、いわゆる浪漫的な性格をはぐくみ、移ろう自然風景に取材した芸術の発達する可能性を持ち合わせたのである。このような日本の国土に、自然風景的な庭園芸術が発達することは不思議な事ではない。
はじめは、部分的に海岸、山岳、渓流、滝などの形態を基本としながらも。全体としては仏国浄土を連想せしめようともした。やがて、二個以上の自然形岩石相互間の組み合わせにつり合いの面白さや、動的な興味を感じ、加工石材では人工的曲線や曲面の交錯に誘導性やさらに高度な美観を感ずる。
樹木も西洋庭園のような球形や紡錘形、または方形、動物形などに刈り込むことは全くせず、本来の姿のままか、時には相互間に支え、またはなびき、釣り合うといった植栽をする。時には寄せ合わせて、遠望した山岳の姿を作り出すこともある。西洋の風景式庭園が単に環境の美的取扱いに専念しようとしたのに対し、日本の風景式庭園では、すこぶるその精神性を強調する傾向にあったことがその特性と言えるようである。禅寺の小さな庭に水墨画のように余白を生かす石組をした枯山水は、やがて平庭に石と砂だけを敷き詰めて、見る者に禅問答を問うようになる。
西洋庭園では見えるものしか知覚できないが、日本庭園では、能舞台におけるシテの静止、または沈黙時に啓示される余韻の効果であり、至純の空間を、波一つない水面に、白砂や苔ばかりの庭面に見出すことができる。あえて描かない事による連想が無限の広がりを持ち、見る人を恍惚の世界に誘う事も可能となるのである。この庭園様式のはっきりした区別ができた原因を追究するならば、国民性の相違の一語に尽きるようである。
西洋諸国民は自然と人間とを対立させ物質的なものとして見たがるに対し、日本人は自然をもっと身近なもの、時に人生をその中に含めて観察しようとさえしている。
私の家の近くに、尾張徳川家の屋敷跡を利用して美術館と文庫があり、そこには名古屋市の「葵公園」としてテニスコートなども付属してあったのですが、2005年(平成17年)に設計者を伊藤邦衛(1924~2016)とし、日本庭園として新たに造営されました。カタチは大池をめぐり段差もある回遊式の日本庭園ですが、舗装面は歩きやすく、車いすでも回れます。私には入場料100円をはらう公園です。自然風景式庭園こそ、日本人の国民性にあった公園なのでしょう。このような日本庭園は全国に整備され、外人観光客を集めています。



茶懐石がおこなえるように施設はあり、実際に行われてもいます。
伊藤先生は、1947年、東京農業大学農学部造園学科を卒業し、清水建設入社、設計部に配属され、1963年39歳で独立し、伊藤造園設計事務所創立しています。私は1975年に清水建設設計部に入っているので、直接彼と仕事をしたことはなかったのですが、彼の東京農業大学講師の教え子と仕事をしており、現代の日本庭園の作法を学びました。彼は池上本門寺園、北の丸公園など多くの実作を重ね、日本造園修景協会常務理事、日本造園学会理事を歴任しています。
森先生は「庭園とその建物」の中で、古代から現代まで、庭園史のエポック作品の紹介を写真で示しています。私の庭園行脚はこの本によります。本文では書ききれない事が多くあったのでしょう、写真の説明を本の末尾に簡潔に書いています。以下に転載します。庭園鑑賞に活用してください。


山水図屏風・神泉苑・園城寺湧泉覆屋・大沢池・平等院阿弥陀堂・鳥羽殿・大乗院・観自在王院・円成寺・永福寺・水無瀬殿・永久寺跡・南禅院・慈照寺・朝倉館・北畠国司館跡・満願寺・伝来寺・妙心寺霊運院・妙心寺退蔵院・万福寺・二条城二の丸・醍醐寺三宝院・詩仙堂・渉成園・曼殊陰・天徳院・仁和寺・南宗寺・妙心寺東海庵・浜離宮・後楽園東京・六義園・後楽園岡山・栗林園・兼六園・偕楽園・水前寺・縮景園・平安神宮・東福寺・大徳寺本坊・真珠庵・円通寺・正伝寺・大池寺・西芳寺・孤蓬庵・法金剛院・永保寺・山科南殿・南禅寺方丈・金地院・妙蓮寺玉竜院・無鄰菴・東光園・香川県庁舎 以上、56カ所の日本庭園です。
日本に入ってきた中国の自然風景式庭園
平城京は唐の長安を範としていました。長安の宮城の北、街区をはみ出て「大明宮」という巨大な庭園があったことは知られていました。玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスがうたわれた長恨歌の中の「華清池」は、長安の北20kmの温泉地ですが、庭園として整備されていたのでしょう。



平城宮でも宮の東に園地が発掘されたので、平城宮と同様に「復元」されています。掘立柱の太さから想像され、作られた東屋はとてつもない大きな建物となっており、現代の回廊式庭園にある数寄屋の細い線とは全く違うものですが、寝殿つくりの庭はそうだったのでしょう。




正倉院御物に「仮山」があります。杉の薄板で洲浜状の平台をつくり、朽木でもって立石の姿をかたどっています。節くれたち、かつよぢれた朽木の感じは、褶曲の目立つ両雲母片麻岩に酷似しているのも面白く、万葉集に積雪をもって岩の形を造り、それに花を添えて楽しんだ事と思い合わせると、日本庭園の特色が早くから石を適所に使用する趣味であったと思わせるものです。
台北市に今ある、中国の自然風景式庭園「至善園」です。蒋介石夫人・宋美齢さんが「故宮」の隣に作りました。庭に面して吹き放ちがあり、舟を浮かべ遊ぶのは2000年変わらない姿でしょうが、庭の中央の池は中島もあるのですが、強固な岸壁で囲まれています。洲浜も庭石もありません。


平安後期、寝殿造りの庭
年中行事絵巻、源氏物語絵巻などの絵巻物から東三条殿、伝法住寺殿の寝殿造りが復元されています。寝殿造りが、中世になって崩れて、寺の方丈・武家の書院造りになっていくのですが、庭も同様です。絵巻物と現代にある風景写真から古代の庭を想像しましょう。




平安末期、浄土形式寺院庭園
藤原道長はその権力・財力をもって、この世に浄土を作らんとし、法成寺を作りました。ここでは、頼道(992~1074)の平等院、藤原基衡(1105~1157)の毛越寺、一乗院恵信の浄瑠璃寺の庭を示します。
平等院が創建された1052年は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いないのですが、庭がなんともお粗末でした。新装なった平等院鳳凰堂に行ってみますと、「極楽浄土の庭」とはなっておらず、池の前にその姿を映していただけでした。古図をみると、東の宇治川に、この池はつながっていたので、流れも、滝もあったのでしょうが、思い浮かべるすべはありません。

平等院鳳凰堂は、東の池に面して配置されており、南面する寝殿造りとは違います。鳳凰堂とその周囲の浄土式庭園は、西方極楽浄土とその教主である丈六の阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたのでした。
で、私の作品です。

ピーター・ウォーカーの真似をして、幾何学模様で作っていたつもりですが、アメリカ人建築家に「日本庭園」と言われてしまったのです。もちろん、灯篭、立石もありませんが、なんとなく、幾何学を崩しているのでした。その崩し方が国民性であり、「日本庭園」のDNAは、祖父の庭造りから私に伝わっているのでしょう。
毛越寺は、奥州藤原氏の滅亡後も鎌倉幕府に保護されたのですが、嘉禄2年(1226年)に火災に遭い、更に戦国時代の天正元年(1573年)には兵火に遭って衰微し、長年の間土壇と礎石を残すだけとなっていたのですが、毛越寺庭園は、森先生の熱い研究によって、復元されました。


浄瑠璃寺 阿弥陀堂前池
阿弥陀堂は1107年、石を立て結界修法したのは1150年興福寺別当一条院恵信僧正。1204年にさらに石がたてられました。
観無量壽経の9体の阿弥陀仏がおわしますお堂は、簡素な9間1間4面。奥行のない仏のための空間であり、拝むには、極楽の庭越し、こちら三重の塔の足元からです。江戸の本瓦をはずし、桧皮葺きの姿、池一面の睡蓮の白と緑を思い重ねて、南無阿弥陀仏。

この建物の大きさと、池のバランス。高低差の扱い。が、この後の回遊式庭園に生かされます。

400年前のイギリスの自然風景式庭園
イングリッシュガーデンは、日本庭園に比して水の流れがなく、草木の扱いがしやすいと日本の住宅でも人気です。ロンドンに行くと、イギリス人の庭好きがよくわかります。町人の茶庭が、大名庭園の回遊式庭園から引っ張られてきたように、イギリスの現代の庭のルーツは400年前の王侯の自然風景式庭園にありました。
王侯は、屋敷に近接した部分だけでなく、屋敷周りの林苑や牧場も含めてこれらを一団として美的に取り扱おうとしたのでした。典型的な配置は、中央に自然風の池沼があり、それを取り巻いて大面積の芝生、外濠または垣をとり囲む森林、その間を有機的に結び合うために点在する独立木などから成り立っていて、形式的には日本の「縮景」に対して「遠望風景」という言葉で表されています。建物周りはいささか建築的なテレースを持つものであり、外界の自然風景的な形態との関連から見て、折衷的に取り扱われたようです。


