今城塚古墳

継体天皇

私が生まれた本巣郡に、舟木山古墳があることを知ったのは10年前です。その奥の山間には根尾谷があり、「継体天皇のお手植えの薄墨桜」があり、そこで山を西に超えると継体天皇の統治する越前なのでした。

墳長190m、古墳長さ340m。48位の大きさでした。

水を張り、水際は石です。ノリ面に木をはやしては、古墳の形が分かりません。ということは墓守が植物からの攻撃に耐えないといけません。

手前に模型を置き、前方と後円の間を横から見ています。圧倒される形象埴輪郡です。円と方のくびれは見えず、円の高さはもう、作ったの時の半分もありません。くびれでの「つくり出し」は復元されていました。

ハニワの古墳

底を少し埋めたハニワが6000個が古墳を回ります。神聖なものへの「結界」なのだと書いてありました。この水は復元したものです。調査掘削をすると、地山の上への盛り土が見えます。15kgの単位の土が盛り上っていました。人手のぬくもりが見えました。

ここの売りは、復元された形象埴輪ズラリと並び、触ってよい事です。馬と鳥が並ぶさまは、大王は黄泉の国で、武器を持ちこれらに乗って自在に動き、国を治め、

家には兵も女も多くいるのだ。財はたっぷり持っているという事でしょう。伊勢神宮の「千木」「鰹木」「棟持ち柱」「高床」だけでなく、土壁の家もあります。3層にしているのですが、継柱であり、通し柱としていないのは、法隆寺金堂と同じです。

近くにいる鶏は、トキを告げ、闇をあける力があると、食べたのでなく、呪術で飼っていたのだと学者さん。

我が生誕地、本巣、大野の古墳を叔母さんに教えられて、古墳を見るようになったのですが、この継体天皇の古墳を見ないことには、と来ました。

古墳は崩れており宮内庁から見捨てられていたのですが、それが幸いして発掘調査ができ、継体天皇の古墳だと確実視されています。公園として、また博物館もよくできていました。味美、志段味、本巣なぞは比較になりません。

「ハニワ工場公園」が近くの「新池遺跡」にあります。雨が降っていたので行っていませんが、登り窯を復元しているようです。我らが味見の古墳群が「ハニワ古墳」で売っていて、埴輪がどこで作られていたかもわかっているのですが、ここまでは名古屋教育委員会ではやれません。志段味の古墳などコンクリートで覆ってしまいました。

5世紀の土保山古墳では、鎧、弓、刀が出ていますが、今城塚古墳では出ていません。なのに、人形で復元をしました。
石棺が3個だと推定するのはよいが、熊本ピンク凝灰岩の櫃には、刀と弓をもった大王がいるとは、かれの母のクニの越前の古墳では、金の冠はあるが、武器はない。
継体天皇がこんな鎧を着ていたなどとの記録はなく、学芸んの妄想でしかない。墓は荒らされ、何も出土していないのに、考古学はこのように節操がない。もはや、学問ではない。

ヤマト王朝の継体天皇の墓がなぜ、ヤマトを離れたここに?

継体に関係する古墳と都市と川
継体に関係する古墳と都市と川

継体天皇は、越前の母、近江の父の子であり、尾張連から后を得ています。

成人して越前(日本書紀、古事記では近江)を治めていたオホド王が、第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村や物部麁鹿火から、応神天皇5世の来孫であるからと、推戴を受けて58歳で即位したという話は、戦後天皇制のタブーがなくなると、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説が唱えられました。
暴れまくった第21代雄略天皇以降の天皇の継承は、内乱含みに見えますので、王朝交代でなく、記紀にあるように「傍系」がヤマト王朝に乗り込んできたにしても、人徳でなく、力を持っていないといけません。どのような力なのでしょうか。

古事記からの考えがあります。水運です。
「継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江・琵琶湖から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからである。 その後19年間は大倭入りせず、511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)と、淀川水系に自らを置き、父方の琵琶湖の水運力を瀬戸内海に結びつけ、ようやく526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。」
網野義彦史観「日本は稲穂の国、は間違いである。」からも、水運です。
オホド王の妃、目子媛の実家の尾張連の力は、海運にあったことが当然となりました。網野の中世の海運の研究からの古代への推定であり、古代の歴史的実態把握はできていませんが、尾張の稲穂の収穫は美濃の半分でしたので、稲穂の力では美濃の古墳を圧倒する断夫山古墳は作れません。
母方の越前の古墳から、金の冠が出て「朝鮮半島との交流があった。」と、日本海の水運がクローズアップされました。

今回、継体天皇の古墳だと断定されている今城塚古墳で形象埴輪を見て、この従来の「水運による」力に、疑問を持ちました。
これは、三重県の5世紀の古墳から出た船の形象埴輪です。今城塚では、家形埴輪が多くでているのに、船は円筒埴輪へのか細い線描きしかありません。東殿塚古墳の船の絵は伝えるものがありますが、今城塚の船は伝える気力がありません。埴輪を作る技術はあっても、船型埴輪はあえて作らず、6世紀の継体天皇の黄泉の国の移動手段は、馬と鳥である。と埴輪は語っています。


オホド王は、大王に即位することを当初は承知しなかったが、群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠がいて、荒籠は密かに説得したと古事記にあります。河内は淀川を真ん中に摂津の反対側です。摂津の山裾に割拠し、馬を飼っていて、山陽道を使っての陸上の交易の方が、船より多かったのではないか。それも圧倒的に多かったのではないか。ハニワの馬の姿、馬具をみるとそう思えてきます。

埴輪のレプリカですので、あちらこちらに置いてあり、大きさを示すために靴と共に写真を撮りました。

馬具の精緻な事に驚きます。鐙がついた鞍に、手綱がないと、乗馬はできませんが、尻の革紐の飾りはなんのでしょうか。

司馬遼太郎によると、日本人は、「家畜の去勢」を明治まで知らず、暴れ馬に乗っていたのだそうです。

今城塚古墳の地勢を見ます。
淀川に北摂の山から川が流れ込んでいます。北から、桧尾川、芥川、安威川、茨木川とあり、その扇状地に弥生人が水田を開き、山裾の小高いところに縄文人の貝塚と、古墳があるのでした。古代の道は、これらをつなぐ道でした。奈良盆地の「中ツ道」ですし、尾張の「上街道」です

摂津と呼ばれる前は「三島」といわれていました。

今の地図には「西国街道」と明記されています。今城塚古代歴史館に、律令時代の地図がありました。古代の道と水路がわかりやすいです。「山陽道」とあります。
古代の山陽道が「西国街道」となったのです。

「南海道」「西海道」がいつかくっついたのでしょう。道は路でなく、「五畿七道」と行政区分でしたので。

美濃の古墳の位置図、古代の「東山道」が木曽三川を避けて、池田から大野、席田と、川上を回り込むとまったく同じ原理です。
川幅があるところは渡河ができないので、古代の東国への行き来は、大河のある東海道でなく、東山道をつかったのでした。

この地には、今城塚古墳の100年前に作られた太田茶臼山古墳(墳長226m)があります。宮内庁は継体天皇の古墳としているのですが、埴輪からは5世紀中であり、継体天皇とは時代があいません。
ヤマト王権の大王墓群(百舌鳥・古市古墳群)から近い摂津における巨大古墳である点、摂津では唯一陪塚を伴う古墳である点、当地でそれまでに築造された古墳に比べて飛躍的な規模である点、後世に今城塚古墳が営まれている点等を踏まえて、ヤマト王権から分派した王族と推測する説が挙げられています。
具体的な被葬者としては第19代・允恭(いんぎょう)天皇陵と形が似ていることから、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の兄で継体天皇の曽祖父に当たる意富富杼王(オホホド王)に比定する説があります。
近江にいる継体天皇の父に越前から母が嫁いできたのですが、近江に来る前は、三島にルーツがあったのだという説です。三島の前方後円墳は3世紀からあり、箸塚古墳と近いです。

王朝交説でも、傍系説でも、継体天皇以降が万世一系となったことは変わりませんので、「根尾谷の継体天皇お手植えの桜」をめで、熱田の近くで育った私は、楽しい気分になります。
私、都市史の学徒としては、どうしても奈良、京都の畿内を中心に見ていくこととなります。近世を待たないとそれ以外の都市が現れないのですが、継体天皇の周りには地方都市があります。天皇の宮があったとしても、都市と言えるほどの集落規模ではないかもしれませんが、首都であることには間違いありません。


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