アテネの建築

アクロポリスの夜景 アテネの建築

「ローマを見ずして建築を語るな。アクアポリス、アゴラを見なければ建築家とは言えない。」と、ありていに私も西欧文化の建築教育を受けています。ローマ、イタリアはyomeも大好きで4回訪ねていますが、アテネ3日間は今回トルコ旅8日間のついででした。飛行機で1時間の隣の国ですが、国をまたいだので二人で124万円もかかりました。

隣の国ですが、ギリシャは400年もの間トルコに支配されており、今も1974年のトルコ侵攻以来キプロス島でにらみ合っています。1923 年にトルコは戦争に負け、当時人口2000万人のトルコから130万人のギリシア語人がギリシャに、35万人のトルコ語人がトルコに強制移住されています。
日本語を話すギリシャ人のガイドから派手に稼ぐトルコ(人口8500万人)への恨み節を聞きましたが、船運とはげ山のオリーブ畠だけの人口1000万人では勝負になりません。国はEUのお荷物なのですが、ギリシア哲学とギリシア人によるキリスト教布教がアテネに多くの観光客を呼び続けています。町を見て、遺跡をみて、博物館で遺跡を考えてみましょう。

都市を見るには、高い所からと決めているのですが、アクアポリスから見ては、アクロポリスが見えません。ペルシアとの闘いでは、アテネ市民の神殿であるのですが、砦・山城でもありました。市民は奴隷を使って町の周囲で農業経営をし、エーゲ海に面した外港ピレウスによって、商業で稼いでいました。

エーゲ海がすぐ近くに見えます。高層ビルはありません。
今も、赤い屋根で分かる「歴史的保存地区」ここは、観光客だけの町でした。
都市壁はピレウスまでつないであった。

アテネの町は、1960年代に作られたアパートで埋められていて、バルコニ―にはテントが飛び出ており、シャッターとその増築から、住まいの貧しさが噴出していました。ガイドは「3時間、どこでも行く。」というので、ドイツ企業に買われたケーブルカーで丘に登ったのでした。町で見るべきものは博物館しかないアテネです。

空港まで迎えに来た日本人ガイドと別に、ギリシャ人ガイドと車が3時間ついた。
アティナス通りを考古学博物館に向かう。この幅の道がある事が町が新しい事を示す。
アクロポリスの麓のホテル、バルコニー付
貧しい表情です。

プラカ PLAKA 歴史的保存地区

1834年には人口8000人の小さな町でした。1816年に、イギリスの外交官エルギン伯爵トマス・ブルースが、当時オスマン帝国が支配していたギリシャのアテネから彫刻「エルギン・マーブル」を剥ぎ取り、イギリスに持ち帰り、現在は大英博物館に展示されています。ギリシャ人としての気概なぞ1923年まで全くなかったのでした。

プラカ地区は、車が入れません。観光客が闊歩する飲食、ホテル街です。
南欧には行っていませんが、こんな感じなのでしょう。
トルコ1週間の生活から、この裸同然の女の子にビックリしました。でも、慣習には簡単になじめますね。
こんな酒場があるのは、アメリカン?
犬まで、だらしない生活
自動車は入れません
ライトアップされたアクロポリスを見上げながら、坂道にたむろする若者たち、夜どうし騒ぐのには閉口しました。
5月はベリーの季節ですが、バナナはドールDoleの輸入ものです。
ミトロポレオス大聖堂 1855年竣工 ギリシャ正教です。トルコのドームと比較するまでもない小ささなのでした。
プラカの基点はシンダクマ広場で、国会議事堂があります。そこから南に大きな国立公園、そしてゼウス神殿があります。逆光でとると、真っ黒(ーー;)まぁ、これもいいか。

アテネ料理は、アメリカン。

念願のトマトの詰め物にやっとありつく。食事はトルコと同じです。美しいもりつけが、物価いや生活文化が2.3倍の価値を持つということか。
ムサカ(ラザニア似)、トマト詰め物は確かに旨い。
しかしなんといっても、外バリバリ。中もっちりのタコが食べたかった。生のをグリルしただけ。これで13ユーロ。高いもんです。日本でもやってみましょう。500ccのハウスワインもまぁ普通に旨い。都合38ユーロ。高い観光地値段です。
「日本人みなサカナね。でもあるのシーバスだけよ。これおススメよ、肉なんでもあって、2人前、20ユーロポッキリ。」驚愕のボリュームもフライドポテトの山の上です。アメリカン!
羊:わずかな ラムチョップの端 2キレ。牛:ミートボール 4ケ。豚:ソーセージ 2本、これが一番スパイシー
トリ:胸肉の薄切り 6枚。何のことはない、鶏肉主体でしたが、日本では100g30円の胸肉も、調理でこんなになるとは嬉しい。
羊すね肉をじっくり煮込み、じゃがいも・たまねぎ・香味野菜などと、土鍋にいれチーズをかけてオープンしたもの、66€と高い。小さめのイカ2はいのグリルはレモンで。ワインはギリシャの渋いのを21ユーロ。ヨーグルトかけの牛ケバフはトルコ料理そのもの、山盛りポテトとケチャップがアメリカン。

アクロポリス

アクロポリスの見ものは、第一にドーリア式のパンテオンBC432年ですが、工事で近寄れません。近寄れるのは第二のイオニア式のエレクティオンBC408年建設、BC48年再建ですが、これも中には入れません。

といういう事で、最大の見もの、建築家として空間を体感できるのは、第三の登り口のプロピレア(前門)とアテナ・ニケ神殿となります。
一周して気が付き、炎天下に日傘をさして、帰りにもゆっくり味わいました。

ピナコテク プロピレア アテナ・ニケ神殿

復元図
なるほど、古来から階段とは見せるものであったのだ。登るものに畏敬の念を抱かせるに、蹴上は大きく、「ヨイショ」と太腿をあげ、踏面は二歩で行く。

安土城の伝・大手道の階段も同じだ。
仰角30度の大階段で、皆さん振り返り一休み。段鼻が丸く削られている所が2000年残っていた石だと思えます。
ブーレの門、アテネの町の撮影です。写真正面はニケの神殿。左はプロビレア(前門)
足した石はあえて白くしています。基壇は大理石でなく、より柔らかく加工しやすい凝灰岩ですね。
紐が貼ってあり、まっすぐには登れず。男が横の門内にいますが、登れません。下に転がっている石を取り出して、復元するのですが、竣工写真があるわけなく、どうにも怪しい復元です。
大理石が奇麗に整えられていますが、厚みが違うので、積んだ時期が違うのでしょう。
左手に仮設の階段が見えます。
梁・母屋が大理石であったわけなく、柱の頂部を押さえる桁が、柱を抑え込むように重くあったのだとわかりました。地震があれば、この円形の柱自身が長さ60センチの積み上げですので、崩れます。

門は柱しかないのですが、この列柱越しにアテネのアゴラが右手に見えます。東福寺のまろき柱とは高さに比して太いです。直径150センチはありましょう。
パンテノンは高さ10m、直径2mあるでしょう。東大寺の柱も直径は120センチありましたが、石で作られた空間の重さを実感しました。知識として持っていましたが、体感は格別です。

パンテノン

登ると、パンテノンの西側が見えるのですが、妻の三角があります。「アレ~?」ですよね。西を祭壇として、東が正面となっていたのでした。東のぺデイメントは、イギリスの外交官エルギン伯爵トマス・ブルースが持ち去っていて、確かにありませんでした。わざわざ回り込ませていたとなると、そもそもの神殿配置が怪しくなります。どこかに解説があるのでしょう。

7スパン31mの幅 しかありません。奥行きは90mです。イスタンブールでアヤソフィアを見たあとですので、大きくは感じませんでした。
確かに、ドーリア式、エンタシス でした。
復元図には色が付けてありました。アテナの巨大な女神像(都市の守護神)が奥にあります。
端っこだけ残されています。私は大英博物館で実物を見ています。デカイ!
力強い、すなわち幼いデザインです。
三角を強調するための影つくりの掘り出しがありますが、木造のように庇の持ち出しができないので、つらいです。
パンテノンは3mの高さにありました。
周囲は垂直の崖です。補修はモルタルですが、地山を垂直に削って飾りの石を並べたのでしょう。

遺跡の復元は、遺跡の破壊だとよくわかる写真です。ハインリッヒ・シュリーマンが1870年代に神話の「トロイの遺跡」だ、と発掘したのですが、遺跡破壊でした。同じです。

エレクティオン

神殿の名前はギリシア神話の英雄エリクトニオスにささげられたものですが、使われ方がわからないのです。ペルシア戦争で破壊された後、BC48年に再建されています。

天井も石である事に驚きました。木造の梁に吊っているのか?とよく見ると、石に見せた木造の天井でした。
1時間かけたので、その間日傘の下のyomeは皆から、Pretty!
6人の美少女はレプリカです。黒幕が仮設でありますが、本来はポーチコです。
崖下のプラカに見せる外観と少女による聖櫃はわかりますが、全く、建築の全体が見えません。ウイキでは「BC5世紀末に完成したイオニア式建築の代表作で、かつてはアテナの女神像が安置されていた。敷地の地盤に3mに及ぶ高低差があること、多くの聖櫃、神格、祭祀所を一つの建物にまとめたように見える。増築を重ねて複雑な構造となったと思える。」
南側からの遠景 成形された巨石がごろごろ、何かがあったんでしょうが、19世紀に破壊しているのでわかりません。
教科書にあったイオニア式ですが、日本の伝統木造の柱頭の斗拱のように削って組まれたものでなく、このよううに芯をずらしても平気のようです。

アクロポリスの麓  

アクロポリスの丘の北面をプラカのホテルの屋上から見る。
エレクティオン が手前に、奥にパンテノンの頭が見えますが、プラカ側に遺跡はありません。この右手西側、大階段の下にアゴラがあり、屋外劇場は南の麓にあります。
ディオニュソス屋外劇場には、壁がありました。いいえ、こちらは一部屋根付きであり、純粋の屋外劇場はまた別にあります。

アゴラ ここには発掘品をメンテし、それを見せる施設もあり面白い。

全く、信憑性のほどはわからないが、紀元前5世紀の栄えていたアテネ、アクロポリス。城壁と大階段は、それらしいが。
アクロポリス西側 大階段
アゴラの全景 討論をした広場とは、特に施設化されていない。
アゴラの模型

死後の為の肖像彫刻の数々です。男は顔とおちんちんしか残らないもの。女の有力者もいました。

おちんちん に笑いました。
生首がゴロゴロ。
肖像画のかわりに、自分の頭を彫らせたのでしょう。顔の下は、四角い柱なんですが、チンポコだけが四角い柱に掘り出されているのは?チンポコ自慢なんでしょうか。
これらは、ローマ時代にも引き継がれています。
古代アゴラの博物館。
アタロスの柱廊をもとに、戦後アメリカの寄付によって復元された。日陰さえあれば風がここちよく、クーラー要らずのアテネならではの建物です。1931年から発掘が始めた、
日本では、このような立派なお髭の方は間違いなく髪が薄くなる。これは女性ホルモンのなせることである。と、教えられましたが、このような方がたくさんおられます。なんで?
2世紀の女性ですが、なんともなまめかしく、バロックのような姿です。顎までしかない顔が残念です。
アドリアヌス帝の図書館のあとから出てきた、ニキnike勝利の女神です。

アゴラには、当時の復元図があり、この部分だとありますが、ホントの断片しかなく、よくも復元図が書けたものだと思いました。見て楽しくはないですね。空間に至っていませんから。

図書館の外壁 
教会 紀元後5世紀ですのでアヤソフィアと同じころです。
残っている教会部分 
東の部屋 図書館が中心となったアゴラ
アゴラの中心施設 1世紀
ぐっと柱は細くなる
アクロポリスを見上げるところで都市国家の政治が行われたのでしょう。
コリント様式
日時計と水時計が設置されていたほか、風向計としても使われていたそう。

へファイストス(テセウス)神殿 BC5世紀 ドーリア様式

鍛冶と火の神ヘファイストスと、アテナを祀る神殿です。

「オーイ、ホテルのりんご持ってきていたっけ。」という感じで、日陰のベンチでまったりスケッチをしていました。

イスタンブルでは雑踏の中、立ったままでも書きましたが、もういけません。こちらは昼寝シェスタをします。

旅最後の日はノンビリですわ。

パンテオンより小づくりですが、架構はよくわかりました。3日間のアテネでしたが、行ったぞ!というスケッチです。

壁が内側にあり、それが建物の四角を重く作り、丸柱は吹き放ち空間の為にあり、建物を軽く見せています。唐招提寺の吹き放ちと同じです。

新考古学博物館 2009年竣工

アクロポリスの丘と正対してあります。パルテノンの本物は全てこちらに収蔵。
こんな重い庇は私には思い付きませんが、日本建築の影響がありありの形でした。ドイツのイージ-オーダーのカーテンウォールを全面に用いて、気持ちよくアクロポリスの丘を建物内に取り込み、イメージの中で本物とコラージュしてくださいという趣向です。

アメリカがアゴラに作った長さ113mの古代アメリカ博物館の方が本物があって楽しいです。建築だけが立派では意味ありません。

模型は何種類もある。
ホンモノは博物館の中 

パルテノンは、アテナイの神殿からギリシャ正教の教会になる。
①5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像がキリスト教信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる。
②6世紀から7世紀頃、神殿は童貞女マリヤ聖堂に変えられ、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ4番目に重要な巡礼地となった。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた。
③1018年にはバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した。中世には生神女聖堂とされた。
④1204年~61年十字軍によるラテン帝国は、聖母マリア(en)のカトリック教会として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端にはアプスが増築された。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。
アクロポリスはパルテノン神殿、公爵の宮殿の一部のプロピュライアとともに行政的な中心としての機能を果たした。”Frankopyrgos” (フランク人の塔)という大きな塔が加えられたものの、19世紀に破壊された。

このように、神を祭る様式がキリスト教のものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられました。次にトルコに征服されます。

⑤1456年、アテナイはオスマン帝国の占領下に置かれた。すると今度は、パルテノン神殿はモスクに改築された。オスマン帝国は領地の遺跡には一定の敬意を払い無分別な破壊を行わなかったが、それは保全に努めたという事ではなく、戦時に防壁や要塞を建設するために遺跡の石材などを流用することもあった。さらにパルテノン神殿にはミナレットが増築され、その神殿に相当する高さの階段は今でも残ったまま、円柱の台輪を隠してしまっている。
パルテノン神殿はトルコ軍の守備隊の司令部として使われ、エレクテイオンは総督の個人的なハレムへと変えられた。

⑥アクロポリスの建築物は、1687年のヴェネツィアによる包囲による損傷で傷ついた。火薬の貯蔵庫となっていたパルテノン神殿は、大砲による 攻撃によって燃え、激しいダメージを負った。


エドワード・ドッドウェル画『View of the Parthenon from the Propylea』。1821年にロンドンで出版された『Views in Greece』の一葉で、遺跡の間に住居が立ち並ぶ、当時のアクロポリスを描いています。この状態の時に、イギリスの外交官エルギン伯爵トマス・ブルースが、当時オスマン帝国が支配していたギリシャのアテネから彫刻「エルギン・マーブル」をはぎ取ってイギリスに持ち込んだのでした。

今は世界遺産となり、無理く古代アテネの紀元前5世紀の姿に戻そうとしてますが、ネタは遺跡にからの発掘品だけとなると、もうそこにはありません。2500年の史跡破壊があります。
6世紀のギリシャ正教、東ローマ帝国のアクロポリス。11世紀カトリック、ラテン帝国のアクロポリス。15世紀のイスラム教、オスマントルコのアクロポリスと、3つも模型が要ります。そして、それはこの新考古学博物館にありました。残念ながら写真に撮っていませんし、ネットにも転がっていません。

国立考古学博物館

見せ方が国立であり、芸術性の高いものがきちんと展示されています。アテネ以前の物からありますので、ヘレニズム文化から思い出さないといけません。
「ミロのヴィーナス」、「ラオコーン」、「サモトラケのニケ」、「ディスクボロス」、「ドリフォロス」これらは古代ギリシャ美術の代表作ですが、ルーブル美術館やヴァチカン美術館などでしか見れなく、このレベルの彫刻は国立と言えでもありませんでした。

人の形がどんどんリアルになっていくのが歴史でした。クロイソスのクーロスは例の肖像彫刻とおちんちんから実在した人の肖像だと思われます。

『クロイソスのクーロス』紀元前530年頃、大理石
『クロイソスのクーロス』紀元前530年頃、大理石の柔らかさが出ています。
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